失恋から気づいた話

 家族や友人との連絡や仕事以外で、自分以外の目に留まるかもしれない文章を書くのはずいぶん久しぶりな気がする。

 もともと、誰に見せるでもなくひたすら自分の感情をつづるのが好きだった。
 高校時代、授業の合間に一冊のノートを取り出しては、その時々の感情を吐き出していた。
 「独り言」と題したそのノートには「眠たい」「おなかすいたなあ」「今日のお昼は何にしようかな」だとか本当に些細で、そしてリアルタイムの感情を、体裁も何もなくただひたすら書き付けていた。

 この習慣は大学生になっても、社会人になって数年たつ今でも続いていて、その時々の気分でそれはノートであったり、スマホのメモ帳であったり、LINEで作った私ひとりきりのグループであったり、吐き出す先は様々。


 まあそんなことはどうでもよくて、どうして思い立ってこんな風に記事を作成しているかといえば簡単な話で、失恋して暇だっただけである。
 大型連休とはいえ、感染症も流行していて自粛モードで自由に動き回れるわけでもなく、自宅でできる趣味もあるけれどそればかりしているのも飽きてきた。

 暇は私をだめにする。 
 私はもともとさみしがり屋で、かといって友人が多いわけでもない。特に社会に出てからは環境の変化もあって、学生のころと比べると格段に誰かと連絡を取り合うことも減った。

 恋人と別れたばかりで、正直それはもう引きずっている。
 まあ、ようするに暇だと元恋人のことばかり考えてしまってだめなのだ。なんならこっそりSNSを見たくなったりしては「見てもいいことはない。何をみてもつらくなるだけだから見ない」と言い聞かせては、また連絡がこないかなあなんて考えてしまう。
こないとわかっていてもスマホを眺めてしまうし、無駄に気にしてしまって、結局鳴らないスマホに落ち込んでしまう。


 世間的にはよくある失恋。同じように苦しんでいる人はそこら中にきっといる。それでも私にとっては一世一代の恋だったし、今までとこれからの人生で今が一番つらいんじゃないかと思うほどに苦しい。

 失恋の原因については長くなるので割愛する。
別れを決めたのは私だったけれど、そこに至るまでいろいろなことがあって、その中で私はたくさん自分の改善すべき点を見つけることができた。うまくいかなかった恋だけれども、決して無駄な時間ではなかった。

 その改善すべき点の中でもっとも大きなのが「自分を愛すること」だった。
 最近はよく「自分を大切にする」「自分を愛すること」が大事だとよく見かけるようになった気がする。それだけ、自分を愛せていない人が多いのだろう。

 私だってそうだ。元恋人に振り回されるうち、彼に依存して、気づけば自分の時間のほとんどを彼に費やしていた。それは、一緒にいることだったり、一緒にいなくても彼にあわせて電話をしたり、会えない時には「ほかの女性といるんじゃないのか」と不安になったり。

 もともと自己肯定感が低かった私は、そんなことをしているうちに当然ながらもっと自己肯定感が下がっていった。
 そうしてついに耐え切れなくなって感情を爆発させた結果、元恋人にLINEで別れを告げて終わった。我ながら未熟なものだ。

 別れてからは何度も考えた。どうして感情を爆発させるに至ったのか、どうすればもっとうまくやっていけたのか。そうしていくうちにようやく、私は彼に大切にしてもらいたいと願うのではなく、まず自分を大切にすべきだったと気づいたのだ。

 彼を大切に、彼を何より最優先にしていればきっと愛してもらえると、そんな風に思い込んでいたのだろう。そうやって過ごしていると当然彼は私が尽くし彼の都合にあわせるのが当たり前になっていって、逆に私はどんどん息苦しくなっていった。
 
 たぶん、ほんとうは、私を愛したうえでその余剰分を彼にまわすのがよかったんだと思う。そうすれば「してくれない」ことにばかり目を向けて苦しくなることもなかった。
 けれど渦中にいたときには必死で気づけなかった。

 離れてから一人の時間が増えて考えるうちにようやく底にたどり着いて、ならばまずは彼のことばかり考えて苦しくなる時間を減らしたいと思った。
 鳴らないスマホを眺める時間を減らそうと思った。そうしてこの記事を書き始めたのである。

 とはいえ、思い立ってすぐに気にならなくなるわけもなく、こうして書いている今もたまにマナーモードにしたスマホをちらりと見ては、なんの通知もないことにがっかりするのだ。
 でもまあ、何もせずにただスマホばかり眺めて無為な時間を過ごしていたよりはましだろう。

 元恋人は、私の友人に言わせると「ほかの誰と付き合っても、彼自身が変わらない限りきっと誰ともうまくいかない。別れて正解だった」らしい。自分から別れたとはいえ、いまでも好きだし未練しかないし、何より一度は付き合った相手なので悪く言いたくはないが、まあ確かにそのとおりである。
詳細は省くけれど、私の感情が爆発したのも元恋人の女関係だったから。

 そんな相手でも先述のとおり私にも改善すべき点はあったとたくさん反省したし、自分のダメなところ全部直してもっと人間的に成長すれば、彼もいつか変わってくれるかもしれないと思ったこともある。
 なんなら、別れてすぐのころ「3か月本気で自分を磨こう。そうして、3か月後もまだ好きだったら、もう一度彼に連絡してみよう」とまで思っていた。変わった私を見せれば彼の気持ちも変わって、ほかの女へふらふらしなくなるかもと思った。
 
 でもその時点でもう違っていたんだと今ならわかる。彼が変わることを求めている時点で、私が好きなのは彼自身ではなくて、私の中にしかいない「私だけを見てくれる理想の彼」なのだ。
 
 自分を成長させることは決して無駄にはならないし必要なことだと思う。けれど、彼に変わってもらうために自分を変えようとしていた。それは自分の成長ではなくて、好かれるためのメッキでしかないのではないかとようやく思えた。

 私が、私を愛するため、もっと幸せにするために変わらないといけないのだと。
 「愛してよ」と求めるのは、本当は私が自分を愛せていないから、その穴埋めを誰かにしてほしいのだ。
 それで、またイチから知らない誰かと出会って、私という個を開示して、受け入れてもらえるかだとか、好きになってもらえるのかだとか、それが面倒で怖くて、だから一度は受け入れてくれた元恋人なら手っ取り早いんじゃないかと思って未練を捨てきれないのだ。

 いまこうして文章を書くうちにそんなことに思い至った。

 彼と知り合ってから別れるまでの期間はそんなに長くない、というか1年にも満たない。なんなら付き合った期間もかなり短い。
 それでもこれまでの好きになった人の中でだんとつで好きだし、初めて「どんなにぶつかっても仲直りして、話し合って、自分を成長させてでもそばにいたい」と思える人だった。

 何度も泣いた。何度も彼にも気持ちを伝えた。めったに人に涙を見せない私が、唯一何度も泣き顔を見せた人だった。
 
 こうして書いている今も本当は好きで好きで仕方ない。けれど、離れないと私がだめになるということも分かっていた。

 私はわりといい歳で、この年になってようやく「自分を愛すること」の大切さに気付いた。人は遅いというかもしれないし、私ももっと早く気づけただろうにとも思う。
 
 とはいえたらればを言っても仕方のないことで、この人を好きになったからこそ気づけたのだから、彼が気づかせてくれた大切なことを無駄にしたくないなあと思うのだ。
 自分を愛することはとても大切だけれども私にとってはとても難しい。

 難しいけれど、せっかく暇なのだから、自分を愛することを今後のテーマとしてしばらく生きてみるのもいいのかもしれない。

 そんな風に思わせてくれた、元恋人へ感謝を。

 だらだらと自分の思うままに書き連ねたこの文章を読んでくれたあなたに感謝を。

 

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