工場の散文。

5年以上工場で働いている。貴重な20代の大半を過ごした事になる。毎日特に思い入れのないそしてニッチな製品を作り続ける。そして社歴の巧か生産の管理までやるようになった。それも今まで通り現場に入りながら。給料はいわゆる入社後平行線っていうあれで心身の負担が増える。正直言うと1日立ちっぱなしでの肉体労働がかなり来る。心と身体っていうのは密接につながっていて、身体の調子が悪いと精神衛生も悪くなる。身体が疲れているともう何も出来ないのだ。思考もぼんやりとしてくる。現状の疲れを取るだけで精一杯になる。そして心まで乏しくなってくる。(些細な事に苛立つ)そういった状態になるが、周りの人からは「誰にでもできる仕事」とかよく言われる。確かにそうだと思う。でもその「誰にでもできる仕事」でこんなに疲弊しきっている自分って。とかそれすらもうまく出来てないな。とか思ってしまう。友達とは距離を置くようになった。

労働というのは時間を捨てる事に慣れる事、そんな側面があると思う。特にこういった無為にも思える作業には。じっと耐える。すぎるのを待つ。心を殺しながら。そして問題は、日常生活にもそれが侵食してくる事である。心を捨て慣れたまま休みの日まで。そして新たな人格が形成される。心ない人間。思えば最近、筋肉の収縮みたいな笑い方しかしていない。どこかフィルターがかかっていて没頭が出来ない。振り返ればそれはそうだと思う。1日の大部分を没頭も熱中もせず、捨て続けているのだ。一番多く過ごしている人格なのだ。デフォになる。

ここで人格について考えて見る。自分は平野啓一郎さんの書籍を読んで、「分人主義」というものを採用している。説明すると、相対している他者との間でその都度自分の性格が決まる、というものである。これは本来の自分がいて、場面によってキャラを使い分けている、という考えではなく、どの人格も本来の自分である。という考え方だ。そこから転じて、どの人といる時の自分が1番好きか、という話にもなってくる。この話を聞いた時は、すごく救われた気がした。対人がうまくいかないのは自分のコミュ力が低いからなんだ、といって悩む事が多かったけど、その相対している関係が良くないってだけ、分人化に失敗しているだけなんだと思うと心が軽くなった。

転じすぎたので戻ってみよう。引用までして言いたかったのは、1番多くの時間を過ごす自分が良くない自分だと、、、よくないよねって話で。とても語彙がなくなってしまった。だけどそういう事で。環境要因っていうのは本当に大事だなって思う。周りにはいい人、好きなものを据えていきたい。いい加減いい大人なので選べると思う。

簡単に辞めたり出来る性格ではない。わりとどんな人にも躊躇ってあるはずだ。でもさっきの分人主義の話からも言えるけど、1日の時間の使い方っていうのも少しでもいい感じの自分で過ごす事が出来るのなら、違う場所を見つけるのがいいと思う。

つくづく労働というものは。成長を謳うが、実際は人を退化させる側面が大きい。その仕事においての効率化は確かに出来るかもしれないが、それって機械に近づくってだけだ。

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