現時点で思うこと。

「心に余裕がなくなると発言の主語が大きくなる」という話を最近聞いた。

すなわち個人の趣味趣向として些細な事柄を見る視点がすり減り、何かにつけて組織・集団・社会など、大きなカテゴリを主語にしてしまうとのこと。

この発想がスムーズに理解できるのは今まさに僕がそういう状態だからで、より具体的に言えば五輪にまつわる世の論調を良くも悪くも無視するだけの心の余裕が失われつつあるからだと思う。

対抗勢力の勢いを削ぐ上で「内部分裂を起こさせる」というのは古典的ながらとても効果的な方法で、実際に開会式や競技の視聴を既にエンタメとして無邪気に楽しみ始めているグループに対し、そこに冷ややかな目線を向けるグループ、またその両者にも属さず無関心を貫くグループなど、分かりやすく国民の意識は内部分裂を引き起こされているように見える。

当然こうした懐疑的な文章を書いている僕も「選手に罪はない」という一点には全く同意なのだが、もちろんその前提は共有した上で、この「選手に罪はない(≒だから四の五の言わず応援しろ)」という薄っすらとした同調圧力を、国側が密かに引いた思考の分断線として捉えるほど、そこに従属することは間違ってもしたくない。

仮にあの開会式を見て、「ゲーム音楽を流すだけで反射的に国民が喜ぶなら、国会中継や選挙カーでも流せば簡単に支持率上がりますね」みたいなシニカルな態度をとる僕の方が、世間一般でいう『空気の読めない奴』扱いされるのであれば、それはもうその風潮を作った国側の勝利と言って差し支えないだろう。

いくら僕が「ゲーム音楽の引用により感動や興奮を覚えたとしても、それは原作作品が作り上げた既存の感動回路を全くの他人が流用して電流を流しているだけで、今この瞬間に生まれた感銘では決してない」みたいな事を言った所で、目先の気持ちよさだけを追求する”感動家”達には「ゴチャゴチャうるさい」と一蹴されることは容易に想像がつく。

もしこの五輪が終わった際、事前にいわれていたとおり「メダルラッシュによる感動で支持率が持ち直す」といった事が現実になった場合、今までより一層強い絶望に打ちひしがれる予感がある。

ともあれ、この文章は個人的な思考の掃き溜めみたいな物なので、何のメッセージ性もなければ「だから皆も政治の話をしよう!」とか「五輪に賛成or反対しよう!」というつもりも毛頭ない。

むしろこんな難しい時期に無言を貫けず、いたずらに不快感を煽るような文章を書いて申し訳ないとすら思う。

ただ自分が今までされてきた事や、奪われてきた楽しい時間、不当に強いられたストレスをそう簡単に忘れてやる気はないし、少なくとも僕はそこまで性格が良くない。

図らずも一生忘れられない夏になるだろう。

引き続き「感動」などという抽象的な空気に流されて自分の思考を手放さないよう、明るく前向きに性悪に努めようと思う。






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