勝利至上主義における敗者の価値

パリ何時、
そうねだいたいね

パリ何時、
ちょうど日本より7時間くらい前?


スポーツにはさほど興味もなく、
eスポーツさえしていないのだが、
夜型ゆえか、気付けばパリ五輪を観ている。


敗者になった時、
人間性が滲み出る。

バリ五輪を見ていて、そう思った。

敗退という結果を前に
盲目的に慟哭することも、
過去の努力の意味を疑うことも、
そこにいる勝者以外の大多数が
間違いなくする(したい)ことであろう。

しかし、

盲目的に慟哭することは、
勝利を納めた対戦者への敬意を、

結果と断絶された努力の意味を疑うことは、
全ての敗者がしてきた努力への配慮を、

一時的にせよ、
決定的に欠く行為である。

よって、
公の場において
その言動をするかしないかは、
その人の品性に依存する。


とは言え、

他者への視点を完全に消失させ、
自我に溺れることも可能とする集中力。

それを公の場で
作り出せる意識(能力)がなければ、
メダリストになどなれない
のかもしれない。


勝利と、敗者の言葉に
感動する。

勝者は極少数であるからこそ
その言葉が貴重であり、
耳を傾けたくなるわけだが、

おそらく世間一般の人は、
勝者の言葉に感動を求めてはいないし、
実際に感動してもいない。

世間一般の人が感動しているのは、
競技の結果(勝利)自体だ。


敗者の言葉こそ有益である。

なぜなら、
(私自身を含め)世間一般の人は
敗者になることの方が圧倒的に多い。

(常)勝者の言葉は、
モチベーションを大いに高めてくれるが、

成功や勝利という結果への過程で
現実的な糧になるのは
失敗や敗戦に端を発すものであり、

モチベーションを最終的に支えるのは、
敗者としての経験だ。

つまり、
勝利至上主義における敗者の言動とは、
世間一般に通じるものが多いがゆえ、
我々に直感的な感動を与えてくれる。

敗者の言葉とは
勝利(勝者)に負けず劣らず
ドラマチックなのだ。


個人的にはそう思うのだが、

勝者ではない敗者に、
(縁もゆかりもない海外の選手に)
焦点を当てることは
視聴率に繋がらないので、
やはり実現されないのであろう。


五輪における価値とは、
勝利や視聴率から発生する

経済効果


なのである。




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