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100年目の出来事

モダニズム建築の祖、アドルフ・ロースは1905年頃にシェーンベルクと知り合ってから、12音技法の誕生の時期までをつぶさに鑑賞していた。

レンブラントの筆使いについては、その同時代の人たちはレンブラントの絵を見て鋭く嗅ぎ分けたものだが、レンブラントの画集をペラペラとめくって見る後世の人々には、それがまったくできない。
(『A.シェーンベルクと同時代人』 A.ロース 1924 )

ロースはレンブラントが「夜警」を描いたときに、作品が当時の人々に与えたショックを現代の人は想像することが出来ないという意味で、このように書いたのであった。

レンブラント自身、なにも変わっていないし、新しい突飛なものを描いたわけでもない。―かくして人々がレンブラントの絵に共感を抱くようになるまでには、その後三百年を要した。(同上)

その上で、シェーンベルクの12音技法による作品を聞いて、「グレの歌」と同じ作曲家によるものとは思えないと訴える聴衆に対しても、同じことが言えるのだと主張する。

シェーンベルクの同時代人たちが何故、シェーンベルクのやることに首を傾げ、理解できなかったのか、これを人が首をひねって不思議に思うようになるまでには、多分、数百年を要するだろう。(同上)

この言い分は、まず二つの方向の悪口を含んでいる。
1. 同時代の芸術を理解しない人に対して。
2. 画期的な芸術の飛躍の驚きを感得できなくなった、後世の人に対して。

例えば、自分がもしベートーヴェンの時代に生まれていたとすれば、よほど運がよくない限り、ベートーヴェンの音楽を同時代の音楽として理解することなどできなかっただろうということは、容易に想像が出来る。
また、いまの時代に生きながら、ベートーヴェンの音楽を当時あったであろう驚きを持って聴くことも、そうそう出来ることではない。
つまり、ベートーヴェンの音楽を正当に評価するというさえも、理論上は不可能だということを、ロースはとても短い言葉で表現しているのである。
ヘーゲルが音楽に関して、まさにこの問題について書いていたのであったのだけれど、それが「ヘーゲルは音楽を理解しない」に置き換わってしまうのだとすれば、なんとなく申し訳ない気もするのだ。

シェーンベルクがピアノ組曲 作品25を書き始めた1921年が、12音技法誕生の年だとすれば、今年はちょうど100周年となる。

シェーンベルクの作品が、実はヘーゲルのパラドックスにひとつの回答を与えるものではないかという気がしている。
12音技法で作曲された彼の作品は、人が想像するような厳格な響きではなく、むしろ情感をもって、時にはくだけた表情でこちらに向かって、何かを歌っている。

平坦な印刷物に囲まれた現在の生活の中では、20世紀初頭のシンプルな点と線で構成されるモダニズムの作品からも、血の通った人間の手による温かい滲みが先に感じられる。

シェーンベルクの作品には、確かにその少し前にはブラームスが生きていたという時代の滲みが存在しているように聴こえる。

100年はまだ短い。そう言えるのだとすれば、いまこそ12音技法を聴いておきたいと思い、エンヴェロープ弦楽四重奏団のシリーズには新ウィーン楽派の3人全員による12音技法の作品が組み込まれている。

時代の証言、そのようなものを残すことが出来るチャンスは、そうは巡ってこない。チャンスがあるのだとすれば、それをつかみに行きたいと思う。

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エンヴェロープ弦楽四重奏団 第4回公演
2021年1月18日(月) 20時よりストリーミング配信

【出演】
ヴァイオリン:石上真由子 - 1st for Schoenberg
ヴァイオリン:佐藤一紀 - 1st for Beethoven
ヴィオラ:叶澤尚子
チェロ:福富祥子


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