目が悪いかもしれない話

なんだか悲しい話だけど

 いつからだろうか、景色や風景、美術みたいな、視覚的に影響を与えるものに感動が出来ない自分がいる事に気付いた。と言っても、それらが「綺麗」「美しい」と形容されている事に疑問を持つ訳ではないし、「綺麗なんだろうな」とは感じている。
 中学生の頃、冬に好きだった子とイルミネーションを見に行った。連なった電球の装飾を目の前にしても、それより繋いだ左手の手汗が気になる。「綺麗」と呟く彼女の横顔にドキドキする。この後は家まで送った方がやはり良いかななんて思考を巡らす。しまいには、電飾の眩しさが思考の邪魔をする様で目を逸らしそうになったのを覚えている。
 高校2年生の修学旅行、みんなで民泊先のおじいに夜中外に連れ出してもらって、一列に寝転んで星を見上げた。「普段見るよりやっぱ星が多いな」と思った。夜風がとても心地よかったし、同じ班だったM君との会話が余りにも盛り上がったからとても良い思い出ではある。ちなみにM君とはこの修学旅行をきっかけに、未だ親しくさせてもらっている。後、流れ星がバカみたいに流れてきたのには流石に驚いたな。全然レアじゃねえじゃんと思った。
 大学1年生の夏、今は辞めてしまったサークルのメンバーで花火を見に行った。わざわざ浴衣を着て、髪までセットして行ったのを覚えている(わざわざサークルとは関係ない高校時代の友人S君を呼び出してセットしてもらった、すまん。ありがとう)。その日自体は楽しかった訳だが、花火を見ている間は正直退屈だった。沈黙に耐えられなくて「すげえ」とか「綺麗だなあ」とかしきりに言ったのを思い出す。それよりも、2人で写真を撮ろうと約束していた子にどのタイミングで喋りに行くかばかり考えていてそれどころじゃなかった。しかも結局撮れなかったんだよなあ。チキンだったね。いつまでも心は童貞です。

月が綺麗

 と、いくつか過去を振り返って例を挙げてみたが、他の事に夢中でその時見るべきものにそもそも注目していない事が分かった。だけど、本当に感動するものってそういうのも無視して心を奪われるものじゃないのかな、なんて思ってしまう。
 もしかすると、「僕が感動出来ない」のではなく「本当に感動できるものを見た事がない」という単なる経験不足の可能性もある。
 事実、僕はその他の事象では感動しやすい人間だと思う。例えば文学。僕は本が好きで良く読むが、内容は勿論、「こんな表現方法あるのか」とか、「ここでこの言葉を選ぶのか」みたいに、人によって全く違う日本語面白さに心を揺さぶられる。
 めちゃくちゃベタだけど、夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳した話。これが作り話だろうが本当だろうが、どちらにしてもこの話が存在する時点でそう訳した人間がいた事には間違い無くて、その事実に物凄く心が震える。
 僕だったら「好きな人っているの?」って訳しますけどね。うわ〜死ぬほどベタ〜。ベタだしきっしょいな。どうせならボケろよ!!!!
 音楽においても、僕は歌詞に注目する事が多いから、自分が心を掴まれるのは文学の要素、日本語の美しさが強い。だから僕は殆ど邦楽しか聞かない。とは言っても、サウンドそのものに何とも言えない感情にされる事もある。だから、メロディーと歌詞が相乗効果を発揮している曲なんてのはとんでもない。兵器だそんなもん。

バックボーンによる影響

 この、「感動」の件について、僕はかなり影響されやすい人間なんだな、と感じる出来事があった。
 これも中学時代、僕は友人に連れられて美術作品の展覧会に赴いた事がある。僕は絵画やその他の美術作品に関心が無い為、適当に友人の後を追いながら時間が過ぎるのを待った。
 一つの絵の前で友達が立ち止まって、「これ凄いんだよなあ」とぼそっと零したのでなんとなしに「どこが凄いん?」と聞くと、友人はキラキラと目を輝かせて熱弁を始めた。
 内容としては、絵を描いた方の生い立ちから始まり、この絵を描いた経緯とその絵の背景、及び込められた思い等である。詳しい内容は正直思い出せる訳ではないが、彼の嬉しそうな顔が忘れられない。
 その話を聞いてから目の前の絵を見ると全く違うものに見えてきてしまう。さっきまで何の意味も持たなかった絵に引き込まれそうになる。作品そのものというよりも、作品の裏側まで引っくるめて心が動かされた訳である。冒頭で美術に感動出来ないと言ったが、その作品が出来る過程や作品では語られていない事実などの全てをまとめて「美術」と言うのであれば、その発言は訂正したいと思う。
 これらの出来事をつい最近ふと思い出して、自分は「ただただそこに見える綺麗なもの」よりも「存在している事に理由、意味があるもの」に惹かれるのかもしれない、と考えた。さっきも言った様に本当に感動する様な景色に出会えてない可能性もあるけど。
 この事が正しければ、もしかしたら、花火やイルミネーションだって、僕の目に映るまでの全ての過程を知る事が出来たなら感動出来たかもしれない。

いつか感動する景色に出会えますよう

 これが僕が景色や風景よりも文学や音楽に心を動かされる理由だろう。正直僕は、視界に映し出される景色を見て、素直に美しいと感じられる人、涙を流す事が出来る人の事をとても羨ましく感じる。しかし、それと同時に言葉の美しさや物事の成り立ちに心を動かされる自分の感情も大好きだ。
 今回僕が言いたかった事は、僕が特別とかそう言う事ではない。その逆だ。恐らく、僕みたいな人はこの世に死ぬ程いるだろう。僕と真逆な感受性の人だって、何にも魅力を感じる事のできない人だって、全てに感動できる人だってたくさんいると思う。
 だからもし、皆が「美しい」「綺麗」と思うものに魅力を感じる事が出来なくても、何も気にする事は無いと思う。自分が感受性が欠落してると感じる必要はないんじゃないか。
 いつか、自分が心から感動できる景色に出会えたらと思う。その時にはこの文章を全部書き換えないとな。

 



 


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