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母が流した「最期の涙」

 この写真は、私が6歳、次女4歳、三女1歳のときに、父が撮ってくれたものです。
 そして、私達三姉妹の大好きだった母。この、とっても優しい表情をしている母は、49歳という若さでこの世を去りました。
 母との想い出でいちばん古い記憶。それは、私が3~4歳くらいのとき。
 ある夕方、母が「あっちゃん、今日の晩ごはん、カレーとハンバーグとどっちがいい?」「んー、あっちゃんねぇ、カレーがいい!」すると母は、「自分のことは、あっちゃん、じゃなくて、わ・た・し、っていうのよ」と優しく優しく教えてくれて。夕食のメニューを選ばせてくれるという幸せなシチュエーションと相まって、本当に本当に幸せな気持ちで、その時の母がどんな服装をしていたかまで憶えているくらい。
 そんな母と、私は、24年間しか一緒にいられませんでした。
 母がすい臓ガンだとわかったとき、すでに余命4ヶ月。12月下旬に宣告を受けて、本当に翌年4月の半ばに亡くなってしまいました。壮絶な闘病生活でした。
 でも。その4ヶ月で、私達三姉妹は、百年分の愛情を注ぎきってくれた母に対して、出来る限りの「お返し」をすることができたように思います。季節的にも極寒で、つらいつらい日々だったけれど、今思い返すと、そこだけキラキラしているように感じる4ヶ月でした。
 母の最期の日。私達は、朝からずっと母のそばを離れることができず、食事もせずに耳元で母を励まし続けていました。夜9時ごろ、さすがに何か食べないと私達のほうが参ってしまう、と、妹達が「たらこスパゲッティ」を買ってきてくれて、なんとか食べ終えたとたん…。
 「意識はなくても、聴覚だけは最期まで機能し続ける」というのは本当のようで、まるで私達が食事を終えて安心したかのように、母の心電図の波形が乱れ始めたのです。慌ただしく病室に走ってくる医師やナース達。
 母の、最期の力をふり絞って大きく息を吸う音。父が必死で母の名前を呼ぶ。「お母さん、死なないで」と泣き始めてしまう妹達。私は、最後まであきらめたくなくて、泣くのを我慢していました。すると、それまでボーッとしていた母の表情が、元気だった頃の表情に戻った、というか、「みんな、ありがとうね。お母さん、とっても幸せよ」とでも言いたげな、たまらない顔をして、両方の目から一粒ずつ涙をこぼしたのです。私は、その涙をハンカチで拭ってあげました。そして私達の大好きな母は、眠るように安らかに旅立っていったのでした。
 その後しばらくの間、私は「たらこスパゲッティ」を食べることができませんでした。そして「もしお母さんが生きてたら、私は心を病まなかったかもしれないのに」なんて思ったりしていた時期もありました。しかし、いつだったか、当時の主治医が言ってくれました。「もし、お母さんが生きていたら、あなたはおんぶに抱っこで、何もできない人になっていたかもしれないですよ。お母さんは、命がけであなたを強い女性になるようにしてくれたんだ、と思いなさい」
 今振り返ると、本当にそのとおりだと思います。私は、大好きだったお母さん無しでも、過酷な道を切り拓いてくることができました。私もあと3年くらいで母が亡くなった年齢になります。心を病んで、ある時期、長い間「死にたい気持ち」に苦しんだ私ですが、今は、母の倍くらい生きて、母の分まで社会に貢献していきたいと思っています。

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