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4月の詩

時は春
春の朝
朝7時
真珠のごとき露の光る丘の中腹
ひばりは飛翔し
かたつむりはサンザシを這う
天にしますわれらの神よ——
この世はまこと美しい!


19世紀の英国で上演された悲劇の中で、一人の少女が朗らかに歌いながら丘の上を通っていきます。
彼女の名"ピパ"から《ピパの歌》と呼ばれるこの歌は、やがて物語の世界を飛び出し、作者ロバート・ブラウニングに不朽の名声をもたらしました。

舞台の設定は真冬のため、ピパは寒さに震えつつ春の訪れを一心に思い描き、神の御業を讃えます。
その安らかな歌声は、罪人をも改心させるほどでした。

かような憧れを人の心にかき立てる季節の到来について、オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、一世紀ほど前にこう記しています。


春が再び巡り来た

地球は心の詩を知る子どものようだ


◇◇◇


骨身に滲みる、冷たく厳しい冬の寒さ。
それを心底から感じた人ほど、切実にこの季節を待ち侘びるのかもしれません。
たとえば、横光利一の描いた夫婦のように。


彼は花粉にまみれた手で花束をささげるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
「とうとう、春がやって来た」
「まア、綺麗きれいだわね」と妻は云うと、頬笑ほほえ みながらせ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか」
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春をき撒きやって来たのさ」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚こうこつとして眼を閉じた。


春は馬車に乗って』でのこのやり取りは、作中で唯一とも言えるような、心休まる場面です。
長患いの末、自分が死にゆくことを知る妻と、ただそれを傍で見守るより無い夫。
あまりにやるせない状況に置かれた二人にとって、巡り来る季節のもたらす小さな花束に敵う救いは、他の何もなかったでしょう。

仄明るい光そのもののような花と、病室いっぱいに満ちる薫香。
春の息吹を吸い込むように、花の中に顔をうずめた妻は、どのような想いでいたのでしょうか。


◇◇◇


"その名からして一遍の詩の如き"と称されたヴィクトリア時代の詩人クリスティナ・ロセッティもまた、広く世に知られた詩『もう一度の春』において、この季節ならではの心情を謳いました。


もう一度、春に会えたら

夏の花を植えて待つことはしない
私はすぐにクロッカスを咲かせるだろう
葉のないピンクのメジリオン
冷たい葉のスノードロップ
素敵な白か水色のヴァイオレット
葉に縁取られたプリムローズ
すぐにでも花咲くものを植えるだろう

もしも、もう一度、春に会えたら──
ああ、"もしも"ばかりでついえた私の過去──
もしも、もう一度、春に会えたら
その時こそ微笑もう、つかの間の日に
もう何も待つことはせず
はかない日を生き
愉しみ、歌おう


咲き乱れる花々と、華やかな景色の奥に潜む暗さと苦さ。
詩人がどんな人物を思い浮かべていたのか、今ではもう定かではありません。
けれどもこの詩に描写される、春の陽光の翳のごときうずきは、誰しもがおぼえのあるものではないでしょうか。


◇◇◇


そんな心の在りように洋の東西や性別の隔たりはなく、奇しくもロセッティと同時代に生きた洋画家の高橋源吉は、まるで詩さながらのこんな一文を残しています。


咲きみだれる

春の花々のあいだから
きよらかな風が水のようにながれてきて
わたしはしみくるかなしみを感じ
花々の 樹立の奥へ消えたいと思った


あまりに有名な画家を父に持ち、その父の画業を手伝いながら、自らも絵筆やペンを握った源吉。
けれど父の死と自身が関わる美術団体の解散により、人知れぬ放浪の旅へと向かいます。

以後、二度と元の場所には帰らないまま、旅先で客死した画家の生涯を思う時、この眩惑的な文章は格別の哀惜を帯びるようです。


◇◇◇


あまりに深い苦しみの淵に立った時、人は春の麗しさすら厭わしく感じるものかもしれず、目もあでやかな花、柔らかく澄んだ光は、一層の厭世的気分を誘うのでしょうか。

もとより、あまりに短い春の訪れは無常の証でしかなく、刹那のはかない歓びを与えてたちまち飛び去る季節は、どこまでも虚しいものなのか。
T・S・エリオットの言うように「4月は最も残酷な月」か。

その問いに対する答えは、ロシアの作家ウラジーミル・ナボコフの言葉の中に記されています。
それを心からの信頼でもって受け止める時、この季節の真の美しさは、私たちにとって永遠となるのかもしれません。


花は枯れ、朝の光は去り、幸福は終わる

けれど、私たちには、残像が残る
私たちは、花の、朝の、幸福の、残像の集積なのだ
目を閉じる時、目を開く時、幸せな残像と共にありますように

ウラジーミル・ナボコフ




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