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MFは永い夢を見る
MFは落胆していた。また七度寝してしまったのだ。
「あぁ」と言い時計を見ると、時刻はすでに十七時を廻っていた。
重たい身体を慎重に起こし、眼鏡を掛けカーテンを開ける。外はすっかり暗く、目の前にあるはずの海も夜に溶けてしまっていた。
しかしMFは、最初は落胆していてもいつも呑気だった。夢の中にいるのも現実に戻るのもさほど差を感じない。なぜならMFはきまった仕事をしていなかったからだ。
MFは現実でも夢の中のようにゆらゆら浮いていた。朝昼晩兼用のシーフードサラダを食べたら外に出て、海と空と月を散歩する。たまにサラダが美味しくできるとそれも持って外に出る。そうしたら気づけば深夜になっていて、今朝とおんなじように
「あぁ」と息を吐いて床につくのだった。
そんな事を繰り返していると、MFはある日違う夜を見た。日中眠りこけている間に、近所にぽつんと真っ白な建物ができていたのだ。MFがおそるおそる様子を伺うと中は真っ暗で、白い扉のガラス窓にはこう書かれてあった。
<寿司屋 毎週水曜日・二十二時〜二十八時>
それ以外の情報は見つからず、目立った看板もなく店の名前も見当たらなかった。
この町の建物は古く、海の潮で錆びれているものが多かった。MFのアパートも同様、ベランダの鉄格子は年数が経つにつれ本来ある色を茶色い錆が侵食していた。それもあってか辺りはもうすっかり闇に溶け込んでいたのに、その白い建物だけは夜が深くなるにつれ白く浮き出ていた。MFは怖くなった。
目の前に得体の知れない白い怪物が静かにこちらの様子を窺っている。
MFは「あぁ」と、その日は三度息を吐いた。
季節は十一月目前で、吐いた息までもが白く浮き出た。
その日、いつもより一時間も早く起きたMFは気分が良かった。眼鏡を掛けカーテンを開けると、眼前には海に沈もうとしている太陽があった。夕日を見たのはいつぶりだろうか。もしかしたら秋、いや夏ぶりかもしれない。
いつぶりかを確かめたくなって、普段はわざわざ見ない壁掛けカレンダーに近づく。カレンダーは九月で止まっていた。MFは携帯を開き今日は何日かを確かめる。一一三〇。そう言って十一月までめくろうと手を伸ばしたあたりで止まる。MFはその数字の羅列を、昔はよく見ていたような気がしたのだ。思い出せそうで思い出せない。いちいちさんぜろ。
いちいちさんぜろいちいちさんぜろ、としばらく呟いていると、MFははっとし、「そうだ」とカレンダーを十一月まで破った。赤い丸がつけてある。
「あぁ」
その日はMFの誕生日だった。
せめて特別な日にしようと今夜の計画を考えた。しかし中々決まらず頭を抱えた。料理の才能でもあれば、冷蔵庫の中にあるシーフードサラダの材料でとんでもない一品ができてしまうのだろうと思った。ないものはしょうがない。自分の何もなさに落ち込みつつ、少し気分転換に新鮮な空気を吸おうとベランダの窓を開けると、一気に風が侵入し冷気が立ち込めた。
寒いことを忘れていた。
「あぁあぁ」と言い慌てて窓を閉める。一難去ったと言うふうに「はぁ」と息を吐くと空気が白んだ。
そしてあの、白い怪物を思い出した。
———あれは自分のために出てきてくれたのかもしれない———
そんなふうに思った。
少し祈りながらカレンダーに目を向けると、“Wednesday”のマスに赤丸がしっかりと収まっていた。
※
ゆっくりと支度を始めた。確か二十二時に開店するはずだ、あと二時間ある。シャワーを浴び顔をさっぱり洗って、髪を整えて歯を磨いた。久しぶりに鏡を見ると、クマは深く浮き出て顔は少し痩せていた。
服を決めるのは時間がかかった。正装の方がいいのだろうか、いやもしかしたら回る寿司かもしれない、そうなると正装は少し恥ずかしいぞ———。クローゼットをひっくり返すように探し、やっと着ていけそうな白いセーターを見つけた。
そこから思い立ったように、白いシャツ、白いスラックス、白い靴下を引っ張り出して着用し、かろうじて白い靴を準備した。そうして時間はあっという間に二十三時を過ぎていた。
MFは全身真っ白で夜の町を少し急いだ。
海沿いに十分ほど歩くと白い怪物は見えた。深い暗闇の中わずかに明かりが漏れ、今にも本当に動き出しそうなほど一層白く浮き出ていた。
そのまま怪物と対峙するかのように目も離さず歩いていると、ゆらりと明かりが動いた。どうやらちゃんと寿司屋はやっているようだった。MFは少し安堵した。なんせ全身真っ白なのだ。やっていなかったら極寒の海にでも飛び込まないとやってられないと思うほど内心では恥ずかしかった。
寿司屋と思わしき建物の白さは近づいても劣ることはなく、悠然とMFを迎えた。
初めて見つけたときと同じように扉に近づくと、扉はひとりでに音もなく開く。
———いや、誰かが開けていた。一瞬でMFに影が落ちる。
「ようこそ、ひとときの夢へ」
低い声が上から響き、見上げると、白い調理服を着た大柄の男がMFを見下ろし、菩薩のように和やかな顔で立っていた。おそらくこの白い怪物の飼い主であり、詰まる所この寿司屋の店主であると言うことは想像に難くなかった。
MFはまずいと思った。
これは少し厄介な店主かもしれない。しかし後に引けない。
自分はもうこの店主の“ひとときの夢”に取り込まれている———その証拠に、MFはすでに全身真っ白なのだった。
促されるまま店内に入ると、外観とは違い壁も床も天井も樫でできていて、店内全体が森の香りに包まれていた。中の造りは見た目通りの簡素なもので、扉を入ってすぐ右に、数人が立って調理ができるくらいのスペースを、コの字で囲うようにカウンターが配置されていて、客が座れるのは「コ」の縦線にあたる部分のわずか三席のみだった。
座席の窮屈さを補うように天井は見上げるほど高く、くるくるとファンがついたライトが回り、くすみのない小さな天窓のひとつから糸のような月がのぞいでいた。
「森の香りがするでしょう?」
店主がMFの思考を見透かすように自慢げに言った。MFは人と話すのが久しぶりだった。どう返事をしていいかわからず、
「あぁ、はい」
と少し緊張気味に返事をすると、少し声が掠れてしまった。
店主はそんなことは気にせず少し興奮気味に喋り出す。
「さあ、どうぞどうぞ、どこでも好きな座席へ腰を下ろしてください。三席しかないですがね、これがどこも特別なんです。右には星のよく見える窓がそばにあって、左はこの街の海から頂戴した美しい魚の水槽が見えます。しかし何と言っても真ん中は特別も特別、星の見える窓と水槽が適度に近く、さらに上を見上げると月までもが見えるんです。どうです?」
「どうです?」と言われては断れるはずもなく、MFは流されるまま真ん中の席に座ることにした。店主はMFが座ったと同時にカウンター越しに同じ位置について「何にしましょう?」と言った。気づけば白いのはMFと店主だけだった。
「えぇっと、」
MFは周りを見渡したが、お品書きのようなものがなかったので、問いかけるように店主の方を見ると「お好きなものを」とだけ言う。
「あぁ…えぇっと、お品書きなんかは、ないんですか」
「ああ!えぇ、そうなんです。実はメニューを絞れなくって。なので好きなものを言っていただければなんだってご用意いたします」
「あぁ...本当になんでもいいんですか?」
「えぇ、お望みのものを」
はて、ここは寿司屋ではなかったか。
MFは訝しげに感じながらも、鮪とサーモンとイカと、それからシーフードサラダを頼んだ。店主は困った顔ひとつせず「承知いたしました」と言いテキパキと準備を始める。
準備までしばらくかかるだろうともう一度辺りを見回した。窓から見る景色は星以外何も見えなかったが、充満する森の香りの所為か、窓の外からは葉の掠れる音や鳥のさえずりでさえも聞こえてきそうだった。
するとまた店主が「森の香りがするでしょう?」と言った。
MFは気になって「何か理由が?」と聞くと、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの顔で
「よくぞ聞いてくれました」
と言った。
———しまった。
MFはもう後に引けない場所で、さらに後に引けなくなった。店主は手元の作業はそのままに
「あれはね、そう、確か二年程前でした」
と森の香りについての話を始めた。
その間によく研がれたぴかぴかの包丁が鮪の筋を断ちながらテンポよくネタを切る。あっという間にサーモン、イカとネタが切られていくので、MFは話もそっちのけでその様子を見ていた。店主の右手の先ではシャリがぎゅっと軽く握られ、ネタが左手に移動したあと、その上にシャリを乗せてまた軽くぎゅっとやった。店主は何度かこのぎゅっとやる工程を繰り返した。十分もすると鮪とサーモンとイカが一貫ずつ目の前に並び、最後にいつの間にかできていたシーフードサラダがとんと置かれると
「———ね、だから私はこの海の町で、この気持ちをおすそ分けしたかったんです」
と締めくくった。
「はぁ」
要約すると、店主は二年程前に”森の寿司屋”なるものと出会い、緑豊かな自然の中で食べるそれは今まで食べた寿司とは違い、ほのかにあたたかく森の味がした。まさに——ひとときの夢のようだった——らしい。
「はぁ、なるほど…。とにかくお料理を頂けば、私もその”森の味”と言うものが味わえると言うことでしょうか」
店主は今更夢中に話してしまったのを照れくさく思ったのか、少しぎこちない笑顔を見せ
「えぇ、もちろん」
と言った。
MFはまず乳白色をしたイカから頂くことにした。全身真っ白な様はMFと店主とおそろいだった。
「いただきます」と添えて、ひと口で食べる。
————なるほど。
確かに海の味と言うには少し違う。海も漁港も錆びれた建物も思い起こさせなかった。男がひとり、森の中の一番高い木に登って細い釣り糸を一本垂らし陽気に魚を待っている。まさにそれはひとときの夢であり、見続けたいと思ってもそれは段々と遠くに行ってしまう。MFは途端にサーモンと鮪をぱくぱくとひと口で放り込み、シーフードサラダを口一杯に入れ
「ーおいひい、森のあじがひまふ」
と溢れ出すように言った。店主は口一杯のMFを少し心配そうに、そしてどうにか顔が緩みきってしまうを抑えるように「そうですか!」と言った。
「実は、貴方が初めてのお客様だったのです。いやはや、自分の腕にあまり自信がなかったもんですから。いやいやといっても!味見などはしているのです、もちろん!しかしながら人というのは麻痺する生き物ですから、味見をするたんびに美味しいのか美味しくないのか、正しいのか正しくないのか、そもそも正しいとはなんたるかなど——」
少しぎこちない笑顔は、その心配事があったかららしかった。そして”いやはや”と一呼吸をする。
「——どうでしょう、まだ召し上がりますか?」
MFの前に置かれたもう空っぽのお皿を掌で指して促す。
MFはもう一度同じものを頼み、少しお酒をいただく事にした。店主は「これはとっておきなんです」と言って白いラベルの日本酒を取り出し、MFに注いだ。
とっておきのお酒が効いていたからか、ひとときの夢を見たからか、次に店主が寿司を握るとき白く輝くなにかが見えた。MFはそれが“ひとときの夢”なのだとはっきりとわかった。さっきは見えなかった“夢”なるものが店主の手の先でフワリと置かれ、そして同じようにぎゅっとやって寿司に包み込まれた。
「こうやってね、ぎゅっとやるんです。そしたらなにか、森の香りごと包み込む感覚になるんです。気休めかも知れませんけれど」
店主は笑って言った。
※
MFはその日、永い夢を見た。夢にはあの店主がいてMFの何倍も大きい。
それはちょうど白い怪物くらいで、MFは相変わらず真っ白な服を着ていた。店主の手はゆっくりとMFを掬い上げ、慣れた手つきで白く輝く“夢”をMFと共に手の先で包み込み、ぎゅっとやった。そして優しく地面に降ろされると、満天の星と糸のように細い月が見えた。
MFは無数の星の中で月のすぐ上にある星をじっと見据える。
そして「あぁ」と呟くのだった。
Claude.Heath
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