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2023.08.28

「自己肯定感が低いのが悩み」と、最近会う人たちから話を聞くことが多い。
「自己肯定感」という言葉が世に広まっていったいどれくらい経つのかは分からないが、ただ働いて家庭を築いて子孫を残すことが人間の営みのメインだった時代から時間は流れ、個人という単位が重視されるようになった。「生きること」だけでは飽き足らず、さらには自分のことを自分が「肯定する」なんてこの世で何%の人間ができるのか。
「自己受容」という言葉に出会って私は救われたけれど、ただただ自分のことを受け入れるということだって習慣にするには時間がかかる。私は2年くらいかかった気がする。人生の単位で考えたらもっと、20年以上。
内省に集中しすぎるのも健康的な癖とは思わない、でも私は自分と十分すぎるくらい向き合った故に「愛着」にたどり着いた。自分とうんざりするほど向き合うということは私の周辺の関係との思い出や傷を受け入れるということ。蓋をしていたり、平気なふりをしていたことを「辛かった」「苦しかった」と認めることでもあった。
痛みを飲み込んでいくと、ある瞬間から急に自分の姿が客観視できる。そうして見つめ合った自分の姿を受け入れたとき、私は私の人生が自分のものであることを急に自覚した。

何か目標や夢を叶えたわけではないし、誰かと比べたり世界の基準に当てはめても私は成功してはいないし、どこも穴だらけだと他人事のようにも思える。
ただ、そんなこととは全く別の次元で、私の人生が愛おしく思えるようになり、自分にないものよりその手に掴んでいるもの、その肌に滲んでいるもの、相対的な価値ではなく絶対的な価値の尊さの方がずっと大事に思えるようになった。


「あなたは自己受容ができているんだね」と言われたときも、「自己肯定感」なんて言葉よりずっと響く。
夏が燃えていくのを見つめながら、自分が満たされるより誰かを満たすことの方がずっと楽しいと思えて清々とした。
止まっていたように感じていた時間が私のコントロールできない方向に進んでいくのも胸が弾む。
悲観的になろうと思えばそれは尽きないけれど、それよりも価値があると思うものにどうせならこの時間を投資したい。自力ではきっと動かせない推進力が私の身を勝手にどこかへ連れていく感覚。

どうせなら、私は心地の良い気分でいたい。
愛する人たちは私よりも陽の当たる場所で生きてほしい。
暗いトンネルで自分と向き合い続けたのはもう十分すぎる、それ以上に陽を浴びたい。
嫌いなはずの太陽の温度、眩しさ、その存在感に期待をしてしまうのは、夏のせいだろうか。


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