真夜中に綴る💌
真夜中のラブレター現象(または症候群)とは
真夜中のテンションで頭の中(というか心の中)のど真ん中ばかりの文章をラブレターに書き綴る。
そして朝、平常時に我に帰って読み返すとどう考えても誰かや世の中に出すべき文章ではないと悟り恥ずかしさで悶えること、またその一連のさま。
私は一体どこでこの言葉を耳にして、手紙を書くたびに、あるいは最後読み返すたびに「いや違うって。これはこれで普通の文章。・・・のはず。」と、よくわからない言い訳を自分にし続けているんだろう。
手紙を書くのが好きです。小学生の頃から、授業中も休み時間もせっせと友達に手紙を書いていました。
だからメモ帳の減りが半端なくって。
可愛いメモ帳は裏に折り目があって、その通りに折るとすっごく可愛いハート型の手紙とかができるんだけど、でもそういうのはあんまり文字を書けない。
可愛さはいつも不便さと隣り合わせだ。解せない。
大人になってからは手紙を書く機会なんてほとんどない。
仕事や日常生活のお世話になったあれこれだって、LINEでメッセージやギフトを送った方が早いし、便利だ。
でも私は今でもたまに、いくつかあるお気に入りの中から便箋を選び、万年筆を握って、「そういえば、私の手書きの文字はこんな感じだったなあ」なんて思いながら手紙を書く。
愛してやまない漫画家や小説家に向けて、熱意ばかりが先行する稚拙なラブレターを綴る。
必要なものを揃える
レターセット、便箋、封筒
ボールペンや万年筆など、消えにくいペン
封を閉じる用の糊やシール、テープなど
切手(郵便局で買うと可愛いのがある。自分でも作れるらしい)
レターセットの、便箋の方をいつも余らせてしまう。
だからしばらく買っていない。
最近のお気に入りは、無印のメモ帳みたいになった便箋と、封筒。
別々に買って好きなように使える。
枚数の縛りを特に気にしないで良いので楽だ。
年々無印の買い物が増えている。
シンプルだし、価格とクオリティがちょうど良いので便利だ。
でも、こうやって人間は資本主義に加担してしまうのだ、、、という敗北感がある。
毎回は買えなくても、抜群の才能を持ち合わせたイラストレーターの、使う方が得しちゃうくらい可愛いレターセットが必要だ。
肩の力を抜いて書き始める
文章の頭は大体同じ。
「〇〇先生初めまして。こんにちは。」こんな感じでごく普通に始まる。
作家先生方はファンレターを読む時、日中のどの時間帯で読むのだろう?
もしかしたら、
「『こんにちは』?・・・ううん。今一応夜中の2時なんだけどね?こっちもそんなに暇じゃないから、日中の良い時間になんて読むわけないんだけどなあ。」
と、怪訝な顔をして読み始めるかもしれない。
「『初めまして』?いやいや。この名前と住所。どう考えても見覚えがある。この子は自分の出した手紙を覚えてないのかな?それって、ちょっと失礼がすぎるんじゃない?」
と、溜め息を吐かせて読む気を削いでしまうかも。
でもまあ、手紙を送る側に、受け取る側の状況や気持ちなんてわからない。それが非対面式コミュニケーションの特徴の一つだ。
だからあんまり気にしすぎない方がいい(多分)。
そんな感じで、書き終えたらちゃんと順番に折って封筒にしまう。
漫画だったら、ファンレターはこちら!っていう宛先、小説は発行元の出版社、編集部を宛名に(先生の名前も忘れずに)。
はい、これで思いの詰まったラブレターが送れます!
感謝と情熱が詰まってるんだから、ちょっとくらい恥ずかしい内容でも仕方ないよね。
ファンレターが確実に届く保証なんてない。
というか、届いても読まれるかどうかわかんないし、「いや、いらないです」って作家さんももちろんいると思う。
出版社が作家に渡さずに捨てちゃうケースだってあるだろうし、基本的に、一方通行かつ、自分以外にとっては意味のないことかもしれない。
宗教は亡くなった人じゃなくて、生きている人のためのもの。
そんな言葉をどこかで聞いたことがある。多分、ファンレターだってそうだ。作家のためじゃなく、送る側である、読者のためのものなんだと思う。
それでも、ちょっとの可能性を信じてみたい。
自分の好きな作家、人生や生き方を変えてくれた作家が、
いつ亡くなるのか、筆を置いてしまうのかなんて、誰にもわからない。
もう届けることのできない手紙や思いのことを考える。
こうして書いて、送って、届く可能性があること自体恵まれている。
真夜中だろうと朝だろうと、自分の中で生まれた恥ずかしいくらい直球な言葉や感動に対して、できるだけ正直でいたい。