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イラン(人監督によるサイコホラー)映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」

タイトルにある「聖地」とは、イラン北東部にあるイスラム教シーア派聖地マシュハド。この街を舞台にした、「サイコスリラー」と呼んでいいのかどうか分からないが、恐らくそうしたカテゴリーに入っているのだろう、という作品。制作国はデンマーク。イランでの撮影は認められず、ロケ地には同じ中東の国ヨルダンが使われたようだ。

2001年にマシュハドで実際に起きた売春婦を狙った連続殺人事件を下敷きにしている。街頭に立つ女性を次々と殺す男性とその家族、事件を追う男女2人の新聞記者が主要な登場人物だ。
ネタバレにつながらないように注意して書くつもりだが、この映画を観る上でのひとつの論点は、連続殺人を犯す男性サイードを、どのような人間ととらえるかだ。

サイードは、イラン・イラク戦争に長期従軍した退役軍人。イランでイスラム革命が起きた翌年の1980年、イラクのサダム・フセイン政権の先制攻撃で始まり8年間続いたこの戦争は、イランに大きな傷跡を残す。
サイードは肉体的には負傷せず帰還できたものの、心の傷を抱える犠牲者でもある。今は家庭を持ち、一見、幸福に暮らしているが、信仰心の厚さから、イスラム革命を守るための戦争で「殉教」できなかったことを負い目に感じ続ける。心の中に空虚感を抱えて日々、暮らしている。そうした彼の来歴が、犯行の大きなバックグラウンドとして示される。

サイードの人間像については、信仰心のあまり売春婦を憎悪する人物と設定される一方で、死体愛好者の片鱗もあるサイコとしても描写される。この作品の監督、アリ・アッバシ氏は、2001年に起きた実際の事件の犯人の印象について「お人よしで純粋な人」とも語っている。映画の中での殺人者サイードについては、「加害者であり、被害者でもある」なのだという。復員後に喪失感を抱え、売春婦殺人を始めたのは、人間の弱さゆえ、だと言いたいのだろう。

サイードの犯行の動機を、狂気とするか、あるいは冷静な信仰心の末路とするかで、作品の見え方も大きく変わってくることは確か。アッバシ監督は、その辺について、一方に決めつけず、あいまいにしておいたという感じだ。

ただ、そのどちらだとしても、サイードが、イスラム体制の負の遺産であるという監督の評価は動かなさそうだ。サイード以外にも、建前の発言に終始するイスラム法学者の裁判所判事や、裏から手を回して、司法決定を勝手に変えようとする司法関係者など、イスラム革命体制の腐敗・無策を示唆する登場人物が何人も登場する。全体として、イスラム革命体制が作り上げた社会を否定的にとらえるトーンであることは間違いない。

もっとも、監督は、作品について「イラン政府への批判でも、腐敗した中東社会への批判でもない」と強調している。「女性に対する人間性の抹殺は、イランに限ったことではなく、世界中のあらゆる場所で起きている」ともいう。監督は、単なるイスラム体制批判の映画でしたくなかったし、そうした評価をして欲しくない、ということかも知れない。

作品では、連続殺人を犯したサイードを、こぞって「英雄」と称賛するイラン社会も描く。監督が、連続殺人事件に興味を抱いたのは、こうしたイラン世論を知ってからだったという。こうした社会への批判も含めて、イスラム革命の40年の歴史に厳しい目を向けた作品であることは間違いない。

監督は、イランで生まれたデンマーク在住のイラン人。最終的にはロケ地はヨルダン・アンマンになったが、当初、イラン当局を訪ねて、脚本を渡してイラン・マシュハドで撮影させてくれと頼んだという。この作品を撮ったことで、イランに里帰りすることが厳しくなったような気はするが、どうだろうか。

この作品について、マーティン・スコセッシ監督・ロバート・デ・ニーロ主演の米映画「タクシー・ドライバー」との類似性を指摘する声もあるそうだ。主人公が、ベトナム戦争帰還兵という設定が近いということなのかも知れない。実は、「タクシー・ドライバー」を観たことがないのだが、今度見てみようと思う。「タクシー・ドライバー」と比せられるイラン人監督の映画が登場するというのは、イラン映画の幅がますます広がっていることの表れで、喜ばしいことかも知れない。

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