へんてこなキーホルダーたち。
いつからだろう、僕がへんてこなキーホルダーに目がいってしまうようになったのは。
僕は基本的には電車通勤で、朝は座れないことが多い。
ニュースでみるような東京駅の人ほどではないが、リュックのときは、もちろん背中からおろして足下に置くし、常に空間がある方へ移動をする。一応気を遣いながら乗っているのだ。
次の駅へ到着した時、座れていない人達の目が一瞬にして変わるのも知っている。目をみなくてもわかる(というかそんな雰囲気が漂っている)。
僕も、次の駅へ到着したらこの人は降りるのだろうと、先端恐怖症の人でも恐れないほど全く鋭くない洞察力を駆使して見抜こうとするも、結果降りる降りる詐欺に合うことがよくある。
そんな時、ふと鞄についているへんてこなキーホルダーたちに出会うことがあって、それはバランスの悪いくらい目ん玉が大きなものや、愛嬌たっぷりなレタスのようなものや、上手く例えようがないものと、印象には残るのに(へんてこという)、あまり明確には思い出せないものだった。10年前とかにみた映画のようなものだ。
へんてこなキーホルダーたちはそれだけでもインパクトがあるのに、それを付けてるいる人が真面目そうな男子高校生とか、とても綺麗な女性とか、ギャップを感じる人が多い気がする(完全に僕の偏見だろうけど)。
各種各様にある中で、何故これを選んで鞄につけているのだろうと考えるとキリが無い。
鞄に付けているキーホルダーで人となりが、それとなく分かる気もするから余計に考えてしまう。
好きな女の子とお揃いなのな。友達とガチャガチャでもしてその流れで一時的に付けたのか。姪っ子からもらったものなのか。気付いたら憑いていたとか。
そんなどうでもいいことが気になってしまう。それと同時にそのキーホルダーたちの効果なのか、その人らの親にでもなったかのような優しい気持ちにもなることがある。
それは学生がお年寄りに席を譲っているのをみて、ほっこりする感覚に近い。
だけども、お年寄りが「まだそんな歳じゃないよ!」とか言うんじゃないか。それを言われたことによってその学生は二度とお年寄りに席を譲る勇気を無くしてしまうんじゃないかとか。僕なら譲っていたのだろうかとか。勝手な心配をする恐れもないから安心だが。
だから僕はへんてこなキーホルダーたちが好きなんだ。そしてへんてこなキーホルダーたちに限らず、へんてこなものをみると優しく気持ちになれるから、すぐさま写真を撮り、″日常フォルダ″に記憶として保存している。それは僕の抽斗としても大事な記憶としても重宝している。また機会があれば載せていきたいと思う。
話は戻るけど、実際にそういったキーホルダーは好きだけど、僕は鞄に付けることはないと思う。僕はみるのが好きなだけであって、キーホルダーとして付けたいとは思わない。
引き寄せの法則なのか、僕もへんてこなんだなと思いながら、そんな僕の話が好きな人がいたらそれもまたへんてこな人だったりしてね。
へんてこなこの話はここまでで。