見出し画像

ドーナツ。

「じゃあ、今日人生が終わるとしたら、あなたは何を食べるのかしら」
「ドーナツと、熱くて苦いブラック・コーヒーだね。いまのところ」
「ドーナツ」
彼女はそう呟きながら、遠ざかって行くバリスタの背中を何か言いたそうに追っていた。今注文したばかりのマロッキーノを後悔しているのかもしれない。
「ドーナツ。そうね。わからなくもないわ。ところであなたはドーナツの何処がそんなに好きなのかしら?」
「穴だよ。空洞と言った方がしっくりくるならそれでもいい」
「空洞。なにもない。でも、空洞がある」
「その通り。空洞がある。でもそこには何もないんだ。いいかな、大事なのは空洞の扱い方なんだ。そこを何で埋めるか。それとも、埋めないままでいるのか。自分という器と、そこにある空洞をどうするかが生きるという事なんだと思う。一方で、そんな事を考えているうちに、ドーナツは食べられて空洞を失うんだ。そしてそこには"本当に"何もなくなる。だから人生の最後には、ドーナツを食べるんだ」
「きっとその頃には、ブラック・コーヒーもドーナツとの半生のハイライトを終えたあたりね」
「そうかもしれない。あと、ドーナツは、いくら煌びやかにデコレーションしようとしても乗せられる飾りの量には限界があるんだ。そんな時、どうしたらいいと思う?」
「ドーナツ自体を大きくする。あるいは、そもそも装飾は今の大きさに合った量にする。違うかしら」
「その通り。しかしドーナツ自体を大きくしたらどうなるか。穴も大きくなるんだ。ドーナツとしてのマナーと品位を保つ形状で大きくする前提だけれど」
「身の丈以上に飾っても、穴がぽっかり大きくなるばかりということね。いかにもあなたらしいわ」
「それは褒められているという事かな。それなら嬉しいけど」

それに対する返事は無く、彼女はマロッキーノの表面にまぶされたココア・パウダーを一生懸命見つめていた。僕には見えない小さな恋愛おみくじでも浮かんでいるのかもしれない。
「ところで、このお店、カフェトリエと言ったかしら。ここも元々は何もないスケルトンだったのよね。その空洞をあなたはこういうふうに埋めた」
「そうだね、当時は完全な空洞とは言えないものの、夏なのにひんやり冷たくて、空気が止まっていたように思う。そして、その静かな空間には、果てしなく重く不透明なものと、時間を超えた希望があったようにも思う」
「今は、心地よい風が流れているわよ。少なくとも私にとってはね」
「それは嬉しいな。正直言って、僕的に、とても」
BGMが途切れ、店内には沈黙と共にバリスタがスチームをふかす音が響いた。
"女性は怒りたい時に怒っていて、そして怒りたい時に怒らせておかないと大変なことになる。嵐とか竜巻とか噴火みたいなものだ"と語っていたエッセイを思い出した。きっと返事に関しても大方おなじような事なのだろう。返事はしたい時にだけさせないと、男は瓦礫と岩石に敷かれることになる。

「たくさんの仲間がここに、心地よい風と、健やかな時間の流れを作ってくれた」
「そのようね、わかるわ。必死な人には、きっと優れた人があつまる」
「あるいはそうかもしれない」
店内にはもう我々ふたりとバリスタ以外誰もいなくなっていた。BGMのダイアナ・クラールがもう子供がほとんど起きていない時間を告げていた。バリスタが、エスプレッソ・マシンの電源を静かに落とした。
「そろそろ切り上げようか。もう夜も遅い」
「そうね。楽しかったわ。とても」
「ねぇ、また会えるかな。もし君がよければの話だけれど」
彼女は、自分が隠したネクタイピンを探す父親を見る少女のような満面の笑顔を見せて、何も言わず店を出て行った。
ドアが閉まると、バリスタの男が堰を切ったように吹き出して笑った。

(つづく)
※スケルトンになりました。内装工事はじめます

===========

これは、カフェトリエをオープンする前、もう3年半前、ちょうど物件がスケルトンに解体され、何もなくなった日に書いて、個人のブログサービスに置いておいた習作駄文であります。

ドーナツは、私の好物であり、苦いコーヒーと、色気の無い無骨なオールド・ファッションなドーナツの組み合わせには、春のうららがあると信じて生きてきました。2つを行き来するたびに、うらら。

苦いコーヒーと、オールド・ファッションなドーナツの組み合わせにもきっと、直接的な言葉にできない役割があるんですね。

全てのものは「役割」を担って生きているわけですが、悩むらくは、「役割」が当人の「やりたい事」や「好きな事」と、必ずしも一致しない事ですね。

苦いコーヒーと、オールド・ファッションは、どんな事が好きで、どんな事をやりたかったんでしょうかね☕️🍩まぁ、そんな事言わせる間もなく食べてしまうんですけど。


 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?