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選挙だからこそ考える代議制から株式会社、DAOまで。

2021年10月31日はハロウィンもだが、日本では衆議院議員選挙の投票日だ。そんな日だからこそ、今注目をされているDAOも含めて組織の在り方について、一度問い直してみたいとこの記事を書いている。

アナログからデジタルへ、そしてアナログへ

デジタルとは何かというのを考えた時、それは、アナログの世界をいくつかに分解してそれを2進数に置き換えて表現することとも言える。そして、このデジタル化が進みその分解の解像度がどんどんと上がっていくことになる。

視覚で考えるのが一番早いかもしれない。8ビットのドット絵から始まり、解像度がどんどんあがり、2K, 4K, 8Kと解像度は上がり続けている。一説によると、人間の目の画素数は9600×9000と言われている、つまり、約9Kが2個あれば、もはや人間の目にはそれが現実かデジタルかの判別ができないということだ。

ここまでで、私はふと考えたのだ。デジタル化ってなんだ?と

デジタル化とは実はアナログ化ではないのだろうか?つまり、デジタル化するということは、突き詰めて言えば、現実世界と同じ状態を作り上げるということであり、それが出来てしまえばもはやそれはデジタルではなくアナログであると。

このように、科学技術の進歩はデジタル化によってさまざまな課題を解決しながら最終的には、より規模の大きなネイチャー(自然)を作っているというような感覚になってくる。

代議制や株式会社すら疑ってみる

なぜ前段でデジタル化がアナログ化であるということを言ったのかというと、デジタル化はアナログ世界を大規模に拡張した大きなアナログ世界を作ることが出来るということなのだ。

小さな組織であれば全員がその意思決定に参加できて、組織運営ができる。しかし数が大きくなればなるほど、意思決定は容易ではなくなってくる。だからこそ、もともと直接民主制で始まった政治は(奴隷制度下であったことは一旦横に置いておく)代議制となって、誰かが代わりに政治を行うという形が世界のスタンダードとなっていき、今の形がある。

常識というのはその根本を疑うと実は常識でないということもある。代議制がそもそも理想の形だろうか。

直接民主制というのが理想だが、一人ひとりの意見を瞬時に集約して意思決定を行うことが出来なかったからこそ「しかたなく」この仕組みになったのではないか。

この形になったのには何か制約があったからと考えるのが自然で、それは直接民主制を実現するための「コスト」や「時間」であろう。これが劇的に改善されれば一瞬で全国民の意見を集約して政策に反映させるということも不可能ではないし、それは今の技術でも出来るような気がする。

だとすると、代議制というのは常識ではなく、代替手段もあり得るのではないか。そう考えても不思議ではない。

政治だけではない。資本家と労働者と消費者という区分についても、もう一度根本から考えてみても良いのではないだろうか。

資本家と労働者がイコールであれば労使の争いは起こらないかもしれない。そして資本家、労働者、消費者全員がステークホルダーであれば色んな組織の問題が解決するのではないか。

DAOが可能にする未来の人類

DAO(Decentralized Autonomous Organization)といのはまさにそんな未来の組織を作り得るのではないか。おぼろげながら浮かんできたのです「DAO」という言葉が

資本も消費者が出している、そして働いた人にはその分が自動的に分配される。組織全体のバリューが上がればシェアホルダー全員がハッピーになれる。

しかし、今、2021年現在にこれを行うことが出来るのは、ある程度デジタルに対するリテラシー、PCやインターネット環境等をそろえることが出来る一定程度の経済的な環境、学習することに慣れていることなど、そこから逸脱する人がまだ多数いることも現実だ。

DAOが素晴らしい組織形態であることは間違いない。それは代議制という今まで「仕方なく」採用していた方法や、株式会社といういままで「仕方なく」採用していた方法から、もう一段違う直接的なかかわり方を提示してくれていることは間違いない。

我々人類は、デジタル化の進展でより自然でプリミティブな生活に近づいていけるのかもしれない。

しかし、それでも取り残される人が出てくる

DAOが全員参加の組織として成立しうるというのは分かっていても、それでもそこに参加できない人は出てきてしまう。これはあと100年くらいずっとそうかもしれない。だからこそ「インクルージョン」ということを常に意識しなければならない。

教育を受ける権利もだし、そもそも助けを必要とする人たちも多く存在する。だれかに依存することを是とする生き方を選択する人もいるだろう。そんな一人ひとりを置いていかずに新しい仕組みを作ることができるのか。大いなるチャレンジでもあると思う。

鉛筆の削り方を極めるのか、シャープペンシルを発明するのか

まとめると、今の常識は常識ではないという話なのだ。

家族団らんというのはテレビが各家庭に導入されてから広まった文化であると先日NHKのブラタモリで言及されていたし、父が働き母は家庭でみたいなものも、ここ100年くらいの習慣でしかない。それくらい「今」の常識は常識でないということなのだ。

鉛筆は木でできていて中に芯が入っているのが常識と疑わない人は、一生鉛筆を削り続けるだろう。しかし、「そもそも鉛筆ってこの形が理想なのか」と疑問に思った人はもっと便利なものを発明する。

今の常識の中での義務や努力は続けながらも常にその常識そのものを疑う目を持ち続けていたい。それが新しい発明につながるし、世の中をドラスティックに変える力の源となるのだ。知らんけど



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