見出し画像

謎を通して人を知る~『ミステリと言う勿れ』

月9にハマるのは久しぶりだ、という謎の負け惜しみから書かせてほしい。

菅田将暉主演のドラマ『ミステリと言う勿れ』の話だ。

初回放送後、何かの機会に偶然2話を見たら刺さったので「なぜだろう」と思いスタッフ欄を眺めていたらストンと腑に落ちた。

「演出:松山博昭×音楽:Ken Arai」というタッグが僕がかつて熱中した月9ドラマ『鍵のかかった部屋』を手掛けたお二人だったのだ。(※放送時期調べたら2012年でした!10年前!うへぇ!)

その後ドラマを最新回まで視聴。キャストのハマり具合が知りたくて原作も2巻までは読んだ。

ところで僕は(主語デカ比較で申し訳ないが)洋画と邦画の大きな違いの一つは進行のテンポ感だと思っていて、リズム良くサクサク進む洋画に対し邦画は長めの間や冗長な演出を変に大事にする傾向があるように思う。

もちろんワビサビとか制作側のコダワリだとか言われたらぐうの音も出ないものの、加速するコンテンツの大量生産に加え過去作品のアーカイブ経路も整備された今では、可能な限りムダをなくして冗長な部分を削ぎ落とすのがコンテンツ作りの世界的な潮流になりつつあるとも感じる。

起承転結でいえば「起承」のテンポに見るセンスの説得力で全てが決まるというか、受け手が途中で離脱するような間延びした箇所を作らず、シームレスに面白味の核までたどり着ける構成が求められるのではないか。

その課題に対する一つの答えが会話劇で、これは坂元裕二作品に顕著なようにひたすら登場人物が喋り続けるというもの。

会話のみならず個人の思考もナレーションベースで音に起こし、受け手の興味を言葉で刺激し続ける。

ただそうして絶え間なく情報発信を続ける会話劇だからこそ、話の内容が薄かったり各キャラの意見が一貫してなかったり全体に時代錯誤的だったりするとすぐ受け手に見放されてしまう。

だからこそ会話劇は非常にシンプルな方法論ながら、作り手に繊細な工夫と膨大な労力を強いる。

そんなハードルを越える作り込まれた会話劇を上記2名の音楽と演出が彩るんだからそりゃ面白いわと思うし、違う表現でいえば「退屈する暇がない」とも感じる。

また、そんな本作の内容で印象的だったのは全ての物事を「0か100か」で断じないところだ。

殺人事件にしても「犯人=異常者/それ以外の人=正常者」という二極対立の図式を根底から疑い、「人間誰しも弱くズルく後ろめたい部分はある」という優しく鋭い想像力がグレーな位置に立って物を見る重要性を問い続ける。

そうして主人公・整(ととのう)が真相解明後に犯人に対して、同情するでも共感するでもなく本音で歩み寄る展開が斬新だなと感じた。

なお整は心理学を専攻する学生という設定で、多方面に博識なうえ料理を楽しむ家庭的な一面や、絵画や文学などを好む感受性の高さも見せる。

そんな整の人柄が愛され受け入れられるのは、物理的にも情報的にも満たされつつある現代人が「より想像力のある人間になりたい」と無意識に欲しているからで、その潜在的な欲求をキャラクターとして具現化できているからこそ彼を軸に回るこの作品がヒットしているのだろうとも感じる。

友達や彼女はいないが全くそれを引け目に思わず、ただ淡々と自分の生活を楽しみつつも、ひとたび謎や自分の思うところに相対すると嘘偽りない自論を思うままに語る。

そんな整の立ち居振る舞いが令和の世に符合し、敬意と羨望の対象として成立しているのではないか。

みたいなことをウダウダ考えつつ密かに熱中しているアラサーのラストランである。

かくして久々に月曜の楽しみが増えた愉快な近況報告でした。以上。

画像1

P.S.

「お調子者の若手巡査役に尾上松也は貫禄ありすぎんだろ」と思ったものの、ベロで上唇を覆うおとぼけ顔の原作再現は可愛げがあって良かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?