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野球ボールを投げられたのに、サッカーボールで返したら、コミュニケーションが成立したこと

ドイツに住んでいた時、観光客に道を聞かれることがよくあった。
よりによって東洋人に道を聞かなくても、、、
と思いつつ、昔から「お人好し」だと半ば呆れられてきた私は相手を無下にすることができず、ひとまず話を聞くようにしてきた。

とはいえ、日本で道を案内するのとは訳が違う。
日本は私にとっての「ホーム」だ。
しかし、ドイツはまだ「ホーム」には成りきっていない。
そして、目の前にいる観光客と思われる外国人にとってもおそらく、この土地は「ホーム」ではない。
つまり、お互いにとってここは「ホーム」ではない。
東洋人に道を聞いている時点で、すでに何かを間違えている。

そして、ドイツに観光に来ている人が必ずしもドイツ語ができるとは限らない。むしろ英語しか話せない場合も多い。
フランス人はフランスではフランス語しか話さないという都市伝説がまことしやかに語られることがあるけど、ドイツの人々はおおよそ英語も話すことができる。というより、英語圏の人よりも英語が上手なんじゃないかと感じることすらある。それぐらい聞き取りやすくてきれいな英語を話す人がドイツには多い。
特にベルリンに行くと、場所によっては聞こえてくるのがほとんど英語であることも少なからずある。
つまり、観光客は英語をある程度話すことができればドイツ旅行を充分に楽しむことができる。そんな観光客は当然英語で私に話しかけてくる。しかしこれが困ったことなのだ。

人によっては上手く切り替えられる人もいるんだろうけど、私はドイツに住んでいる時は完全にドイツ語を話す口になっている。
だから、英語で問われてもとっさに英語が出てこない。
相手が話している英語の内容を理解することはできても話すことができない。
話そうとするとドイツ語が出てきてしまう。
簡単な英語のフレーズすら出てこない。
そんなんだと困ることが多いから、唯一しゃべれるようにしていたのは

  Sorry.I can’t speak english. Can you speak German?
  -ごめんなさい。英語話せないんです。ドイツ語できますか?-

というフレーズ。これを言うとたいがいの人はあきらめて去っていく。
だけど、中には食い下がる人もいるのだ。

ベルリンの地下鉄。場所はアレクサンダープラッツ駅。そこで私は電車に乗り込み、出発の時間を待っていた。
どうやら、駅の構内で大きな工事が行われているために使用できる線路が限られているらしい。そのため、向かいの線路を通る電車が通過するまで出発を待っているようだ。
座席で電車が出るのを待っていると、若いお兄さんが話しかけてきた。その背中には大きなリュックサック。

 ●お兄さん
  I want go to “Friedrichstraße”.
  -フリードリヒ通り駅に行きたいのですが-
 ◯私
  Sorry. I can’t speak english. Can you speak German?
  -ごめんなさい。英語話せないんです。ドイツ語できますか?-
 ●お兄さん
  I can’t German. How do I get to the “Friedrichstraße”?
  -ドイツ語はできない。どうやってフリードリヒ通り駅に行ける?-

あぁ、あきらめないタイプの人だと思い、周りを見渡すとその車両には私とお兄さんしか乗っていない。なるほど、このお兄さんは私に話すしかなかったんだな。
試しに私はそのままドイツ語で話しかけてみることにした。その結果、意外とコミュニケーションが成立したのである。

 ◯私(ドイツ語)
  Dann, Sie müssen in die andere U-Bahn einsteigen. also, die Bahn fahrt auf der gegenüberliegenden Seite.
  -そしたら別の地下鉄に乗らなければいけません。つまり向かい側を走る電車に-
 ●お兄さん(英語)
  Aha, This train is not bound for “Friedrichstraße”.
  -あぁ、この電車はフリードリヒ通り駅には行かないんだね-
 ◯私(ドイツ語)
  Ja, die Bahn fahrt nach “Klosterstraße”.
  -そう、この電車はクロースター通り駅に行くんだ-

そこにどんな化学反応が起こったのかわからないけど、このようなやり取りが続いた結果、コミュニケーションが見事に成立した。ゆっくりと話しながら少し大げさなジェスチャーを付けていたから、それが良かったのかもしれない。

コミュニケーションはキャッチボールに喩えられることがある。自分の投げる球が相手に受け取ることのできないものであれば、そのキャッチボールは成立しなくなるのだ。
もし、自分の投げる球が弱々しいものであれば、まず相手には届かない。
または自分の投げる球が荒々しいものであれば、相手は受け止めることができず、その暴投によって傷ついてしまうことだってあるかもしれない。
だから、相手のことを考えながら柔軟なコミュニケーションを取ることが大切だと、何かの本に書かれていることを小さい頃に読んで、コミュニケーションの大変さを幼心にぼんやりと感じたことを記憶している。

だけど、このベルリンの地下鉄の中で起きていることは、相手が野球ボールを投げているのに、こっちはサッカーボールで蹴り返しているような、そんな「異種球技」。普通の球技とは勝手の違うものだ。
普通の球技では限られた数のボール(だいたいは1つのボール)で遊ぶはずなのに、お互いどこにそんなにたくさんのボールを隠しているのか、返されることのないボールをせっせと相手に渡し続ける。そうすると渡したボールの代わりに異なる種類のボールが返ってくる。

かろうじて相手の「足」は空いていて、こっちの「手」も空いているから、そんな球技が成立する。もしこっちがフリスビーでも投げようとするのなら、相手の2つしかない手は塞がってしまってこの特殊な球技は成り立たなくなるだろう。そして、相手からの投球は無くなるだろう。
全身をフルに使いつつ、適切なボール選択によって、その特殊な球技を実践しなければいけない。

考えてみれば、ドイツの語学学校ではドイツ語で授業が進められる。ドイツ語ができない段階でドイツ語で説明される文法なんて最初は理解できるわけもなく、そのことに絶望感を覚えたけど、不思議と次第に理解してだんだんと授業中の会話に参加できるようになるものだ。

音楽をやっていても似たような経験がある。歌手の伴奏をしたりしていると、音という抽象的なものを介しながらも、その声の様子や雰囲気から歌い手の気持ちをなんとなく理解して、それに合わせられることがある。

そんな経験から、コミュニケーションはその言語をほとんど理解していなくても意外と成立することがあり、そこにはもしかしたら、コミュニケーションの本質のようなものと思われる大切なことが隠れているのではないかと感じた。
つまり、相手の意思を感じ取ってより的確な答えを選ぼうとする、積極的な想像力のようなもの。幼い頃に読み知った、良いコミュニケーションの形のようなもの。

私にいろいろと聞いてきたお兄さんは向かいの線路に電車が来るのを感じて急いで車外に出る。

   Thank you! Bye!
  -ありがとう!またね!-

一瞬まぶしいほどの笑顔を向けながらそう言ったお兄さんは、その重たそうなリュックサックを揺らしながら向こう側の電車に歩いていく。

  Auf Wiedersehen! Gute Reise!
  -さようなら!良い旅を!-

その後ろ姿に声かけると、お兄さんは手を振り返してくれた。


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