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2022.09.25

気づいたらもう9月が終わろうとしていて、慌ててnoteを開いた。
私にとって文字を書くということは、自分とそれ以外との境界線を思い知ることなので本当ならもっと細かく文字にしていきたい。
どうしてもブルーライトを浴びまくる職業なので、退勤後はデジタルから解放されたいのも事実。

前回書いた日記を読み返しながら、またあっという間に私を取り巻く環境はぐるぐると変わってまた新たな岐路に立たされている。一度手放した確信をまた握らされ、戸惑いながら手のひらの中身の様子を窺っている。
どんな形か、どんな色か、質感、重さ、そんな風に渡されたボールを恐る恐る眺めている。これは本当に私の手のひらに握らされていいものなのだろうかと、いつになってもそこにある答えは自分自身が見つけていくしかないのだろう。


誕生日を迎えた。
大好きな9月、大変だったし誕生日当日もよりによって大事な打ち合わせがたくさんあって、ずっとバタバタしていた。
仕事の合間にぴこぴこと到着を告げるメッセージの愛に励まされながら、世界から放っとかれることが目標である私の矛盾について考えたりもした。

春という季節のぎこちなさと同じくらい、私は誕生日当日に「祝福されないといけない」「人にたくさん囲まれてお祝いされないといけない」「幸せでないといけない」みたいなプレッシャーを幼い頃からなぜか感じていて、あまり自分の誕生日を迎えることが好きじゃなかった。
子どもの頃は両親に強請るプレゼントがそれでも楽しみだったけれど、それもない今でさえ習慣のようにそのプレッシャーを感じてしまう。
幼い頃は無条件に何かプレゼントしてもらえる日から家族に感謝を伝える日に変わったけれど、それでも何か特別なことをしないといけないような、そんな負担を勝手に感じてしまうのだけど、たしかクリスマスの日も同じような感覚になっちゃうな。
難解な私の矛盾は、それでも人にお祝いされたりあたたかい言葉をいただくと自分の生が存在だけで許されているような気持ちにもなる。
この面倒な感覚を割り切るためにも、もっと周りに感謝を表現できるようになったらいいなぁと、願う。


さて、今週からさらに地獄を見る。
向かうべき場所を予め分かったことなんてない。だからただただ目の前のことに向き合うしかないんだって。
変わった年齢の数字を見ながら、この年月分重ねた何かがどこかで自分の背中を押してくれれば、それでいい。


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