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完全な音楽のために

1888年、15歳のレーガーは初めてバイロイトに行き、そこでパルシファルとマイスタージンガーを聴いて、その生涯を音楽に捧げる決心をした。

同じ年の夏休み、室内アンサンブルのための120ページに及ぶ交響曲を書いたレーガーを見て、両親は有名な和声理論家であり作曲家のフーゴー・リーマンのもとに15歳の息子を連れて行った。
リーマンは15歳のレーガーの作品を見て、ワーグナーの影響の強すぎるのを早速問題にし、「モチーフではなくメロディーを書きなさい」と言いながら、レーガーに和声と対位法の極意を叩き込み始めた。

レーガーはリーマンの教えを素直に受け入れ、まだ18歳にもならないうちにロマン派を逸脱したヴァイオリンソナタ 作品1を書き、翌年には師匠リーマンもたじろぐ完全な枠組みの中で数匹の虎がランダムにアクロバットを織りなして進行するようなチェロソナタ 作品5を書いた。

レーガーはすでにリーマンの檻の中にはおらず、ワーグナーそしてとりわけ禁じられていたフランツ・リストの音楽の研究を密かに終えていた。

22歳の時、レーガーはリスト主義者ブゾーニ、そしてリストの交響詩の後継者リヒャルト・シュトラウスに自作の楽譜を送り、交友を深めた。その一方で、ブラームスには交響曲 第1番を献呈し、ブラームスから歓迎のサイン入りプロマイドをもらった。

その12年後にはライプツィヒの音楽院長となり、作曲家としてもリヒャルト・シュトラウスと比較されるほどの存在となっていたレーガーの、破綻と栄光が複雑に絡み合って43年間に凝縮された人生、ポリフォニーとモノフォニ―の境目が見えない広大な音楽については、ひととおりの説明ではまったく追いつかない。

1914年、代表作の一つであるモーツァルト変奏曲が生まれたピークの年に、レーガーは3つの無伴奏チェロ組曲を書いた。クレンゲルとベッカーとグリュンマーという当時を代表する3人のチェリストにあてて、ブラームス流に「よろしければレッスンで使ってください」と書き添えて献呈した3つの作品は、完全なコンサート用の独奏作品集ではないかと最近になって思うようになった。
なぜなら、この3曲が連続して演奏される場に居合わす者には、音楽作品そのものについての前知識はまったく必要がないと思われるから。その3曲の流れの中に、音楽がそこで生まれ、音響と技巧がしだいに輝かしさを増していく様子が大きく弧を描き、その水平線にあるすべての船の帆が転換して、未来に向かう大きな風を呼び込む体験を誰もがすることになるのだから。

ここに何が描かれているかではなく、この音楽がこれからこの世界に何を描くのか。そのような未来の音楽を聴く公演を、いま実現したいと思う。

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21年2月21日(日) 18:00開演
「M.レーガー」
チェロ:金子鈴太郎



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