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気になる本を片っ端から読む方法

読書とは、思いもかけない所から来る声をとらえることである。
その声は、本を、著者を、文章を超えた、人知れぬ源からやって来る。

───イタロ・カルヴィーノ


普段は300冊。多い時なら500冊
元外交官・外務省分析官の佐藤優さんは、ご自身の読書冊数についてこう述べています。しかもこれは年間ではなく、月間の記録というから驚きです。

外務省での新人時代、短期間で勉強すべきことがあまりに多く、死に物狂いで身に着けた速読法の成果だといいますが、国際的な諜報インテリジェンスの世界で活躍し、”外務省のラスプーチン”とも称された人の非凡さはやはり群を抜いています。


他に多読家といえば茂木健一郎さんや養老孟司先生で、養老先生のお宅にもお邪魔した知人によると、その読書スピードは相当のものであったそうです。


こんな人たちと比べるのも口幅ったいようながら、私も文章を読むのは早い方です。

学校での教科書の黙読や”読書”の際は、時間が余り窓の外ばかり見ていましたし、今も人との書類の読み合わせなど、ほぼペースが合いません。


「それほど眼も動いてないのに、どうしてそんなに早く読めるの?もしかして読んでるんじゃなく、文章を面で見てるとか?」

最近そう指摘され、試しに三行ほどの質問文を書いてもらって、どれくらいの時間で返答できるかという実験をしてみました。

結果、用紙を見るなりの即答に、やはり数行をまとめて認識しているのだ、と座が湧きましたが、私自身もこれは新鮮な発見でした。
速読法を学んだ経験はなく、文章をことさら早く読もうと努めてもいないからです。


思い当たることはといえば、数学者の岡潔が記した「本を早く読むためには、思春期の相当数の乱読の経験が必須である」という一文でしょうか。

かなり初期のnoteにも書いたのですが、高校生になるまで、私が付き合った相手はほとんど本だけです。
体調が優れないため滅多に学校へも行けず、いざ登校したところで友人は皆無です。私はクラス内で完全に浮き、まるで誰の目にも映っていないかのようでした。


自分が様々な意味で世の中と断絶した生活を送っていることは承知でしたし、普通の人が重ねる経験をことごとく取りこぼしている悲しみは、いつも胸中にありました。

それを埋めてくれるのが本であり、孤独を紛らわせるため、フィクションで人生の疑似体験を重ねるために、私は物語の中へ逃げ込みました。


長期間の療養生活の経験がある方ならうなずいてくださるでしょうが、病床での日々ほど変わり映えのしないものもなく、ただ日が昇って落ちるだけの毎日が、ひたすら緩慢に繰り返されます。

そうして一日を一人きりで過ごすのは、誰にとっても耐え難いことです。


そのため私はまだ幼い頃から、絵本や児童文学、次第に年齢にはそぐわないような”大人の本"まで、手に入るものなら何でも読みふけるようになりました。

幸いにも図書館が徒歩圏内だったため、無理をしてでも出かけて行き、制限冊数いっぱいまで本を借り出しました。


映像は平衡感覚を乱して不快な目眩めまいを誘いますし、音は頭に響きます。紙の上で静かに整列する活字だけは、よほど具合の悪い時でなければ横たわっていても目で追えました。

それは単なる楽しみを超え、私にとっての生命線そのものでした。その頃、私は生き延びるために本だけを支えとしていました。


私の多読乱読癖はその頃からで、たとえまとまった時間が取れずとも、暇を盗んでは何冊かの本を同時進行で手に取っています。

大変せっかちな性格ゆえにそれぞれのページを夢中でめくり、その過程で次第に読むペースが加速していったのかもしれません。


けれども私がさらに羨ましく思うのは”カメラアイ”や”瞬間記憶”と呼ばれる能力を持つ人たちです。
一目見ただけで目にしたもの全てを覚えてしまう、ぱらぱらとめくっただけで本の内容がきちんと頭に入ってしまう、というその凄まじさ。

これはほとんど超能力に近いのではとも感じますが、世の中には”メモリースポーツ"なる競技も存在し、大会では"一時間に3238桁の数字を記憶”という記録まであるそうです。


私が知る中では俳優の大竹しのぶさん、元『嵐』の二宮和也さんがこの能力の突出した持ち主で、お二人とも台本を一度も憶えようとしたことがないそうです。

わざわざそんな努力をせずとも、ベージを開けば内容をまるごと頭の中に取り込んでしまえるのです。そして必要な時にはそれを記憶から呼び起こしてくれば良いという、素晴らしすぎる理由のために。

作家の三島由紀夫もおそらくそうで、膨大な蔵書のどこに何が書かれているか、本のタイトルやページ数、段落や行数までも正確に明言できたといいます。


もしこんな能力があればどんな資格試験にも受かるでしょうし、仕事や生活が楽になり、大長編の小説を前にしても怖いものなどありません。

そうなれば私ならひとまず『平家物語』と『南総里見八犬伝』アナイス・ニンの『日記』『ユリシーズ』三度目の『失われた時を求めて』の通読を目論見ます。


もちろん早く読むだけが能ではなく、ゆっくりと味わいながらの読書の時間は格別ですし、たとえどれだけ早かろうと、読み飛ばすだけで内容が響かなければ、全くの無駄でしかありません。

要はそれぞれが自分に合った速度と方法で読むことが一番であり、本来そこにはいかなる優劣もないはずです。
読書とは常にごく私的なことなのですから。

それでも超がつくほどの速読能力が突然芽生え、バルザック全集を半時間で読了するような奇跡が起こりはしないか、こっそり願ってしまうのですが。



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