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2023.09.28


清々しい青の洞窟を求めて、わざわざ誕生日に有給を取って大阪に来た。水族館という場所自体、記憶にある限りでも5年以上ぶりだった。私の身体では絶対浮かぶことのできない、どこかの海を再現した水槽の前で、私のまだ知らない世界のことをずっと考えていた。
私は動物が好きなのだけど、海洋生物にはなんとなく恐怖に似た感情もあってぞくぞくとしてしまう。調べてみると、たしかに「海洋恐怖症」という言葉はあるようだ。矛盾しているようで、恐怖を感じることは必ずしも「好き」の反対ではない。現に私は海洋生物が大好きで、わざわざ遠くにまで来たものだ。
自分がこの海の中に飲み込まれたら……と考えたら、果てしない恐怖を感じてぞわっとする。その、自分の力や知では到底敵わない壮大な存在を無性に感じていたかった。
自分の日常で感じる煩わしさ、憤り、苛立ち、そういったものをずっとずっと遠くに追いやりたかったのかもしれない。自分なんていう人間がちっぽけで、この世界からしたら何も力のない存在だって思い知りたかったのかもしれない。
涼しい水槽の中で優雅に泳ぐ魚たちは、何を思って水槽から通り過ぎる人間たちを見ているのだろうか。


自分が本当に望むものは何なのか、私は何度も何度も数えられないくらい自身に投げかけ続けている質問だ。
春から駆けていたひとつのプロジェクトがやっと終わり、息をつく暇もないまま、また次のものを必死に手を伸ばしては考え続けている。
私は何がしたい?ここから何を見たい?
私たちのために歌うと、大好きな人が約束してくれた歌に背中を押されながら、とにかく昨日の私よりもどこかへ進みたいと足を踏み出す。

この歳になって何度も実感するのは、突き詰めれば人は結局ひとりであること。私の代わりにごはんを食べてくれる人だって、私の代わりに仕事をしてくれる人だって、私の代わりに寝て疲れをとってくれる人だっていない。全部自分がやらないと何も意味がない。悲しみだって喜びだって、私しか感じられない感情を微分した形容詞にすぎないのだ。
だからこそ、私以外の誰かを愛せるということは、それがどんな相手でもどんな形でも幸せだと思う。
生活を営むことは私以外誰も代わってくれないけれど、愛する人を大切にしたいということ、また自分自身がその愛を大切にしたいという感情が時には推進力になり、時には暗闇の中でひとりじゃないと照らしてくれる。
その昔、どうしようもないくらい孤独であることを望んだ私が打ち砕かれて知ったように、人だって結局ひとりで生きられないようにできている。

自分の人生を振り返れば、「ひとりでいたい」と願った時間はあれど、そのどんな瞬間もひとりじゃなかった。
うんざりするほど現実を生きる私だって、今大好きな人たちが私のそばを離れる日が来たら、きっと私はなんともないように取り繕いながら生きていくだろう。今大好きな人たちだって、私を無くしても生きていくに違いない。
だからこそ、自分が大切なものを大切にしていたい、その気持ちを忘れたくない。

「個」としての自分と「輪」の中の自分の境目をなぞりながら、明日も明後日もうんざりした現実を私は生きるだろう。それはきっと、10年後の自分も変わらないはず。
「生きる意味」なんてなくていい、そんなものはなくてもどうせ生きていくしかないのだから。
「私は何がしたいの?何を望んでいるの?」という質問はこれからもずっと私自身に投げかけていきたい。どんな形の自分であっても、誰かを愛することに喜びを感じる自分でいたらいいなぁと願う。


私がたくさんの人から勇気をもらっているように、いつか誰かに勇気を与えられる人になれたらと書きながら、昔よりも随分と「他人」にしてあげたいと思うようになったと気づいた。
ひとりの世界に閉じこもっていた子どもだったけれど、少しずつ誰かのために何かをしたいと外の世界に踏み出すようになったのかなぁと。
これからの自分に望むことは尽きないけれど、強欲な私らしいなと思う。ひとつひとつの箱をゆっくり開けて、その中身を味わいながら自分と世界に向き合っていきたい。結局私がいちばん望むことは、私が私自身に適当に流されず、正直であることのようだ。

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