コミュ障

私は、よく話す。
でも、人間関係に失敗する。

話すので、人見知りではない。
人が苦手ではない。
コミュ障ではない。

と、よく言われるが、人との距離感の取り方がわからない。
沈黙が怖い。
どこまで自己開示すればいいのかわからない。
どこまで相手の話を聞けばいいのかわからない。
なんと言えば相手を傷つけずに済むのかわからない。

人間関係で大きな失敗ばかりだ。

大切になればなるほど、かなりの至近距離まで来ると、相手を慕う気持ちが強すぎて、相手はそんなことは思っていないのに、嫌われることが怖くなり、どんどん言葉を選びに迷い、自分の作り出した勝手な不安と恐怖なのに「相手が怖い」と言ってしまい、相手を傷付けて関係を壊してしまう。

滅多に心から慕う人は少ない。
その分、相手によって対等でいられたら、いい距離感をたまたま掴めたら良いけれど、相手に対して私が偉大な親のような存在に感じてしまうと、親に愛されたい子供の心理が働くのだ。

敬愛し
畏敬の念を抱き
褒められたい
認められたい
叱られたくない
と、怖くなってしまう。

最後のは親は間違いを厳しく叱っても見捨てることはない。
けれど、私の中にはインナーチャイルドがいて、見捨てられ不安がまだ強いのだ。

しかもこのインナーチャイルドは、本当に何日か前にやっと見つけて捕まえたばかり。
一生懸命、その子より少しだけ大人の私が抱きしめてあげて、一緒にこれからもっと大人に。
もっと幸せになろうね。って手を繋いでいる愛情がまだまだ足りない私。

でも、この子が悪いんじゃない。
この子が出てこれないくらい、親を憎み、幾重にも殻を被ってきた私のせいで閉じ込められていた子。

私が悪いのだ。

私は本当に大馬鹿者で、天使先生を傷つけて遠ざけてしまった。

でも、知らず知らずのうちに、完全に親を求めるくらい依存してしまい、"親の言う事をなんでも聞く子供"に戻り、勝手に見捨てられ不安を抱き、怖がり、大切にしてくれていた天使先生を傷つけ、遠ざけてしまったのだ。

心の中の怖いと言う気持ちと、大好きな気持ちと、なんとも言えないモヤモヤした気持ちは

母親を求めている
依存している
何でも言う事を聞き、自分で考える事をやめているぞ。

と言う警笛だったのだと思う。

こんなに大好きで、尊敬して大切な人から離れ、胸を張って会えるまで会えない。
大切なのに傷つけたのは私。
自分のことしか考えていなかった。
だから傷つけてしまった。
今は大切な人と呼ぶ事も違うと思う。

だから会わない。
会えない。

独り立ちをいい歳をして決意しなければならない。

こんな人間をコミュ障と呼ばずして何と言うのだ。

コミュ障=人の気持ち・機微のわからない人

これはよく分かった。
自分を伝えようとするがあまり、相手を知ろうとするがあまり、相手の距離…相手の気持ちや機微に気付けなくなり、誤解されたり、最悪、自分の恐怖心から相手を決めつけて傷つけ、縁が切れる。

凹んでいるけど、学びもあった。
ネガティヴの中にも必ずポジティブがある。

私は小さな私と手を繋いで、これからも生きにくい自分を生きやすく、幸せにするために何度失敗して凹んでも、必ずプラスを得て幸せになる。

そして、現在、過去、未来
私に関わってくれる、気づきをくれる、いい事、幸せを教えてくれる人々にごめんなさいと感謝をしながら、最後は笑顔で感謝とポジティブな言動ばかりの「大人」になる。