86歳が綴る戦中と戦後(2)東京市が「都」になる

1943年、私は中野区立野方国民学校の3年生になりました。

この年の7月、東京市は東京都と名称が変わり、区の数は35となりました。

当時の人口は約6800万人ほど。現在の半分以下ですね。
当時まだ保谷、武蔵野、三鷹はまだ町で、市にはなっていません。狛江などはまだ村でした。


当時の報道は新聞とラジオだけでしたが、毎日のニュースは日本軍の快進撃と勝利の報ばかり。


実はミッドウエイ海戦で大敗してからは苦戦が続いていたのに私たち国民は何も知らされていなかったのです。
南方の島々がアメリカ軍に占領されてからはそこを基地として日本の上空にアメリカの爆撃機や航空母艦からの艦載機が飛来するようになりました。

記録によると東京への最初の空襲は1942年4月だそうですが、まだ新聞など読まない子どもだった私には全く記憶がありません。
その頃から灯火管制と言って夜は灯りが外へ漏れないように電灯を黒い布で覆っていたのは夜間の空襲を怖れていたからでしょう。


一人っ子だった私はその暗い灯火の下で父母と3人でよくトランプをして遊んだのを覚えています。唯一の楽しかった思い出です。

町では白い割烹着に「愛国婦人会」と書かれたたすきをかけたおばさんたちが街角で「贅沢は敵だ!」とか「欲しがりません、勝つまでは!」なんて叫んでいました。
化粧をしたりパーマをかけた女性などを見つけると、この時とばかり「正義」の化身となって居丈高に糾弾する姿は、現在の自粛警察に相通ずるものがあります。

父は大学を卒業後水産関係の新聞社で記者をしていたそうですが、その後友人と独立して当時の京橋区湊町(現在は中央区湊)に「水産経済研究所」という名前の会社を興し、中野駅から神田まで省線電車(今の中央線)で行き、そこで地下鉄に乗り換えて「京橋」で降り、そこから1キロの道を歩いて通っていたと思います。


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