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第三帝国の誕生 第6夜~相対的安定と転落~

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『第三帝国の誕生 第6夜~相対的安定と転落~』

■新たな大統領----00:00:07

[TIME]----00:00:07 公開演説の禁止
【N】さて、再建に向けて動き出したナチ党だけれども、やはり当局の警戒心を煽ることになり、ヒトラーは早速3月にはバイエルン当局から公開演説を禁じられてしまう。
【D】はいはい(笑)
【N】それどころか、他州でも禁止されちゃうのね。なのでヒトラーは非公開、内輪だけの集会での演説を余儀なくされてしまう。
【D】うん。

[TIME]----00:00:33 大統領選挙とルーデンドルフの退場
【N】国内ではエーベルト死去にあたり、4月に大統領選挙が行われるんですな。
 ちなみに、この選挙にはエーリヒ・ルーデンドルフが出馬した。どうもヒトラーに説得され、祭り上げられて決意したらしいんだけれども、蓋を開けたらダントツの最下位で敗北した。
【D】(笑)──そうなんだ。
【N】この無惨な敗北にルーデンドルフの政治生命は終わるんですよ。まあ、証明されてしまったわけね。力がないってことを。ヒトラーは最初から勝てないと分かって推したらしいんですな。
【D】おぉ。退場させるために?
【N】そうそう。
【D】やるね。
【N】これ、ハッキリとはわからないんだけれど、ヒトラーは「これでアイツにとどめを刺した」といようなことを言っているので、わざと敗北に追い込んだ、という見方がある。(カーショー『ヒトラー 上』pp.294-295)
 ここで退場してしまったルーデンドルフはこの後、もともとハマっていた陰謀論にますますのめり込んでいき、ちょっとあっち側へ行ってしまう。もともと不安定なところがあったんだけれども、追い打ちをかけたのかな。
 で、ヒトラーとも疎遠になり、やがて完全に決別することになる。
 晩年は宗教団体を立ち上げたりと、軍や政界の重鎮であった往時の面影はなくなっていたんだけれど──、ただその頃に『総力戦』という戦争理論書も書いている。これはちゃんと書かれているんすね(笑)
【D】ふーん。
【N】かつて研鑽した分野だったからか、もともと能力パラメータがめちゃめちゃアンバランスだったのか、そういうところはちゃんとしていたみたいね。政治センスはないんだけれど、軍事的な知見は優れてはいたのかもしれない。

※『総力戦』(1935年)……第1次世界大戦によって、戦争の性質が大きく変わったことが明らかとなり、以後の戦争は、政府・軍部・直接的軍事力のみで行われるものではなく、政治、経済、産業、国民、イデオロギー、すなわち国家の物質的・精神的総力を結集して遂行されるものとなる、という「国家総力戦」の概念を定着させた著作です。

[TIME]----00:02:41 パウル・フォン・ヒンデンブルク
【N】──それはさておき、肝心の選挙の結果なんだけれども、最終的には2次選挙から出馬したパウル・フォン・ヒンデンブルクが4月26日、大統領に選出されます。憶えていますかね、ヒンデンブルクって……。
【D】なんか聞いたことありますね。
【N】大戦中にルーデンドルフと組んで戦争を指導した元帥で、タンネンベルクの戦いの英雄。だから戦争中の──中期から末期にかけての──トップだね。つまりドイツの軍人たちが仰ぎ見る重鎮中の重鎮ね。この人が、これからの共和国の運命、ヒトラーの運命を変えることになる最大のキーマンになるんですよ。
【D】お、らしいぞ……?
【N】なので、この人のことは憶えておいてほしいですね。
【D】うん。
【N】──が、この時すでに77歳でした。
【D】あ、そうなんだ。
【N】そう。この人、実は戦争前に引退していたの。戦争が始まってから現役復帰したという人で、戦前には年金生活者でした。
【D】はあ、そうか。俺の父さんより年上だもんな。
【N】(笑)──だから、ここへきて政治の表舞台に立つとは、この人も想像はしていなかったかもね。
【D】うん。

[TIME]----00:03:57 大統領、共和主義者にあらず
【N】ただこの人、共和国大統領となったけれども、思想信条から言って共和制主義者ではないです。帝国と皇帝の信奉者であり、帝政復活派です。なので、右派、保守派の親分と目されていた。
「おいおい、大丈夫か」と思うところだけれど、生粋のプロイセン軍人だからか、意に沿わないものであっても、建前としては法や規範を無視するというのを好まない人物だったらしい。なので、初めの内はまあまあ、意外なほど国会を尊重していた。──が、やがてタガが外れることになる。が、それはもうちょいあとっすね。
【D】はい。
【N】もっとも、規範を無視しないとか言いつつ、脱税スキャンダルとかもあるけれどね。ただイメージとしては、厳粛な誇り高い軍人であった、という扱いをされていた。
【D】うん。

■党の内紛----00:04:58

[TIME]----00:04:58 レームとの対立
【N】さて、新生ナチ党だけれども、やはり軋轢、分裂が萌し始める。
【D】あぁ、内部の……。
【N】早速ね。──1925年4月、まずヒトラーとエルンスト・レームの対立が表面化する。
【D】レームも負けちゃった人だよね? 選挙。
【N】レーム、負けちゃったかな……。そうだね。出ていたけれど。 
 ──もともと、半独立勢力として動きがちであったレームだけれども、ヒトラーが塀の中でそんな臭くない飯を食っている間、独断で「フロントバン(Frontbann)」という準軍事組織を作っていた。それが一部の突撃隊などを吸収していたんですね。
【D】うん。
【N】レームはあらためて、このフロントバンなどをナチ党から独立した軍事組織とすることをヒトラーに求めるの。ようは党の下部組織じゃなくて、一個の独立した組織にしたいぞ、と。
 ヒトラーはもちろん、それにノーを突き付ける。ダメって。こうして決裂してしまうのね、レームとヒトラーは。
【D】なんでそんなことをしようと思ったのかね?
【N】レームが?
【D】うん。
【N】もともとこの人の目標というのは、自分が作った組織を軍にすることだったのね。
【D】あ、そうなんだ。
【N】そうそう。「国民軍」を創設したかった。
【D】なるほど、ヒトラーは違ったんだね。
【N】ヒトラーは「あくまで君たちは我が党の組織なのである。勝手なことをしないで?」と。
【D】うん。
【N】こうして決裂すると、レームはフロントバンと突撃隊の司令官を辞任してしまうんですね。
 レームはそれでも仲直りしようぜ、という手紙をヒトラーに送る。だけれども、ヒトラーはそれを無視。そこでレームはあらためてナチ党を離れることになった。

[TIME]----00:07:00 南米ボリビアへ去る
【N】そして彼は軍事顧問──軍隊を教育したりコンサルしたりする外国人のことだけれども──、これを求めていた南米のボリビアに招かれ、その誘いにのってドイツを発つことになった。ここでレーム退場──。
【D】おぉ。
【N】──と思いきや、またあとで戻ってきますけれどね。
【D】ああ、そう(笑)。……あれだね、ブンデスリーガとか、プレミアリーグを離れた人がアフリカのリーグに行ったりするけれど──。
【N】そんな感じじゃないですか。ヨーロッパのスター選手を招いて強化したい、という(笑)
【D】ちょっと旬を過ぎたかな、という選手が行ったりするね(笑)
【N】そんな感じでいったん消えちゃうんだけれど、やがて戻ってくる──。戻ってくるどころか、彼はハイライトに多分その名を残すことになる。
【D】へえ……。
【N】まあまあ、その話はまたいずれ──。

[TIME]----00:08:04 親衛隊(SS)の登場
【N】ちなみにこの時期、突撃隊の下部組織として、あの悪名高い「親衛隊」が生まれています。
【D】あ、有名なやつですね。
【N】もともとはヒトラー個人を警護するセクションだったのよ。最初は「護衛隊」と呼ばれていて、そのあとは「アドルフ・ヒトラー特攻隊」という名前になったりして──。
 そしてナチ党が再建される際にこの部隊も再結成されることになり、そこであらためて「シュッツシュタッフェル(Schutzstaffel)」──「親衛隊」という名を与えられた。
【D】有名ですね。「SS」とかいうね。
【N】そうそう。「シュッツシュタッフェル」の略がいわゆるSS。
 この時はわずか数名だったんだけれども──基本的にはボディガード・チームだったから──、これが膨張を続け、やがて警察機構を併呑してこの国を恐るべき警察国家に作り変え、さらには国防軍に次ぐ軍事組織、「武装親衛隊(Waffen-SS)」を生み出すに至る。
【D】すごいねえ……。
【N】そしてホロコーストの実行者となり、独ソ戦において絶滅戦争に加担して、大量殺戮を行うことになる。それがこの時期に生まれているんだが、まだまだ小さかった。
【D】うーん、なるほど。

[TIME]----00:09:29 シュトラッサー兄弟と党内左派
【N】まあ、それはさておき──、次なる内紛の種はグレゴーア・シュトラッサーと弟、オットー。シュトラッサー兄弟ですね。
【D】シュトラッサーも選挙でレームと一緒に負けた人だっけ?
【N】シュトラッサーはこのとき議席を残していたんじゃなかったかな。
【D】あ、ほんと。
【N】シュトラッサーは力のある党員だった。党内でも屈指の指導力と組織力を持ち、主に北ドイツで勢力を持っていたのね。ナチ党を強力な組織にしたのは、とりわけこの兄貴のグレゴーア・シュトラッサーによるところが大きい。もともとは薬剤師だったんだけれども、自身でも準軍事組織を作っていたほど求心力のある人だった。
【D】ふーん。
【N】そしてこのシュトラッサー兄弟。ヒトラーたちよりも社会主義的な傾向が強いのね。思想が。
【D】左寄りな……。
【N】そうそう。だから「ナチス左派」と呼ばれる一派だった。ナチス左派とか党内左派と呼ばれる。なので思想や考え方はヒトラーとズレがあった。
 ナチ党が左翼っぽい、と言われるのはこういう人々と、その主張の影響もあったろうと思われますね。

[TIME]----00:10:52 グレゴーア・シュトラッサーvsミュンヒェン本部
【N】しかし兄・グレゴーアのほうはヒトラーに対しては基本的に忠実で、特に反逆しようという気持ちもなかった。
 ──あ、ちなみに(Gregorを)「グレゴーア」って言っているけれど、たぶん本とかでは「グレゴール」って書かれることのほうが多いですね。ただ私はグレゴーアと呼びますので。
【D】あ、はいはい。うん。
【N】──ともかく、グレゴーアはわりと従順であった。ただ、ヒトラーと共に本山のミュンヒェンにいる彼の取り巻き──、たとえばヘルマン・エッサーやユリウス・シュトライヒャーといった人々とは対立していた。側近たちと対立していたってことね。
【D】うん。
【N】シュトラッサーからすれば、ヒトラーをダメにする奸臣ども、という感じだったのかな。ああいう奴らが周りにいるんじゃダメだよな、と思っていた。だからこれは、北ドイツ支部とミュンヒェンとの間の派閥争いの様相を呈していた訳。
【D】うん。
【N】で、9月にシュトラッサーが北ドイツ、西ドイツの幹部を招集し、「北西ドイツ大管区活動共同体」という支部同士の合同組織みたいなものを作る。「大管区」というのはナチ党の支部(の管轄)のことで、北ドイツと西ドイツの大管区のリーダーたちが集まって組織を作った。ミュンヒェンの本部に対抗するために。
【D】うん。
【N】で、そういうものを作り、党本部に対して「最近の選挙参加路線は嫌です」という意志を表明する。彼らは選挙より、昔の闘争路線を求めていたので──。
【D】うんうん。

[TIME]----00:12:39 ヨーゼフ・ゲッベルス
【N】ちなみに、このときシュトラッサーの補佐として頭角を現していたのがヨーゼフ・ゲッベルス。
【D】おぉ、有名な。
【N】そう。のちの啓蒙宣伝大臣として有名なゲッベルスですね。
 よく「ゲッペ」と間違えられるんだけれど、「ゲッベ(Goebbe)」
【D】あ、「ゲッベ」なんだ──。そうなんだ。
【N】──まあ、啓蒙宣伝大臣としてナチ党のプロパガンダを仕切ることになる、党きっての炎上商法屋ですな。

※宣伝において耳目を集めるためならジョーク・騒擾・暴力なんでもござれというスタイルでした。

【D】あー、いいですね。炎上商法。
【N】完全に炎上商法屋ですからね、この人のやり口は(笑)。──で、この時期は社会主義寄りの思想があり、シュトラッサーら党内左派に与していたのね。まあ、こういう人もいたと──。

[TIME]----00:13:29 シュトラッサーの新綱領
【N】──ともかく、左派の領袖たるシュトラッサーは、新たなナチ党綱領を作ろう、と主張し、綱領案を起草するんですな。原理原則をもう1回作り直そうよ、と。
【D】うんうん。
【N】ほら、ヒトラーがナチ党活動を本格的に始めた時に作った「25ヶ条の綱領」というのがあったでしょう? あれを作り直そうということ。
 ここまでの動きですから、思いっきり党中央にモノ申している訳だけれども、彼自身にはヒトラーを引きずり下そうという意志はない。しかし、ヒトラーとしてはよろしくない流れだね、これは。
【D】うん、そうですね。

■ロカルノ条約と国際社会への復帰----00:14:07

[TIME]----00:14:07 ルール占領解除
【N】──ことほどさように、ナチ党では内紛が起きていた訳だけれども、一方、ドイツ全体でいえばちょうどこの時期、ようやく国際社会への復帰を果たしつつあった。
【D】ほうほう。
【N】また目線がころころ変わって申し訳ないんだが……。
【D】うん、いいよいいよ。
【N】まず、遅れに遅れていたルール地方の占領が、1925年8月までに解除された。この時期、フランスはドイツに対して強硬路線から融和路線へと変わっていたんで。

[TIME]----00:14:42 ロカルノ条約
【N】そして12月1日、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア含め欧州7カ国でロカルノ条約が調印される。
【D】ロカルノ条約。
【N】これも多分、習う……かもね。
【D】そう。
【N】これはヨーロッパの安全保障に関わるいくつかの協定をまとめた条約。
 ラインラントの非武装化、ドイツ・ベルギー・フランス国境の現状維持、お互い攻め込んだりしないようにしましょう、という不可侵の約束、紛争が起きてしまった時に平和に解決するための手続きを決めましょう、──つまり仲良くやりましょうよ、といった内容の条約ね。

[TIME]----00:15:23 グスタフ・シュトレーゼマン
【N】──これによって経済的にも外交的にも安定した時期が訪れる。いわゆる「相対的安定期」と呼ばれる時代の始まり。
【D】ふーん。
【N】そして、この外交成果を成し遂げたのは※外務大臣のグスタフ・シュトレーゼマン。
 シュトレーゼマン外交などと呼ばれるんだけれども、ハイパーインフレの時もこれを脱してドイツ経済を立て直した男です。

※1923年8月13日〜11月23日の間だけ首相兼外相。ロカルノ条約時はヴィルヘルム・マルクス内閣の外相。

【D】あァ、やり手のやつですね。
【N】そうですね。一般的にはヴァイマール期を通じて特に高く評価されている政治家ですね。
 こうしてヨーロッパに新たな秩序が形成されたことで、このシュトレーゼマンとフランス外相ブリアンがのちにノーベル平和賞を受賞した。
【D】ほう。へえ。
【N】ちょっと、他のヨーロッパ諸国と仲直りということになってきた。
【D】うん。
【N】──が、一面とても平和な話なんだけれども、実はこの条約にソ連は加わっていない。むしろソ連を牽制するような内容でもあった。フランス、ベルギーといった西側の国境に関しては取り決めたんだけれども、東側の国境はノータッチだった。
【D】うん。
【N】ドイツ、あるいはシュトレーゼマンとしても、東側の国境──つまりポーランド側、こちらを手打ちにはしたくなかった。あとで取り戻したいところがあったから余地を残しておいたわけ。
【D】おぉ。なるほど。
【N】この辺りは、シュトレーゼマンの方針がただの協調外交ではない、ただの平和主義ではないという部分。だからこの人、理想主義者ではないんですよ。国益追求のために理性的に行動するタイプの人。
【D】うん。
【N】ともかく、ここからドイツの束の間の安定、ある意味で息継ぎの時代がやってくる。さっきも言った通り、「相対的安定期」と呼ばれる時期であり、いわゆる黄金の20年代と呼ばれる──。
【D】いい時代だね。
【N】──文化の爛熟した時代だった。まさに『バビロン・ベルリン』の世界になってくる。
【D】うん。

■バンベルク会議----00:17:32

[TIME]----00:17:32 シュトラッサーとハノーヴァー会議
【N】そうしてドイツ自体は上向きになってくるんだが、ナチ党の内紛は年が明けていっそう深刻になります。
【D】はい。
【N】1926年1月、シュトラッサーがハノーヴァーに北ドイツのナチ党幹部を集め、新しい党綱領の承認を求める。さっき綱領を作り直しましょうと言っていたでしょ? これを作って、他の幹部たちに承認を求めた。
【D】うん。
【N】そして独自の出版社「カンプフフェアラーク(Kampfverlag)」──『闘争出版』を立ち上げる。
【D】「闘争」……?(笑)
【N】そうそう。こういう名前を付けがちなんすよ、この人たち。
──このカンプフフェアラークを立ち上げ、機関紙『国民社会主義者』を発行する。かなり独自行動をし始めた。
【D】うーん。
【N】そしてさらに「旧王侯財産没収法案」に賛成することを表明する。ちょっとややこしい言葉なんだけれど……。これはドイツ共産党が提出した法案で、革命時に凍結されていた旧帝国の各王族の財産を没収しましょう、という提案ね。
 帝国の中にはいくつかの王国があって、当然そこには王様とか王族がいるわけよ。その人たちの財産というのが、ドイツ革命の時に凍結されていたのね。これをもう完全に没収しましょう、という提案がなされる。
【D】うん。
【N】で、シュトラッサーらナチ党左派は社会主義寄りなので、これに賛成した訳だけれども、ヒトラーは反対する。この頃のヒトラーたちは一部貴族やブルジョワから献金を受けていたので、こうした私有財産を否定する方針は、それらスポンサーの支持を失いかねない。ということで反対していた。
 これだけでも相当な意見の食い違いだけれども、そのうえシュトラッサーは、外交においてはソ連と仲良くすべきだと主張する。
 集まった北部大管区指導者たちはミュンヒェンの本部にムカついていたので、これらの提案は可決してしまう。
【D】あら。
【N】ミュンヒェン憎しで、他の幹部たちもシュトラッサーの言い分を認めてしまう。だからこれは、ミュンヒェンに対する挑戦。まあ、よくある話だよね。本部が嫌いだから支部の人たちが大同団結しちゃうって。
【D】うん。

[TIME]----00:20:06 バンベルク会議
【N】そこでヒトラーは1926年2月14日、バンベルクという町に各支部の指導者たちを招集し、会合を開くんです。いわゆるバンベルク会議と呼ばれる有名な会議です。
【D】はい。

●バンベルク / ハノーヴァー

【N】ここでヒトラーは、シュトラッサーら北部指導者らの動きを抑え込むんですな。曰く党の「25か条綱領」は不変である。変えることは許さねえよ、と。そしてフューラー──指導者たる俺の言うことを聞け──。
【D】おっ。
【N】──と、ハッキリ告げるわけ。すると、もともとシュトラッサーはヒトラー個人に逆らう気はないので、やむなく折れちゃうのね。
【D】うん。

[TIME]----00:20:49 党における独裁権力の確立
【N】そして5月、ビュルガーブロイケラーで開かれた党の集会で、ヒトラーはあらためて「25か条綱領」の不変を宣言し、全国の大管区指導者の任免権を握る。各支部の人事権を握ったと。これによってヒトラーのナチ党における独裁権力が確立する。
【D】すごいですね。
【N】だから、結果的にはむしろヒトラーの権力が強化されることになった。
【D】そうだね……(笑)。反対していたはずだったんだけれど。結果、権力が増大したね……(笑)
【N】この人ね、けっこうこのパターンで自分の権力を拡大しているんですよね。
【D】うーん。
【N】しかし、ヒトラーは組織力のあるシュトラッサーを追放することはなく、むしろ宣伝指導者に任命してこれを懐柔している。宣伝担当のトップにしようとしているのね。そして逆に、彼が対立していたヘルマン・エッサーを外しまして、痛み分けにしているんですね。
【D】ふーん。
【N】だから、シュトラッサーのことは買っていた。
【D】なるほど。

[TIME]----00:22:03 ゲッベルスの登用
【N】ただ、それと同時に、シュトラッサーの腹心であったゲッベルスを引き込み、この年の10月にはベルリン・ブランデンブルク大管区の指導者として取り立てている。これでゲッベルスは最後の最後までヒトラーに仕えることになる。
【D】おー。

[TIME]----00:22:29 権力の性質
【N】さっきも言ったけれども、ヒトラーの権力は仲間、部下たちの内紛によって逆に強まるということが多いように思うね。
【D】うーむ、なるほど。
【N】これは第三帝国成立以後にも続く性質なのだけれども、実はナチ党というのはトップであるヒトラー以外は1枚岩ではないの。
 しかしヒトラー個人への崇拝が維持されている限り、むしろ子分たちの権力はその源泉であるヒトラー個人への忠誠によって担保されるので、子分同士がいくら内輪もめを起こしても、ヒトラーの権威って揺るがないんですよ。
【D】うーん……なるほど。
【N】むしろ親分の取り合い、ということになる。そうなれば強化されるんだよね、親分の権威は。
【D】そうだね。
【N】それは党内部の秩序だけでなく、のちにはヒトラーとナチ党に対する大衆の支持にも現れたようですね。というのはまだ未来の話だけれども、ヒトラーは1933年に権力を掌握するが、実はその後も突撃隊が評判を下げたり、ナチ党政権そのものがいくらか支持を失ったりもしている。政権を獲ってからも──。が、党への不信はヒトラーへの不信にはあまり繋がらなかったのね。
【D】ふーん!
【N】あくまで、党や子分たちがしっかりしていないんだ、というふうに判断されていた。「総統閣下は悪くない」という思考になっていたらしいんですね。
【D】なるほど。それが逆に、下が一枚岩になっていると、下への批判=ヒトラーへの批判みたいになってくる──。
【N】なってくる。でもこういう状態だと、「ヒトラーがいるのに、下の人たちがいい加減で、ヒトラーはかわいそうだ」みたいな見方になったらしい。
【D】なるほど。下が分裂しているからこそ、自分の立ち位置が担保できたわけですな。
【N】これが彼の権力強化の特徴の1つかなァとは思うね。
【D】なるほど。それは面白いですね。

[TIME]----00:24:34 ポリクラシー(多頭支配)
【N】だから、のちのナチ党政権というのは「ポリクラシー(多頭支配)」という状態になったと言われているのね。これは、頂点のヒトラーの下に無数の分権者たちがせめぎ合って併存しているという状態で、「部局ダーウィニズム」「制度のダーウィニズム」などと呼ばれているのよ。これはつまり、組織が生存競争の挙句、ジャングルのように錯綜した権力機構になった、という意味ね。ここらへんにナチ党とヒトラーの権力の特徴がある。(田野大輔「第三帝国における「民族共同体」」)(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』)(大木毅『独ソ戦』pp.96-97)

※しかし多頭支配も、上記の如くヒトラーそのものへの服従と、第三帝国全体が1つの目標へと向かっていくイデオロギーを否定するものではありません。ダン・ストーンは「第三帝国は『多頭的な泥沼』ではあったが、限定された範囲内でのことであった」とまとめています。

【D】なるほど、ここ面白いですね。
【N】そうそう。面白いというか何というか……面白いところだね(笑)
【D】うん。

■私はミミ----00:25:21

[TIME]----00:25:21 マリア・ライター
【N】──と、まあ、党も国も色々激動という感じだけれども、この年の秋頃、ヒトラー個人にもちょっとしたエピソードがあった。
 ヒトラーはベルヒテスガーデンというところに逗留していたんだけれども、そこでマリア・ライター、通称ミミという女性に出会いまして、恋仲になったと考えられとる。

●ベルヒテスガーデン

【D】おー、秋なのに春が訪れたんですね。
【N】そうですね(笑)
【D】(笑)──はいはい。
【N】実はこのとき、ヒトラー37歳。
【D】お、親近感の湧く年頃になってきたなァ(笑)
【N】実は(我々と)同世代であったというね。
【D】(笑)
【N】──しかし、マリアは16歳。
【D】なにぃ!(笑)
【N】今の時世だとちょっと問題のある年齢ですな。
【D】いや、ちょっと待てェ……。

[TIME]----00:26:10 極端な年齢差
【N】後世知られているヒトラーを巡る女性といえば、他にゲリ・ラウバルという人がいる。あと、有名な人ではエーファ。
【D】エヴァ?
【N】エヴァ・ブラウン。この辺の人たちも、みんなすげー年若いのよ。
【D】そうなんだ……(笑)
【N】そう。ヒトラーはどうも極端に歳下に向かうところがあったようで、──一部大人にも向かうことはあるんだけれど──多くは少女といっていい年齢差。
【D】いや、それ、結構な話だね……。
【N】ちなみに、これから登場するかもしれないんだが──、ゲリ・ラウバルは19歳離れていた。で、エーファ・ブラウンは23歳離れていたかね。
【D】すげえな……。
【N】うん。

[TIME]----00:26:53 極端な行動
【N】まずはこのマリアさんですけれど──。そんな年齢差でありながら、このマリアとは、森の中の木の下で「君は妖精みたいだね」と言ってキスをした、というなかなかこっ恥ずかしい逸話があったりしてね……。
【D】いやぁ、有名になると辛いな。そんなエピソードまでバラされちゃって。
【N】ヒトラーには珍しく恋愛らしい恋愛ですね。
【D】へえ……。
【N】しかし、ヒトラーの立場的にもスケジュール的にも、2人はなかなか会えなくてね。やがて疎遠になった。
【D】うん。
【N】ちなみに、マリアの親父は社会民主党員なんだよね。いわば政敵なのよ。
【D】なんかよくある話だね。そういうのね(笑)
【N】まあ、そういう事情も関係したのか……、ともかく疎遠になっちゃって、気を病んだマリアは翌年、自殺未遂を起こしたと言われている。
【D】おぉ、相当病んだね。まだ若いのに。未来あるぞ。
【N】そうねえ。──さらに実は、という感じなんだけれど、このあとヒトラーとプライベートで関わることになる、ゲリ・ラウバル、エーファ、あるいは──恋人とは言えないんだけれど──ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードといった人々はみんな自殺未遂、既遂を起こしている。
【D】自殺なんだね。
【N】みんな自殺している。もちろん死んでいない人もいるんだけれど。

※ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード(1914-1948)の場合は、祖国イギリスと愛するドイツとの間で戦争が起こったために自殺を図りました。彼女も興味深い女性なのですが、ヒトラーとの交流は政権獲得後となるので今回は割愛いたしました。

【D】うん。
【N】──なので、どういうことだろうな、とは思うけれど(笑)
【D】どういうことだろうね。そういう人のこと、なんて言ったらいいんだろう(笑)
【N】わからんけれど(笑)

[TIME]----00:28:20 信憑性
【N】──ただ、しかしですよ。マリアとの恋愛譚は非常に取り扱いが難しいです。というのも、客観的な証言に乏しく、多くはマリアの回想のみによることが多いので、研究者はあまり信用していない。
【D】あ、そうなんだ。
【N】つまり、創作や話を盛っている可能性があるということです。
【D】妄想少女の可能性あり?
【N】ある。──たとえばイアン・カーショーは、ヒトラーはそんなに深くこの人のことを愛してはいなかっただろう、というニュアンスで書いている。
【D】ふーん。
【N】実際、あんまり構っていないんだよね。
【D】妖精ちゃんのことを。
【N】うん。まあ、忙しかったからってのもあるんでしょうけれど。実際ほっぽらかされて寂しくなっちゃって自殺未遂したと考えられているんで……。

※その後二人は別れますが、1931年に再会。ミュンヒェンのヒトラーのアパートで一夜を過ごしたとマリアは証言しています。しかしそれも事実かどうかは疑問視されています。

【D】なるほど、なるほど。そうか。
【N】ただ、ここらへんの女性を巡る物語も興味深いし、本なんかもあるんで、今挙げた人の名前なんかを調べてみると面白いのではないかな。

■相対的安定期----00:29:27

[TIME]----00:29:27 ゼークトの失脚とシュライヒャーの台頭
【N】さて、木の下でロマンティックなキッスが交わされていた──かもしれない頃でしょうか。
【D】はい。
【N】中央政府では、軍をほぼ独立国家状態にしていたハンス・フォン・ゼークト──カップ一揆の時にクーデターの鎮圧を拒否した人です──、この人が陸軍統帥部長官を罷免され、失脚します。追い出されるわけね。
 そしてこの頃から、クルト・フォン・シュライヒャーが軍のイニシアチブを握る。初登場かな、この人。
【D】多分。
【N】このシュライヒャー、軍人なんだけれども、陰謀や駆け引きを弄するタイプの、いわゆる政治的軍人。
 で、この人が新しく大統領になったヒンデンブルクの取り巻きとして、これからの政治に介入していく。
【D】ほうほう。
【N】結果、共和国の寿命を縮め、ヒトラー政権成立にも関わることになる。
【D】あらあら。
【N】なので、このシュライヒャーも極めて重要な人物。是非とも覚えておいてほしい。
【D】ハンス・フォン・ゼークトはもう出てこないですか?
【N】出てこないんじゃないかな……このあとは。
【D】なるほど、レッドカード退場です。
【N】そうですね。でも、確かにこの辺から世代交代みたいなのが起こってくるね。
【D】ちょっとそんな感じがありますね。
【N】エーベルトも死んじゃったし──。
【D】うん。

[TIME]----00:30:54 黄金の20年代と党の低調
【N】──まあ、なかなか不穏な動きだけれど、一方、12月にドイツを国際社会に復帰させたシュトレーゼマンがノーベル平和賞を受賞する。さっき話しましたが。
【D】はい。
【N】こうして黄金の20年代が花開くところだけれども、実はそれを蝕む毒も時代を並走をしていたんですね。
 話をまたナチに引き戻せば、ヒトラーに取り立てられたゲッベルスがベルリン・ブランデンブルク大管区の指導者になり、これ以降、常軌を逸した炎上商法的なプロパガンダと暴力的扇動を引き起こしていく。
【D】おぉ。
【N】ただ、世情はわりと安定はしている。年も明けて1927年、この年の序盤にようやっとヒトラーの演説禁止が解除され始める。しかし党の勢いは伸び悩んだらしいですな。
 さっきも言ったとおり、ベルリンではゲッベルスが無茶をやって党員を増やすことに成功したり、あるいはやり過ぎてベルリン、プロイセンでの活動を禁止されたりと、騒々しいことはしていたんだけれども、全体的には低調だった。
【D】うん。
【N】世間はようやく落ち着きを取り戻し、希望が見えてきていた。そういう時はやっぱり過激な思想運動から離れていくのね。現金ちゃ現金だけれども……。
 ──まあ、折しも黄金の20年代です。前に『バビロン・ベルリン』というドラマの話をしたけれど、まさに芸術と大衆文化、サブカルチャーが爛熟の極みに達しようとする頃だった。アートなら表現主義、あるいはグロッスの風刺、バウハウス、音楽で言えばジャズ、映画、そしてLGBTの解放。
【D】おぉ、前に言っていましたね、『バビロン・ベルリン』の話の中で。
【N】ホントにすごい時代で。それがこういう隙間みたいな時期に花開いていたというのがすごいんですよね。
【D】すごいね。
【N】うん。──そんな中で過激な右派は根強い支持を保ちながらも勢いを失い、ドイツの国情もやや民主的になってくる。

[TIME]----00:33:12 躍進の基礎
【N】しかし一方で、全体的な右派の低調はヒトラーを引き上げることにも繋がっていったと考えられる。
【D】なぜ。
【N】ライバルがいなくなり、いたとしてもナチ党に合流するなどして、ドイツの右派、民族主義運動の求心力はヒトラーやナチへと収斂していくことになる。
【D】なるほど、なるほど。全体的に低調になったがゆえに集まってきた感じですね。
【N】そうそう。再三出て来る歴史家のイアン・カーショーは、この停滞した時期にむしろのちの躍進の基礎が築かれたんじゃないかと言っている。(カーショー『ヒトラー 上』p.285)
 こういう時期もこの党には必要であったってことね。だから助走だよね。嫌な助走だけれどね……(笑)助走というのか、クラウチングなのか。
【D】そうっすね、クラウチング状態ですね、まさに。低調ということは(笑)

[TIME]----00:34:11 レーベンスラウム構想と中産階級へのアピール
【N】──この時期、ヒトラー自身の思想、主張で言えばいわゆる「レーベンスラウム」構想──東方に植民地を建設するという意志がより表立って打ち出されるようになる。ポーランド、ロシアから土地を切り取ろうという話ね。
 また具体的な戦術でも、次なる選挙では支持層の軸を小売業者やホワイトカラーに移すことにする。
 もともとナチ党は、党名の通り労働者党だった。この頃、宣伝指導者だったシュトラッサーたちは労働者層の支持を集めようとしていたんだけれども、ヒトラーたちは中流の支持を望む。実際、ナチ党の主要な支持層は中産階級になってくるからね。
 で、支持層に関してもう1つ重要なことといえば、ナチ党は基本的に慢性的な資金不足で悩んでいたので、経済界の支持もほしい。しかし曲がりなりにも反資本主義を掲げた労働者党だったので、これは変節に見えますわな。
【D】はいはい。
【N】実際、社会主義的であったシュトラッサーたちにはそう見えていた訳で、これが分裂騒動にも繋がった訳。「俺たちもともと労働者党だろ……?」「ブルジョワとつるんじゃダメだろ」という不満があった。
 ただ、状況次第では宗旨変えするんですよ、ヒトラーというのは。
【D】(笑)──なるほどね。

[TIME]----00:35:38 1928年5月の国会選挙
【N】そうして翌1928年2月、ちょっと細かい話は端折りますが、「学校法案」というものを巡る議論で政府が分裂します。ざっくり言ってしまうと、カトリック学校設立を巡る一種の宗教問題なのだけれども、これが紛糾して国会が解散してしまう。で、5月20日には、国会選挙が行われる。
【D】うん。
【N】しかし右派、民族主義の低調はここでも数字に現れる。
【D】お、振るわず?
【N】振るわず。ナチ党は12議席。ヒトラーが刑務所に入っていた時に、子分たちが選挙に出たという話をしたじゃないですか? その時と比べると大きく後退しているんで、敗北といっていいです。
 その代わり社会民主党と共産党が躍進している。だからこの時期は国民の民意のシーソーが左に傾いている感じだったのかな。
【D】うんうん。なるほどね。

[TIME]----00:36:38 小党分立
【N】そしてもう1つ重要な点として、この選挙、32もの政党がごちゃごちゃ出馬して、細かく票を分散させているんだけれども、これらは特定の階層や集団の利益のために結成された党たち。
【D】はいはい。
【N】たとえば農民の利益を代弁する「農民党」「農村住民党」といった、かなりピンポイントな、「国よりまず農村」というような党がちょこちょこ議席をゲットしている。
【D】うーん。
【N】前にミリューなんて言葉を紹介したけれども、この国は政党もコミュニティの利益を代弁する党でハッキリ分かれていた。
 こういう議会って、まとまらないわけです。そして停滞するわけだから、そこにナチのような者たちのつけいるスキが生まれる。
【D】うーむ……。

[TIME]----00:37:29 農村への注目
【N】──と、まあ、それはさておき、いま農村の話が出たんだけれど、意気消沈のナチ党もいくつかの農村地域では票が伸びたりしている。そこで農村に支持層を拡げていく方針が打ち出される。「俺たち、どうも農村でイケそうだな」と。
【D】(笑)──うん。
【N】意外とこれ、大事だったりするんだけれどね。
【D】あ、そうなの?
【N】そうそう。まあ、ともかく、この選挙の勝者は第1党、社会民主党。

[TIME]----00:37:59 第二次ミュラー内閣と「装甲艦A」
【N】ヘルマン・ミュラーが2度目の首相就任で、久々、社会民主党(SPD)が政権に戻ってくる。ひと頃は離れていたんだけれど。
【D】はい。
【N】ただ、これも複数の政党からなる大連立。これがヴァイマールにしては長期政権になるんだけれども、しかし一方で不安定要素もすぐに発生してしまう。
【D】うん。
【N】実はこの時の選挙の争点に、新しい軍艦の建造を巡る議論があった。いわゆる、装甲艦A(アー)建造問題。
【D】「あー?」
【N】「アー」って「A」──装甲艦Aというのは、のちにポケット戦艦とあだ名されて有名になるドイッチュラント級一番艦のことで、ヴェルサイユ条約の軍備制限内で限りなく戦艦に近いものを「戦艦」と呼ばずに作ろうという計画。作っていいサイズの船が条約で決められていたんで、その範囲内ギリギリでスゴイやつ作ったろうという計画ね。だからポケット戦艦というあだ名なの。

※ヴェルサイユ条約での制限は「旧式戦艦の代艦に限り、排水量1万トン以下、主砲口径28cm以下」──。しかしドイッチュラント級の実際の基準排水量は11,700トンと制限をオーバー。公称で「1万トン」ということになっていました。戦艦と重巡洋艦の中間のような艦船でしたが、のちに重巡洋艦のカテゴリに変更されました。ちなみに「ポケット戦艦」は外国から呼ばれていたあだ名で、日本では「豆戦艦」「袖珍戦艦」と呼ばれたようです。

●ドイッチュラント
1933 / 撮影者不明
Bundesarchiv, DVM 10 Bild-23-63-51 / CC-BY-SA 3.0
Wikimedia Commonsより

【D】(笑)──なるほどね。
【N】ただし、莫大な費用なので反対もある。特に社会民主党は「装甲艦より子供に食べ物を」というスローガンを掲げ、軍艦よりも福祉に予算を充てようじゃないかと主張したのね。
 ところがいざミュラー内閣が成立してみると、連立政権内には装甲艦賛成の勢力もいたりして、連立維持のためミュラー首相はそこらへんを妥協してしまうの。
【D】あー、なるほどね。
【N】つまり今で言う公約を反故にし、装甲艦建造を承認してしまうんですよ。そして「装甲艦A」は8月には着工してしまう。
 これによって社会民主党に対する信頼が大きく傷つくことになる。そら、票を投じた有権者からすれば、なんやねんとなるわけよ。「作りませんよ」というスローガンを掲げている党だったのに、その党にいた首相が「作ります」ってなっちゃったんだから……。政権与党に加わっても政策が実現できないなんて、「議会制民主主義とか、マジくその役にも立たねえな」というイメージになるわけ。
【D】なるほど、不信感が募ってくる感じですね。
【N】そうそう。

[TIME]----00:40:29 ルール鉄鋼闘争
【N】──そして次は経済のことだけれども、11月にルール地方の鉄鋼産業で大規模な労働争議が起きる。
【D】ストライキみたいな?
【N】そうそう。賃金と労働時間を巡って労働者が立ち上がった。しかし企業側は20万人以上の労働者をロックアウト、つまり工場から締め出してこれを迎え撃つのよ。「あ、じゃあ働かせねえからな」と。
【D】へー。

[TIME]----00:41:07 影は差し始めていた
【N】また、安定期とは言いながら、この時期のドイツの景気は悪化し始めているんですね。
【D】そうなんだ。
【N】失業者はこの翌年の1月には300万人に達する見込みだった。前年から100万人増えている。
【D】すごいね。
【N】だから、「相対的安定期」あるいは「黄金の20年代」とは言うものの、やはり「相対的」でしかない。矛盾や軋み、予兆は走っていたんですな。
【D】なるほどね。
【N】実際このとき、シュトレーゼマンもドイツ経済はアメリカの短期債に支えられているが、これがなくなればドイツは終わる、と警告しているんですよ。ヤベーよと。まさにアメリカ資本に依存する経済、これが破綻の原因ともなるわけ。影は差し始めていたんですね。
【D】なるほど。
【N】確かにこの頃までのナチ党は低迷していたし、1928年5月の選挙はアカンかった。しかしこの年末、その影と歩調を合わせる如く、再び支持者が増えていくんですね。やっぱり感じてきたんでしょうね、国民も。「ちょっとヤバいかもな……」って(笑)
 この時期、党員だけでも10万人ほどいたらしいですね。だからホント分かりやすく、世の中が悪くなると伸びる党なのね。
【D】なるほど。まあ、国民もよく見てますな。
【N】そうね。実際、生活に関わっているから、肌で感じていたんだろうしね。
【D】うーん。

[TIME]----00:42:52 ラントフォルク運動
【N】さて、1929年。さっきナチ党は農村に進出する、というような話をしたんだけれども、この時期から農村でのナチ党支持が拡大するんですな。
 というのも、農村では農業不況によって「ラントフォルク運動」という過激な運動が巻き起こっていた。
【D】ラントフォルク運動……。
【N】反資本主義的な反政府運動なんだけれども、そういうことが起きていたので、実はこの時期、農村がかなり急進的になっていた。
【D】農村が熱い。
【N】農村がかなり熱かった。これ、マジで爆弾テロとかまでやっていますからね。
【D】すごいね……(笑)農村のイメージとはかけ離れているな……。
【N】うん。──で、ナチ党はここにつけいるわけ。

[TIME]----00:43:43 「血と土」と農村への浸透
【N】ナチ党と農村というと、あまりイメージが湧かないかもしれないけれど、実はナチ党にとって農民層の支持というのはかなり重要な要素だった。
【D】へー。
【N】またナチ党には、伝統的な農民や農村共同体にこそ純粋なドイツ性がある、というような、「血と土」と言い表されるような、ある種の農業ロマン主義的なイデオロギーがあったりするんですよ。
【D】ふーん。
【N】ナチ党に限らず、この当時のドイツの民族主義とか保守主義の中に、昔ながらの農村にこそ民族の純粋な姿がある、みたいな発想があった。
【D】なんか日本でもそういう層、いますよね。
【N】まあ、いますね。でも、日本だと、どちらかといえば左寄りの人が農村回帰したりするんだけれど──。
【D】あ、そっかそっか。
【N】この時代のドイツだと、右派にこういう発想があったんですね。ただ、共通しているのは西欧資本主義が嫌いな点。だからその対照をなすのはやっぱり農村なんだよね。──という状況もあったので、農村の支持が大事になってくる。
【D】なるほど。

[TIME]----00:44:52 一貫性のなさ
【N】とはいえ、そこから乖離するような都市的・工業的な政策に向いていったりもするのが、ナチ党の矛盾の1つなんだけれどもね。
【D】わりとそんな感じがする。ブレているというか。
【N】本当に一貫性がないの、この党は。
【D】それ、なんなんだろう? あんまりセンスがないのか、ハッキリしていないのか。
【N】当人たちも、経済政策に関しては一貫した方針はないと言っているんだよね。
【D】あ、そうなんだ。
【N】その1つ1つの問題ごとに対処し、考える。だからメソッドは問題ごとにあるので、一貫した思想というものはないんだ、──ということは言っているね。

※ゲッベルスは「ナチズムは個別の事柄や問題を検討してきたのであって、1つの教義を持ったことはない」と述べています。(田野大輔「民族共同体の祭典――ナチ党大会の演出と現実について」pp.188-189)
 また、ヒトラーは経済に関して「国家は特定の経済概念や経済発展とは全く関係がない」「経済は数あるツールのひとつに過ぎない」ということを述べています。(『我が闘争』1巻4章 ミュンヒェン)

【D】行き当たりばったり。
【N】悪くいえばそういうことよね。
【D】なるほどね。経済的な舵取りは誰かやっていたの?
【N】そこらへんはやっぱり、シュトラッサーとかの実務家たちがやっていたんじゃないかね。ただ、もちろん彼らはまだ政権を獲っていない──別に実行者じゃないので、適当なことを言っていればいい、というのはあるのよ。
【D】調子のいい野党みたいな感じですね。
【N】そうですね。まさにこの時期はそうですから。

■ヤング案と相対的安定期の終焉----00:46:07

[TIME]----00:46:07 ヤング案
【N】まあ、それはさておき──。そしてこの年の最初の懸案は、やはり賠償金問題。連合国はまた新たな賠償金の支払いプランを提示してくる。
【D】前のプランは一応実行しているんだよね?
【N】しているんだけれど、やっぱりまだちょっと払えません、という感じなので。
【D】(笑)──はいはい。
【N】で、また新しいプランを提示してくるんだけれど、これを「ヤング案」と呼ぶ。
【D】ヤング案。
【N】ヤングさんですね。

※オーウェン・D・ヤング

【D】ヤングさんですか。
【N】このヤング案というのは、賠償金をいくらか減額したうえ、年毎の支払い額も緩和。年平均約20億マルクで59年間かけて払う。そして連合軍も6月30日までにラインラントから撤兵する。──といったような内容で、結構いい条件だった。

[TIME]----00:46:57 ヤング案反対運動
【N】なのでシュトレーゼマンは受け入れるつもりだった。
【D】はい。
【N】しかし、これにドイツ国内の右派、民族主義者たちが反対の声を上げる。59年間、カネ払い続けるというのはドイツ人を奴隷化することも同然だ、というわけよ。
【D】(笑)──なるほど。
【N】まけてもらおうが何だろうが、そもそも彼らにしてみれば賠償金もヴェルサイユ条約も破棄すべきものな訳。
【D】払いたくねえと、基本的に。
【N】払いたくねえ、破棄しかないんだ! と。それを59年間払うとか馬鹿じゃねえのという思いがあった。
 とりわけ「※国家人民党」(DNVP)という保守派の党に、アルフレート・フーゲンベルクという実業家の右派政治家がいるんだけれども、このフーゲンベルクが、ヤング案を拒否するための国民請願運動というものを始める。これは国民に訴えかけて皆で反対しようじゃないか、という運動ね。そしてヤング案を拒否するための法案「自由法」(Freiheitsgesetz)を出す。

※「国家国民党」という日本語訳も多いです。

【N】このヤング案反対運動の請願委員会にヒトラーも加わり、ナチ党としても運動に参加していく。そして、これによってナチ党も力を伸ばすことになる。
 このヤング案反対運動だけれども、メンバーに財界の大物や資本家が多かった。実際、主導したフーゲンベルクも実業家なんですよ。

[TIME]----00:48:24 アルフレート・フーゲンベルク
【N】──この人は初登場かな? 鉄鋼・軍需企業のクルップ社という、非常に有名な会社の取締役で、自分自身では新聞社、映画会社も持っていた。その映画会社というのがウーファ(UFA)。

[TIME]----00:48:44 ウーファ(UFA)
【D】うーふぁ?
【N】この数年前に「メトロポリス」なんかを作った会社です。
【D】おぉ、マジか。へえ。
【N】すごい巨大な映画会社だよね。ちなみに『バビロン・ベルリン』のシーズン3の舞台になった撮影所もウーファです。本当にある会社なんですよ。ドラマを観た人はおなじみ……。
【D】メトロポリスをアレですよ、ひところ乃木君のナンバーワンだったんじゃないかという……。
【N】あー、むかし好きでよく観ていましたよ。だからウーファなんていうのは昔からなじみ深い名前だったね(笑)
【D】(笑)
【N】まあ、フーゲンベルクはそれのボスだった。
【D】なるほどねえ。

※ウーファ(UFA)……もともとは、プロパガンダ映画を制作するために陸軍総司令部(OHL)が設立した部局「BUFA」が前身で、1917年12月、ルーデンドルフの主導で、複数の民間の映画会社を合併する形で「Universum-Film Aktiengesellschaft(UFA)」が誕生。大戦後は『ドクトル・マブゼ』(1922)、『ニーベルンゲン』(1924)『メトロポリス』(1926)などを制作し、ドイツを代表する映画会社となりますが、1920年後半に経営状態が悪化。1927年にフーゲンベルクが買収します。現在もテレビ制作会社として現存しており、ヨーロッパでは現存最古の映画会社の一つだそうです。

[TIME]----00:49:23 右派のメディア王
【N】いわゆるメディア王であったわけね、この人。ただ彼自身は反共和国的な保守派・右派なんですよ。そして、この人がいた国家人民党はブルジョワの右派が支持母体だった党。
【D】うん。
【N】そういう彼がヤング案反対運動を巻き起こす。

[TIME]----00:49:45 党とブルジョアとの結びつき
【N】なので、ヒトラーやナチ党はこの運動によって、実業家や企業と近しくなるんですわ。そして援助を得られるようになる。ナチ党は慢性的に資金不足だったんだけれども、そうした支援によって潤ってくる訳ね。
【D】うん。
【N】基本的にヒトラーは、もともと反資本主義を掲げておきながら、党の利益のためには平気で資本家の支持を取り付けようとするわけですよ。これを党内左派のシュトラッサー、特に弟のオットー・シュトラッサーなんかは気に食わない。社会主義的にはブルジョワ、資本家とつるむのはよろしくないわけだから。
【D】基本的にはそうですね……(笑)

[TIME]----00:50:29 復活
【N】こうした流れの中、1929年8月1日からニュルンベルクでナチ党大会が開催されるんだけれども、前回よりも規模も予算もレベルアップ、大成功を収めます。そしてこの時期、党員は13万人に達していた。ナチ党は名実共に復活したと言えるわけ。
【D】はい。
【N】早いよねえ、やっぱり。一回はほぼ壊滅しているんだからね。
【D】そうだよね、4~5年で……。
【N】とはいえ、いい調子なんだけれど、ヤング案反対法案そのものは12月に否決される。国民投票でも賛成はわずか13・8%で、成立しなかった。
 まだ国内の雰囲気も、完全には右派を受け入れる余地は少なそうですわな。
【D】うーん。

[TIME]----00:51:21 巨人の死
【N】しかしその流れに並行して、これをひっくり返し得る事態が起きていた。ドイツの相対的安定期がまさに終焉を迎えます。
【D】なに。
【N】まず10月3日、外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンが脳卒中で死去します。
【D】ノーベル平和賞の?
【N】そうそう。ハイパーインフレを脱し、ロカルノ条約を締結させた人ね。
 51歳でした。
【D】若いっすね。
【N】過労で体を壊していたから、それが関係していたのかもね。
 ──ドイツをドン底から引き上げ、国際社会に復帰させた立役者ですよ。この人ね、もともとはポジション的に保守派だったんだけれども、冷静に国益を考えて融和的外交政策を進めてきた。
 長期的な目標だと評価は分かれるところだろうけれども、もっと長生きしていればドイツはどうなっていただろうかと──、そう考える人も多い、まさに巨人の死だった。
【D】うーん。
【N】これね、ネタバレだからあんまり言えないけれどね、ドラマでも盛り上がるんだよな、ここ……。
【D】あ、そうなんだ。へー。
【N】シュトレーゼマン、ドラマに出てくるんだよ。そして、この人の死をドラマのハイライトに持ってくるんだけれど、いいシーンでしたよ……。
【D】そうなんだ。
【N】マジで「ドイツ、終わった……」と思わせるような描かれ方していた(笑)、
【D】へー(笑)
【N】向こうでもそういう印象があるんでしょうね。
【D】うん、なるほどね。
【N】シュトレーゼマンが死んでしまいましたよ。
【D】はい。

[TIME]----00:52:54 暴落
【N】──そして、それから間もない1929年10月24日、木曜日。
 ニューヨークのウォール街で株価が大暴落。
【D】あ、これは……、例のアレじゃないですか。
【N】いわゆる「世界恐慌」ですね。
【D】はい。これは知っている人がいっぱいいるんじゃないでしょうかね。
【N】そうね。──まあ、シュトレーゼマンの死と世界恐慌が立て続いたのは偶然でしょうけれども、これ、1つの時代が終わった象徴として結びつけてしまうのが人情ですね。
【D】ドラマ化してしまいますね。
【N】ドラマ化してしまうんですよ。実際、ドラマでもここがホントにハイライトになる訳ですよ(笑)
【D】(笑)

[TIME]----00:53:31 エーファ・ブラウン
【N】さて、世界恐慌でどうなっちゃうの? というところで一方のヒトラーさんですが──。
【D】はい。
【N】ここは軽く触れるだけにしておきますが、この頃、ヒトラーは23歳年下、当時17歳のエーファ・ブラウンと出会っています。
【D】何やってるんだよ……(笑)
【N】彼の専属カメラマン、ホフマン──ヒトラーを刑務所に迎えに行った人ね──。この人のスタジオでモデル兼助手として働いていた女の子なんですよ。
【D】はぁ。
【N】で、エーファの回想によれば、そのとき、ヒトラーはじっと足を見ていたみたいですね。
【D】気持ち悪い(笑)
【N】趣味だったのかもしれないですね(笑)。でも、彼女がね、生涯のパートナーとなる訳ですよ。
【D】そうですね。最期の時も一緒にいたという──。
【N】そうですね。──だから、大きな何かが終わると同時に、小さな何かが始まった、と強引にインサートしておきたい。ということで、まあ閑話休題。
【D】(笑)

 第7夜に続く──

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