ずっと自由な教育がいいとおもっていたけど、どうやらそうでもないらしい。

仕事で幼児教育の先生をしています。まだ就学前の子供達に対して、きちんと椅子に座って指示を聞いて、それに従うようにしているのですがこれがなかなかの至難でして。

Fbなんかで友人知人の書き込みを見ると、現公共教育の批判だったり、自由主義の学校に行かせたりとなかなか先鋭的だったりする訳です。自分の頃を思い返しても、強制的なのは嫌だったよなぁ、楽しくなかったよなぁと嫌な印象を思い出したりして。
で、「のびのびと自分らしさを発揮する教育が今はいいんじゃない?」なんて思っていたのですが、松岡亮二先生の教育格差という本に出会って、学校教育のありかたについてガツンと頭を殴られました。

もともと、私は子供の教育と子供の相対的貧困に興味がありました。自分の子供を頑張って、教育熱心なママとしていい学校に行かせいい就職先につとめさせたとして、その先になにがあるのだろうかと。

相対的貧困で育った子供が、まともに就職ができず生活保護受給者になったら?結局、社会保障費を負担するのは就職して働いている人間ということになるはずで。どうにか頑張って育てた子供がほかの人間を支えるために働く世の中にするのか…?まぁ今の世の中だって、そういった側面をもって何とか回っているような回っていないような感じなのですが。身分格差が循環しているというのを私自身身実感していて、何かそれに危機感を感じているのです。

で、本の話に戻ります。この本の素晴らしいところは、松岡先生の熱意です。何となくこうじゃね?で語られてきた教育行政を、根拠をもって論じられるようにデータを集めて、これまでの成り行きとこれからあるべき姿を論じてらっしゃるのは、何より「このままじゃやばい」の想いがあるからだと思うのです。
そして個人的に響いたのが、自由な教育(強制力をなるべく少なくした教育)にするほど、格差が広がる、という話でした。考えればなるほどなのですが、お金持ちほど習い事や塾にいける時間もお金もあるわけで。
お金がなくて働かなければいけないうちはまず通わせられない。物理的にも、金銭的にも。このあたりから格差がどんどん開いていくんですね。

強制的にできる子もできない子も同じ空間で同じことをする場だと、できない子ができるようにする努力が「できる」というのが目から鱗でした。
花屋に並んでいる花はどれも綺麗だけど、その花一輪ずつ値札が違うよね、というのも強烈なメッセージです。
学校は労働者養成所じゃない、という見方もあると思います。一方で、やはり基礎的な学力をつけるのは働いて生計を立てる道筋をつけるため、という理由もありそのために学校があるとも言えますし。本来は学校は、学問を教える機能だけの場所が、保護者のオールインクルーシブな期待に応える機関になっているので人によって定義が様々になっているのだろうと思います。サードプレイスとか、そのあたりもとても大切だと思っています。

まとまらない文章ですみません。
まあ自分の仕事にあまり意義を感じられない部分があったのですが、小学校への抵抗をなくすことがその子や保護者にとって安心になったり、小学校教員の負担軽減という意味でも意味はあるのかなと最近感じるようになりました。

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