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幸福の科学版「強くてニューゲーム」(レビュー:『二十歳に還りたい。』)

オススメ度:★★★★☆

孤独な日々を送る80歳の男は突然、20歳の青年に戻った。目の前には、見知らぬ風景が広がる──
一代で大企業を築き上げ、世間から「経営の神様」として尊敬されていた寺沢一徳は、引退後、高齢者施設で孤独な日々を送っていた。
唯一の慰めは、施設を訪れる学生ボランティアの山根明香。
晩秋の夕暮れ、明香と散歩していた一徳は、自らの過去を打ち明ける。
社会的な成功の影で家族運に恵まれなかった人生。
彼の話に深い悲しみを覚えた明香は、夕日に向かい、神様に彼の願いを一つだけ叶えてほしいと祈る。
そんな彼女も失恋の痛みを心に秘めていることを知っていた一徳。
彼女のために、何かできれば。もう一度、二十歳に還りたい──。
そう願った瞬間、一徳は見知らぬ大学のキャンパスで二十歳の青年となっていた。これは現実なのか?
一徳は、今度こそ悔いのない一生を送ろうと、夢のような「第二の人生」を歩みはじめる。

https://hs-movies.jp/hatachi-kaeritai/

 友人から都度チケットをもらっている関係で、私は幸福の科学映画を上映されるたびに毎回見に行っている。

 私の視聴動機はかなり「幸福の科学ウォッチ」なところが強い(私は昔は宗教をテーマに本を書くくらい宗教学に興味があった)。確か最初に見たのが『神秘の法』(2012)だったと思うので、かれこれ10年以上、映画館に足を運んでいることになる。今は半ば義務感で見ているところがあるのだが……。

 正直、今回も「うわぁ、『リゾートバイト』始まってんじゃん。こんなの見てる時間で絶対に『リゾートバイト』を見るべきでは……」と懊悩した。だが、見てみると、これがびっくりする程にクオリティが高く、正直、ちょっと感動すらしてしまったのだ。

■マス向けに近づく幸福の科学映画

 前提として、近年、幸福の科学映画はどんどんマス向けに調整されている。昔の幸福の科学映画は説教臭く、宗教思想をセリフでだらだら垂れ流す代物であった。分かりやすい「悪人」が「悪魔に憑かれている」として出てきて、大川隆法氏をモデルにしたであろう人物に調伏されたりする。

 外形的にアニメにしたり、流行り物の装いを取っていても、そういった宗教色が唐突に強く出てくるので、どうしても「宗教映画然」としてしまっていた。なので、「これは身内ウケしかしないだろ」「マスの評価はとても得られないだろう」と感じていたものである。

 だが、その特徴は年を経るごとに少しずつ薄まっていった。前作の『レット・イット・ビー 〜怖いものは、やはり怖い〜』などはかなり「一般の映画」に近いものとなり、そして、本作『二十歳に還りたい。』では、ついにその幸福の科学映画の悪癖がほとんどすべて一掃されたのである。

 キャラクターの造形も見事で、「分かりやすい悪人」というものがほぼ出てこない。みんな等身大でダメであり、等身大の良いヤツであり、ひっくるめると「結構いいやつ」なことが多い。誰かが誰かに説教をしたり、宗教的な「真実」で押さえつけることもなく、対人間の軋轢や葛藤は相互関係の中で穏やかに解決されていく。ややご都合主義的なところはあるが後味は爽やかだ。ここまでバランスの良い映画は一般作品でもかなり上澄み、上質の部類であろう。

■第二の人生で見つけるべき「なにか」

 さて、ここまでの代物を提出されたなら、私としても、もはやウォッチ気質で作品を語ってはいられない。本作の打ち出す問題意識を、真正面から論じるべきだろう。それは幸福の科学からすれば「してやったり」ではあろうが、その誘いに今回は乗ろう。そのくらいの敬意を払うべき作品だと感じたので、今回は真っ向から批評したい。

 まず、あらすじで、

> 一代で大企業を築き上げ、世間から「経営の神様」として尊敬されていた寺沢一徳は、引退後、高齢者施設で孤独な日々を送っていた。

「寂しい老人」として否定的に書かれている主人公の寺沢であるが、しかし、彼のパーソナリティは決して「虚飾にまみれた人生を送った敗北者」という単純なものではない。

 なんと言っても、彼は成功した大企業の元経営者である。高齢者施設で孤独な生活を送っていることはそれはそうなのだろうが、その施設は衛生的で職員も甲斐甲斐しく、明らかにハイレベルである。彼の私室には経営に関する書物が並んでおり、彼がその年になっても読書などの趣味を楽しんでいることが分かる。

 さらに、家族は誰も彼を訪れず孤独ではあるが、経営者としての彼を尊敬する女子大生(明香)が個人的に彼の元を訪れて話し相手になってくれる。そして、その明香が劇中で言っていた通り、「企業経営を通して数千人の社員の食い扶持を稼いだ」という点も紛れもない事実なのだ。

 主人公の寺沢は家庭人としては失敗しており、「寂しい老人」ではある。しかし一方で、住環境、介護者、趣味、若者との交流を現在も確保している。さらに、かつては数千人の部下を食わせていたという実績も持つ。家庭人としてはダメ親父だったが、彼には実績があり、今も多くの物を持っているのだ。寂しいことは寂しいのだろうが、彼は客観的に言えば十分に「恵まれた老後」を過ごしている。

 そんな主人公が二十歳に還った時に「さらなる幸せを掴むためにどうするのか」というのが本作の主題であり、問題提起なのだ。

 これは全く簡単な話ではない。むろん、回答自体はシンプルに「利他心」であろう。それは作中でも語られているし、利他心から得られる他者との繋がりが幸福へと至るというロジックは容易に見て取れる。だが、ここで問題となるのは「では、これまでの寺沢に利他心はなかったのか?」ということだ。

 前述の通り、大企業の経営者としての寺沢は、事業家として数千人の社員を食わせる立場にあった。その立場で仕事に邁進していた寺沢に利他心が一切なかったとは言えないだろう。寺沢は働きすぎで家族関係がおざなりになり、それが一家離散の原因ともなったのだが、ここには一種のバーターが存在する。数千人の社員への責任感(利他心)と、家族への思いやりの両立が困難であったということだ。

 また、寺沢の家族への無理解・無関心は確かに問題ではあるものの、彼は浮気やDVなどには手を出しておらず、経済的には家族に何不自由させていなかった。「家族を飢えさせない」というのも一つの利他心であろう。家庭人としての寺沢も完全な失敗者ではなく、いくばくかの善性は備えていたのだ。

 繰り返すが、寺沢の家族への態度にはやはり問題はあった。だが、それは「完璧ではなかった」という意味合いが強く、簡単に非難できるものでもない。彼は彼なりに一生懸命にやっていた。実績を残したし、社員も家族もしっかり食わせた。ただ、人間である彼には何もかも100点を出すことはできなかったのだ。非常に「人間らしい」レベルにおいて彼は失敗していたといえる。

 この極めて高度なレベルでの「失敗」をどのようにリカバリーするのか、というのが本作である。現在の知識や経験を持ったまま二十歳に若返る……いわゆる「強くてニューゲーム」ではあるが、クリア目標も相当に高く設定されている。以前の人生と同じように「大成功」をしたとしても、それで至る先は結局今と同じ「なにかが虚しい老後」になりかねない。単に若さと可能性を謳歌するだけでなく、二度目の人生では今の老後に欠けている「なにか」を見つけなければならないのだ。

 この「なにか」を利他心だというのは簡単だが、実際にどのように利他の気持ちを持てば、その心の空隙が埋まるのか? 社会的・経済的な成功以上に、自分の人生を全うさせ、完成させる最後のパズルのピースはなんなのか? 家族が笑顔で面会に来ればそれでゴールなのか? いや、そういった外形的な「幸せ」以上の何かがあるのではないか……?


■利他の描写の問題点

 このような実存的な追求が本作のコアとなっている。この問題意識の提出自体は見事なものだ。これが幸福の科学の宗教思想に沿った問題意識なのだとしたら、プロパガンダ映画としても上質と言える。

 だが、問題提起が上質なだけに本作のアンサーは残念なものだった。本作では終盤で「利他」の形が実際に示されるのだが……

 それは、主人公の婚約騒動(フェイクニュース)で混乱したヒロインが、自殺を仄めかしながら主人公に求婚するというものだった。主人公は若返った際に神的存在から「30歳までは結婚しない」という制約を課せられる。それを破ってしまえば、今の若返り生活はその瞬間に終わってしまうのだと警告されている。

 つまり、主人公は順風満帆、大成功を収めつつある第二の人生を投げ捨ててでも、ヒロインの命を救えるのか、という流れで「利他」を示すプロットとなっている。「大成功」自体は一度目の人生でもすでに達している。二度目の人生では、ここでさらに+αの「なにか」を得なければ意味がない。

 主人公は結婚の申し出を受け入れることでヒロインの命を救う。利他的な動機ではあったが、特に神からは何の恩赦もなく、第二の人生はその瞬間に終了。容赦なく現実へと引き戻される。しかし、この第二の人生の最後で、「なにか」を得たことで、現実の主人公の「寂しい老後」は変化する……大成功よりも得るべき「なにか」があったのだ……というロジックである。このロジック自体はとても良い。良いのだが……

 しかし……自殺未遂は良くない!

 良い映画だったので私は真正面から批判するが、「ヒロインの自殺未遂」はあまりにも強すぎた。主人公は自分の人生を投げ打ってでも利他を為すわけだが、その対価として「ヒロインの命」は高すぎたのだ。

「Aを贖うためにBを差し出す」構図において、AとBの価値がほぼ同等であれば、そこにショッキングさは生じない。イエス・キリストは人類の罪を贖うために十字架にかけられたが、「神の子」と「人類」が釣り合わないからこそ、そこにはショッキングな驚きが生まれる。ヒロインの命を救うために自分の人生を差し出すのは十分に高潔な行為ではあるが、しかし、それはある種の等価交換であり理解も想像もできる話なのだ。

 それに加えて「自殺を仄めかしながら求婚してくる女はヤベえ」という単純な感覚が付随する。あまりにヤベえ。結婚した後も苦労すること請け合いだ。ヒロインはここまでかなりバランスの取れた、辛抱強いキャラとして描かれてきた。視聴者の好感度も高かったと思うが、ここで一気に好感度が下がってしまった。

 それにより、「こんな女のために人生を投げ出すのか……」「いや、投げ出さざるを得ない状況に追い込まれるのか」といった感覚がどうしても生まれてしまう。やむを得ない事情で命の危機が生まれたわけでもなく、本人の一時的な混乱にすぎないし、それの尻拭いを行うことにも疑問が生じしてしまう。「いや、そこまで含めて利他の精神なのだ」と言われれば、それはそうなのかもしれないが……。

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