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幸せって不自由だ。

人は皆、自分の責任が及ばない事に対しては無関心で、無関心だからこそ、言いたい事が言える物だと思う。

私の友達は太っているというキャラクターを自分で売りにしていると見せかけて、太っていることをいじられる事が嫌いだ。
本当はかっこつけでただ優しい彼は、心ない言葉で傷ついて、必要以上にその穴を埋めるために食べてしまう。気楽だね、悩みがなさそうだね、何も考えてないね、なんて言葉全てが、きっとあの子の心臓深くに突き刺さり、苦しくなって、脳内からエンドルフィンを分泌させようとして、また沢山食べてしまう。

だからストレスが溜まれば溜まるほど太る。そしてそれを罵られて、更に太る。

私は彼が太っているかどうかよりも、ただその場を盛り上げるために笑わせようとしたり、沢山喋って頭を回転させ続ける事の方が心配で、痛々しくて、一緒にいる時に、言葉を失ってしまう。

昔、そんなに周りに親切にサービスするの、やめたら良いじゃんって言った事がある。そしたら、その子は、他人が求めてる自分でいた方が、自分が楽なんだよって、そう言った。
もう本当の自分が分からないと言っていた。

人は隣の人には無関心だ。
だから好き勝手に色んな事を言ってくる。

若い頃は早く結婚しなよって言われた。結婚したら今度は、早く子供産みなよって言われた。最初の旦那とは数年以上レス状態で、次の旦那とは私に病気の疑いがあって、なかなか妊娠出来なかった。子供産みなとか、結婚しなよって煽っていた人たちは、私が離婚した途端、何も言わなくなったし、病気だからって言ったら何も言わなくなった。

何も、言えなくなったんだと思う。

私は、こうゆう哀れみ的なコメントをされた時に、人間ってなんだろうってよく思うのだ。
何のために「皆が言う普通」になって、何のために生きるのか。

いまでも毎日考えている。何のために生きるのか。考えてるから死にたい訳ではない。でも何のために生きてるのかなあって思う。

私はすでに、意味がないから死にたいと思っていた時期は過ぎ去ったけど、今でも死にたいと思っていた、あの頃、兄に言われた事を思い出す。

「何のために勉強して、何のために生きてるの。意味ないのに。」

と聞いた私に、兄は言った。

「一瞬の快楽の為に。幸せは長く続かない。続かないから欲しくなる。どんなに好きな人と結婚していても、付き合っていても、ずっと幸せにはならない。一瞬しか訪れない幸せを、ずっと求めながら長く続くように生きる。

人によって幸せの定義って違うと思うけど、ああ、幸せだなぁって思うのって一瞬だと思う。」

あの頃はなんて不毛なんだろうと思ったけど、いまは少しだけ意味がわかる。

どんなに幸せに見えていても、人間は24365で幸せなわけじゃない。だからやっぱり皆幸せになる為に生きてるのか。不毛だけど、それでも、ただ生きるよりも、幸せを目指して生きた方が、幾らかマシって事なのか。

幸せの形なんて人それぞれだ。

子供ができてから、自身でコントロール出来ない危うい存在を持っている事にひどく不安を感じるようになった。

子供が生まれるまでは、高いジャンプ台に飛び出す事も、すごい速度で崖から飛び降りる事も、10mの海の底に潜る事も怖くなかったのに、今では私はスノーボードで滑ることも、深海に素潜りする事も、怖くてできなくなった。
死にたくないって思ってしまう。

子供は、こんな不自由さと引き換えに得た幸せなんだと思う。幸せって不自由だ。
手に入れた瞬間から手放さないかを不安に思うから、どうじに不自由が手に入る。

だから人は、自分で選んだくせに、自由な人を見るときに羨ましくて、自分の方に寄せるような事を言ってしまうんじゃないかって考える。

でも兄は自分は幸せだと言う。

逆に女の子の友達は、私は不幸だと言う。夫に理解がないから辛いという。そう言いながら、SNSには幸せそうな家族写真をあげていく。

人間ってないものねだりなんだなぁって思う。
色々考えると喋れなくなる。面倒で仕方なくなる。喋らないとそのうちにわがままだとか、自由だとか色んな評価をされるようになる。

あの子みたいに他人が求めている自分になれたら楽になれるんだろうか。

結局、私は今でも何のために生きるのか分からなくて、ただひたすらに時間を消費するために生きてしまう。何でもない毎日が幸せだと思いながら。