生物失格|生きること=セルフネグレクト

恥の多い人生だった、
かどうかは分からない。

一般的な人が
一生のうちにかく恥の総量を
私は知らない。

しかし、

私の心身は生きることに向いていない
ということは、はっきりと分かる。

私は(なぜか)、
生物として持つべき食への関心が薄い。
自己保存の欲求もない。

睡眠欲以外の欲がほぼないので、
何のために生まれていたのか、
今だにさっぱり分からない。

生まれてきたのが間違いだった
と心の奥底から思っている。


◼️食事が面倒でたまらない

生物として空腹は感じる。

だが、必ずしも、
空腹=何か食べたい
ではないのだ。

ドラマや映画の先が気になって、
創作中に何かが降りてきて、
催しているにも関わらず
今はトイレに立ちたくない!

そのような感覚といえば、
ご理解いただけるだろうか。

また、
不快・不安・緊張状況下では
食欲が抑制される。

私にとって目覚めとは
堪らなく不快なことので、
朝は全く食欲がない。

仕事がある平日の昼も食欲は湧かない。
私にとって仕事(職場)とは、
不安と緊張に拘束される時空なのだ。

だから、私は社会人になって以来、
朝食は食べていないし、
昼食を美味しいと感じたことは、
数えるくらいしかない。

まともに食欲が湧くのは夕飯くらいだが、
その夕飯でさえ何を食べるか考えるのが
面倒になることもしばしばだ。

栄養バランスや体調を考慮の上、
その都度、何を食べるか考える。

それを死ぬまで
続けなければならない。

そう思っただけで、
本当にうんざりし、死にたくなるのだ。

実際、食事の準備を面倒だと感じたら、
迷わず食べない方を選ぶ。
もしくは、水分とカロリー摂取のみに
焦点を当てた食事となる。

そもそも、
食事の準備が面倒だと感じる時点で、
私は大して食べ物を欲していないのだ。

そう結論付けてしまう私は、
生物として確実に間違っている。


◼️己の遺伝子に執着しない

なぜ、己の遺伝子に拘るのか、
私には理解不能なのである。

私の子供を一人作るより、
私より優秀な方に
もう一人子供を作ってもらった方が、
断然よい。

本気でそう思うのだ。

生物の多様性という観点からいえば、
私と、私より優秀な方、
双方の遺伝子を残すことがBESTだ。

だが、
子供が欲しいと願う方は、
「己の遺伝子を持つ子供」
が欲しいのであって、

どれほど優秀であっても、
「己の遺伝子を引き継がない子供」
はさほど欲しがらない傾向にある。

つまり、一般の方の感覚は、
自己保存>遺伝子の優劣(多様性)
なのだ。

自己保存<遺伝子の優劣(多様性)
という、一般とは真逆の価値観を持つ私は、生物として間違っている、
と思えてならない。

という、私のこの感覚は、
どこか間違っているだろうか。


◼️夢見るものは、ない

「進路」という言葉を持ち出される時点、
つまり、現実社会での己の立ち位置を
フワッとでも考え始める頃から、
私は「将来の夢」なるものを
持ったことがない。

信じてもらえないかもしれないが、
夢見た未来など、本当にないのだ。

というか、
今年ぐらいならともかく、
来年以降の未来を考え始めると
なぜか暗澹たる心地になる。

私のやること、ほとんど全ては、
(ありとあらゆる経緯を経て)
結果的に裏目に出る予感しかない。

おそらく私の人生は、
さほど欲しくもないものを、
何となく求め続けた挙げ句、
クタクタになって力尽きるのだと思う。

だが、絶望しているわけではない。

私は死ぬまで永遠に
貧乏くじを引き続ける。

ただ単純に、
そう確信しているだけなのだ。

おそらく私は絶望的なまでに
セロトニンが足りていない。

生物としての形を維持するための、
必要最低限のセロトニン量を
私は持ち合わせていないのだ。


◼️セルフネグレクトの正体

己の生命維持活動に関心を失うことを
セルフネグレクトというらしいが、

現代で生きること自体が、
既にセルフネグレクトではないか、
と個人的に思えてならない。

世間一般は、
子孫繁栄や仕事 ≧ 個人(己の生命活動)
としない個人の存続や存在自体を
本質的に肯定しない。

世間のセルフネグレクトの厳密な定義とは、
個人(己の生命活動)の放棄ではなく、
子孫繁栄や仕事の放棄にある。

私はそう考える。


子孫繁栄や仕事を放棄した、
または、放棄せざるを得なかった、
個人的な背景や価値観は一切問わない

世間一般は、
子孫繁栄や仕事を放棄した人間の、
生きる権利や選択肢を
遠回しに、だが、合法的に奪っていく。
(それが正義と見なす節さえある)

セルフネグレクトとは、
超個人的な問題と見せかけて、
そのトリガーは密かに、一方的に、
世間一般が握っているのだ。


◼️セルフネグレクトはデフォルト

死なない程度に
セルフネグレクトしながら
私は生きてきた。

むしろ、
適度にセルフネグレクトをしなければ、
私は今、生きてさえいない気がする。

これまでのセルフネグレクトの結果、
寿命が縮まっても一向に構わない。

禁止される自死を求め、
否認される安楽死を願い、
否定されるセルフネグレクトなしで
生きていくことが不可な私は、

おそらく、
人間以前に、生物として失格なのだ。



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