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ルーフトップ

今回の短編は、待ち合わせの暇な時間に、頭に浮かんできたフィクションです。

良ければ一読ください。
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 近頃、注意力が落ちたと思うことが多くなった。
「つぶやきからわかる」と彼女に言われてからかもしれない。

 つぶやき、それは僕のどの言葉について言っているのだろうか。
「どうして、そんなことがわかるの?」と僕はかつて聞いたことがある。

「何でもないことよ」と彼女はまるで別れの挨拶をするように呟いてから、僕の格好見て少しだけ眉をしかめた。
 彼女はそれ以上何も言わなかったし、僕も何と言っていいのか、分からなかった。

 頭に白い靄がかかっていた。
 それは怒りだったのかもしれないし、そもそも感情と呼べるものでもなかったのかもしえない。
 とにかく、彼女が「つぶやきからわかる」と言った後、まるで状況が理解できなくなった。
 彼女の言葉に頭が追いついていかないように思えた。

 そのときになってようやく自分が、6月の蒸し暑い夜に、上下厚手のスウェットを着て、街頭に突っ立っていることに気がついた。

「暑いな」と僕は言った。
「そうね。脱いだら?」と彼女が言ったので、僕はまず上着を脱いでから、スウェットパンツの裾をたくし上げた。

 その間に彼女は素早く携帯を2、3度チェックしてから、何か熱心に文字を打ち込んでいうるようだった。

 僕は彼女との距離を目で測った。
 ちょうど、それは駅のホームと向かいのホームの距離くらいだった。

「あなたにチケットを渡したでしょう?」と彼女は携帯から目を上げずに言った。
「もらったよ。今も財布にしまってある」
「今、見せてくれない?」
「わかった」と僕は言って、財布から彼女に貰ったチケットを取り出して見せた。

 彼女は携帯から少し目を上げて、すぐに画面へ目線を戻すと熱心に指を動かしていた。

「いったい何をしているんだ」と僕は少しイライラとして言った。
「大事なメッセージを確認しているの」と彼女は言った。

 僕は2、3歩彼女に近づいた。

 そうすると、手を伸ばしたら彼女に届くかもしれない、と思ったのだ。

 僕と彼女は隣り合う高層ビルの屋上に立っていた。
 向かいの屋上の距離はちょうど、駅のホームと向かいのホームの距離くらいだった。
 
 目測終えて、彼女にいつになったらこっちに来てくれるのか聞こうと思った。
 今日の待ち合わせ場所は、僕のいるビルだったから。

 僕は白くて頑丈そうな向かいの屋上のフェンスを見るともなく眺めていた。
 白い鉄骨が二重になって屋上を取り囲んでいる。
 彼女のいるビルの屋上はきちんと整備されており、非常に安全そうだった。

「今からそっちに行くべきかな」と僕は言ってみた。
「いいえ、来なくていいわ」と彼女は携帯から目を上げずに言った。

 僕はいったいどうすべきなのかわからなくなった。
 ただ『言うべきでないこと』についてはわかっているつもりだった。

「もうすぐメッセージのチェックは終わるわ。もう少し待ってね」と彼女は言った。
「どうして...」と僕はつぶやいた。
 僕の声は、風のない屋上でもかき消されるほどのかすかな音だった。

 その瞬間、彼女は僕をじっと見て、それからまた携帯の画面に目線を落とした。

「いいわ、そっちへ今から行く」と彼女は言って屋上の出口へ向かって歩いて行った。

 彼女は出口を通りぬけようとしていた。
 彼女が目の前を歩いて行くのが見えなかった。

 僕はバカみたいに彼女のいる屋上を囲う白くて頑丈そうなフェンスをしばらく眺めていた。
 鉄骨の一本一本がほかの何十もの鉄骨を支えていた。

 彼女のいない屋上にいつまでも突っ立っていても仕方ないので、僕は元来た道を今度は注意深く、必要以上にゆっくりと慎重に辿って屋上を出た。

 彼女を迎えに行くのだ。

 できるだけ汗をかかないようにゆっくりと落ち着いて、彼女の通るはずのビルの入り口へ向かって階段を下りて行った。

 その階段は上ってくるときに見た階段とは違って、絶望的に長く伸びる地獄の螺旋階段に見えた。

 地上に着いた頃には、僕の呼びかけに体はほとんど反応しなくなっていた。
 ひどい寒さだった。

「ゆっくりと風呂に浸かりたい。」僕は、たぶんそう言おうとしたのだと思う。
「ゆっくりちょっ」そんなところで生まれて初めて舌を噛んだ。

 言いたいことがあった。考えなくてはならないことがあった。たいして知りもしない誰かが、わざわざ僕に別れを告げて行ってしまった、そう思いたかった。

 考えることに疲れた後は、いつまでも言葉を待っていた。

 やってきた頃には意味をなさない種類の言葉を僕は待っていた。

 それは一日がはじまったのと同時に、夜明けを待つような絶望的な時間だった。

 だから、彼女がようやく来てくれたときは、全身に力が漲った。

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