86歳が綴る戦中と戦後(4)学童疎開

飯坂温泉のホテルや旅館はどれも5,6階建てで大きな川に面して並んでいました。


川の方から見ると5,6階なのですが、反対の道路側から見ると2階建てです。
つまり4階が玄関になっており、客室へは階段を下りて行く形になっているのです。
一番下が大浴場になっていました。

客室にそれぞれ6人から8人ずつに分かれて暮らすことになりました。
私の部屋は8人だったと思います。
8畳くらいの部屋に板の間が付いていて、手すりから下をのぞくと真下に川が流れています。
その板の間の端には棚があってそこに各自の洗面具を入れた洗面器を並べ、夜は4人ずつ頭合わせに布団を敷いて寝ました。

まだみんな8,9歳、親と離れたのは初めてですから寂しくて、布団に入ると涙が出て来ます。
誰かが声を殺して泣き始めるとあちらでもこちらでもすすり泣きが始まり、辛い毎日でした。
食事は全員そろって大広間で摂るのですが、何しろ食べるものがない時代です。
主食は雑炊かすいとんのようなもの。それに人参の葉やさつまいものつるなどが入っている薄いみそ汁とたくあんくらいでした。いつもいつもおなかを空かせていました。

今と違ってそのころの人参の葉などあくが強くて、いくらお腹が空いていても食べられなかったのを覚えています。でも福島は果物の産地なので、たまに配られるあんぽ柿やリンゴなどが唯一の楽しみでした。

旅館ですから宿泊客もいます。
そうしたお客さんたちにはご飯が運ばれるので、それをみんな羨ましい思いで眺めていました。親から個別に食べ物が送られてくることは禁じられていましたが、お手玉に炒った大豆を入れたり、枕に隠して送って来る親もいました。
こっそり食べていても匂いですぐにばれてしまうので、結局みんなに配ることになってしまうのですが。

私の叔父が苦労して手に入れたビスケットを持って来てくれたことがあるのですが、先生が全員に配ったので私の口に入ったのはたった一つか二つでした。

そこから毎日地元の学校へ通いましたが、勉強よりも校庭で大豆の束を棒でたたいて豆をはずす作業をさせられたことしか覚えていません。
雪の日に下駄の鼻緒が切れてしまって雪の上を泣きながら裸足で旅館まで帰って来た記憶があります。なぜ運動靴でなかったのか理由が思い出せません。

帰り着くと1階の風呂場へ直行し、真っ赤になった足を温泉で温めながら母恋しさに泣いていました。
部屋ではいじめもありました。ボス的な女の子二人が何かと意地悪をするのです。
そのうちの一人は夜よくオネショをするのですが、朝起きると他の子のすきをみて濡れた敷布団をすり替えて何食わぬ顔をしているのです。
また夜中にトイレに行く時は誰かを叩き起こしてお供をさせます。私もさせられたことが何度もありました。
また自分のものとすり替えておいて「盗んだ」と泥棒にさせられそうになったこともあります。
一人っ子で内気だった私は悔しくて悲しくて、学校へ行く元気が出ず、仮病を使って学校を休んだことがあります。
一人部屋に残った私は、先生の書類が部屋に置いてあることに気付き、こっそりとみんなの成績表を見てしまいました。
するとそのいじめっ子二人の成績は「可」ばかり。(当時の評価は「優・良・可」でした)

それを見て「なーんだ、こんなにデキない子たちだったんだ」と思った途端、私は俄然強くなりました。今思えば子ども心に二人を軽蔑したのだと思います。
「こんなバカに負けてたまるか」と心の中で決心しただけなのに、不思議とその日からいじめられなくなり、トイレのお供も免除されるようになりました。

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