「原稿用紙二枚分の感覚」 評36〜40

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。


●36 摩部甲介 『友情よ今いずこ』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 淡々とした表現が最後まで連続していました。名詞群の多くは描写されず抽象的なままであり、とりわけ作中人物は曖昧なままです。行動も一つ一つがざっくりとしか描かれず、その紡がれ方は一定のように思います。起きている出来事は荒々しいですが、破綻などはないように感じました。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 起きている出来事に比べると、表現が極めて平らなように感じます。たとえば、「爆炎が殴るようにコワルスキーを飲み込み、千切れた肉が赤茶けた大地のほうぼうに転がっていった。」というところ。出来事としては生々しいですが、肝心の描写がこれだけなので、どこか無機質なように感じます。具体的にどう転がったのか、肉体のどこの部分は原型を保ち、どこの部分は完全に吹き飛んだのか、そういった描写が一切ないので、こちらですべて補完せざるを得ず、結果として、出来事に表現が、完全に置いていかれているような気がします。あらら、といった感覚だけが残り、気持ち悪さ、おどろおどろしさなどは一切迫ってきませんでした。ほかのどの場面に関しても同様です。全体の硬さそれ自体には惹かれますが、その硬さは掌編の核となるものがもたらしたものです。題材と比較すると、表現はどうしても頼りないように思います。

 また、作中人物が個々で自立していないように見え、そういった部分も相まって、余計に厚みが感じられませんでした。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「額を抉られる寸前にキララは奥歯のスイッチを舌で押し、腹に隠された爆弾が膨れ上がった。」など、幾ばくか伝わってくる表現もありますが、表現が全体的に平易かつ淡々としており、どうにもすべてが抽象的で、しかもその抽象性からは、ただただ抽象的という印象しか受けず、結果として、どの作中人物の内面もあまり感じられませんでした。作中人物が人間に見えないため、内側がどうにも見えてきません。掌編が、どこかあらすじ的でもあります。

 ちなみに、「言った」という表現も複数ありますが、具体的にどう言ったのかが分からないので、変に抽象的な強調になっており、違和感がありました。台詞部分のあとの「言った」は、すべてなくても分かります。台詞には「言った」という意味がすでに含まれているからです。台詞のあとに、「誰々は言った」と表現するなら、その言い方なり声色なりを描写してほしかったように思います。そうでないと、「言った」という部分からは何も伝わってきません。結果として、人物の台詞が人間の声に聴こえず、掌編がどうにもト書的、あらすじ的に見えています。このように、「言った」、「開けた」など、行動の描写が非常にざっくりとしているので、総体として、ただ動きを追っているだけ、という印象が強いです。銃の握り方、手の上げ方、表情、歩き方。そういった、およそあらゆる肉体上の描写が曖昧なので、もはや人間に見えませんでした。

 4.基礎的文章力。
 作中人物が多いのと、名前がすべてカタカナであり、容貌はおそよ描かれず、しかも個々の人間が一切自立していないので、非常にごちゃついています。掌編全体が大混雑で、読んでいて落ち着きませんでした。それぞれを見分けるために役立つのがほぼ名前だけなので、読んでいて苦痛でした。作中人物が物語を進めるための機械にすら思えます。

 抽象的表現の多いことも、その一因です。たとえば、「ザッパーは一枚の写真を、処刑器具のような指でつまんでいた。」の「処刑器具のような」という形容。どんな、という印象しか残りませんでした。明確に描写されていないことで、表現がふわついています。「ザッパーは必要な道具を投げてよこした。」の「必要な道具を」というところも同じです。具体的に何、という感覚が抜けません。こちらで補完して楽しむ、ということはもちろん可能ですが、その場合、作中人物ないし語り手の目ではなく、こちらの目で、その必要な道具を見ることになってしまいます。今回、作中人物の視覚や聴覚などに触れたかったように思います。

 こういった、あちこちにある半端な形容が、名前だけの存在にしか見えない作中人物と混ざり合い、結果として、文章が妙に軽くなっています。核の本来持っている硬さが、ぶにょぶにょしているように思いました。各々の場面で、具体的にどういった場所にいるのか、その描写が極めて甘いことも、掌編から感じられるものがほぼないことの理由です。たった八百字で、こんなにも複数の場面を用いる必要があったでしょうか。監視している場面だけを細緻に描けば、核となっているものはすべて表現できたのではないでしょうか。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 言いたいことは上記と同じです。抽象性が高く、また一人一人の中身がないので、空気感が一切ありません。起きている出来事それ自体の派手さだけが、何とか「感じ」を生んでいますが、作中人物の記号感や個々の表現の曖昧さが、それをすべて呑み込んでいます。ここでの基準上、評価できませんでした。およそすべてが理由もなく薄い、ということが、この掌編から感じたことのすべてです。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 起きている事柄がもっと生々しく描写されてあれば、においがもっと感じられれば、と思わずにはいられない掌編でした。迫ってくるもの、襲いかかってくるものがおよそなく、結果として、何かのあらすじのようにさえ思いました。作中人物の誰でもいいので、人間に触れたかったと思います。

 総評。
 仕事、殺し、道連れ、策略、死。そういった言葉で形容できそうな掌編の核は、本来であればより硬い質感であったはずですから、もっと細緻な描写で満ちていれば、という印象が濃いです。起きていることに表現ががっつり寄りかかっているので、このままだとあらすじ感が強いです。ただ物語の種があるだけのようにしか見えませんでした。もっと生臭い表現に触れたかったように思います。すべてが曖昧でした。せめて一人でいいので、人間を、より具体的に描いてほしかったと思います。


●37 qbc 『後崩壊世界ストライカーズ』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 冒頭は心理的語り、中盤は台本的表現、終盤は設定の開示と、書かれ方が右往左往しています。とはいえ、その奥にある調子自体は一本通っているように感じました。飄々とした、あるいは陽気な感じでしょうか。ただし、最後の行でポンと明かされている、ワールドチャンピオンになるという設定が、あまりにも飛躍していて不自然です。あいだが一切描かれていないので当然ですが、気になりました。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 途中、誰が何を言っているのか、台本的な書かれ方ですべて明示されています。結果、個々の登場人物の喋りからすべての色が消え、台本にしか見えなくなりました。チャット的な描き方をするなら、もっと丁寧であったほうがと思います。これだけだと、台詞の羅列にしか見えません。そもそもチャットはゲームに実装されているものなのか、ソフト、アプリ的なものなのか。そういったところが明確に伝わってこないと、どうしてもすべてが薄く見えます。また、冒頭は心理的な語り、最後は設定の開示的文章であり、ここでの基準上、評価できませんでした。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 すでに述べましたが、大部分が完全に台本なので、およそ心情なるものは一切迫ってきません。字面に含まれている情報としてのみ、内側が香ってくるだけで、事実上ほぼ何も伝わってこなかった、という以外になく、基準上評価できませんでした。作中人物の半分以上はボイス組なのですから、その声で、人間の内側を描いてほしかったです。喋り方、声色、使う語彙。言語には、個人が出るはずです。個人が感じられないということが、この作品が、台本的に見える理由です。

 4.基礎的文章力。
 掌編の大部分を構成しているチャットとボイスが、一切色のない台本にしか見えませんでした。もちろん、台本のような書き方であってもいいのですが、作中人物の内面が一切滴っていないので、ただ文字が並んでいるようにしか見えませんでした。

 また、「新型ウイルスは地球単位で流行し、むやみに外出するなと国家宣言。人同士が近づくと致死性の病が拡がってしまうからだ。」は語り的な状況説明、そのあとの「確かに。」は完全に思ったことです。

 最後の「僕ら五人はチームとなって、オンラインボウリングのワールドチャンピオンになるのだ。」は心理描写的な語りで、かつただの設定の公開になっています。設定をただ明かされても、何も感じられることがありません。チャンピオンになったなら、チャンピオンになったその瞬間を、徹底的に描写してほしかったかなと思います。たとえ会話が中心の掌編であったとしても、それはできうるはずです。ここも、基準上評価できませんでした。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 飄々としていて陽気な感じ、という印象がすべてです。そこに人間がいるわけでもなく、新型ウイルスがもたらした心の動きがあるわけでもない。話しながらゲームをしているという設定を持った記号たちがいるだけです。登場人物は多いですが、「恋人」や「兄」とだけしか表現されておらず、肝である会話に色がないので、全員が無味無臭です。正確には、無味無臭という感じすらしませんでした。基準上評価できませんでした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 チャット的な空気感は薄く、台本的で、かつ人間が存在しないように見えるので、迫ってくる「何か」は感じられませんでした。会話的な表現だけで描かれた小説、作品も、個人的には惹かれますが、そこに人間がいないと、「何か」がないと、声ではなく、本当にただの台詞にしか見えなくなってしまいます。会話だけ、声だけというのは、チャット的な表現というのは、非常に難しい表現方法のように思います。

 総評。
 言いたいことはすべて述べましたが、大勢で話す場面は、もっと生々しく、かつ現実感を添えて表現できたと思います。そもそも、会話が滑らかに行われているように見えるところが不自然です。ボイスですら、ラグや音質、ネット環境の関係で会話が乱れがちなのに、参加者のうち二人がチャットだったら、会話の乱れなり破綻なりが必ずあるはずです。聞き間違え、空耳、会話のズレなどで、話があらぬ方向へと進んでいき、笑いが生まれたりすることもあるはずです。ですがそういった描写は一切なく、意思疎通、会話が、ただただ淡々と行われています。なので、ただ文字がそこにあるようにしか見えませんでした。こちらで多くを補完することも可能ですが、掌編のなかで、音質や会話の乱れなりを、もっと細かく表現してほしかったと思います。ただ発言を書いていくだけでは、チャットやオンライン通話などの表現にはならないように感じます。何より、それらを使っている人間を描くことも難しいと思います。全体として、たとえ台本的、チャット的だったとしても、人間を感じさせてほしかったです。結局、話しているのは人間なので。


●38 さとう 『天体観測』

 当初は採点しようと思っていたのですが、細かい心理描写が散見され、採点に支障が生じました。掌編全体が独白体(心理描写的)に見えてきたことも相まって、結果的に点数がつけられず、評は書きましたが、今回は無評価という扱いとなりました。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。 
 抽象的表現と心理描写的な説明で大部分が構成されており、綴られ方は一定であるように思いました。気になったところは特にありません。作中人物の関係性も、いろいろと想像できます。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 全体として極めて平易な表現が続いていきます。文章総体としては非常にやわらかく、なめらかに読むことができました。個人的には好みの質感を持った文章ですが、およそすべてが抽象的なので、もう少し自然描写があればと思いました。たとえば、「そのときは確かペルセウス座流星群だった。」というところ。そのペルセウス座流星群が語り手の目にどのように映ったのか、見て、どんなふうに感じたのか、その五感を、もっと徹底的に描いてほしかったように思います。そうでないと、そうなんだ、という頷きばかりが残ってしまいます。流星群に関する表現が粗いと、こちらがこれまで見てきた流星群か、検索して得た情報としての流星群か、そういったもので補完するほかなく、結果、語り手の見た流星群が完全に消えてしまいます。文章が持っている全体的なやわらかさには惹かれますが、どうにもやわらかすぎるように思います。『天体観測』という題なのですから、肝である天体に関する描写が緩いと、どうしても感じられるものが薄くなってしまいます。掌編の核は、基本的には丁寧に磨いてほしかったと思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。 
「ηってなんぞや?」という表現を筆頭に、心の声がそのまま表現されている部分が多く見受けられました。書き出しの「今夜が流星群のピークらしい。」もそうですし、「柄にもなく珈琲も用意した。」は「柄にもなく」とあるせいで、行動の描写が、語り手の自己紹介的つぶやきになってしまっています。「そういえば去年の夏にも流星群を見た。」の「そういえば」も同様です。それらが、内面の伝達を完全に支えているように見えるので、今回の制限上、評価できませんでした。「独りで静かな夜空を見上げる。」という部分に含まれている心理を、その瞳に映るもので、その肌で感じるもので、徹底的に描いてほしかったように思います。そうでないと、肝心のみずがめ座の流星群も輝けません。

 4.基礎的文章力。
「彼女はきっと夢の中。」や「こっちは見えた星の数まで覚えている。」という心理的語りが、文章の中心にいるよう感じました。『天体観測』という題なので、自然描写が、もっといえば星が、その中心であってほしかったように思います。たとえば、星の数まで覚えていることは、ペルセウス座流星群の描写を徹底するという形で表現してほしかったです。そうでないと、ただの心の声で終わってしまいます。ペルセウス座からも、その光が奪われてしまっています。

 それから、説明的な表現も多かったように思います。たとえば「窓が開いているので少し肌寒くなってきた。」は「ので」より前が、その後ろの理由、説明になってしまっています。窓を開けた瞬間が事前に細やかに描写されていれば、「ので」という形で説明する必要はなかったように思います。説明は描写ではないので、どうしても感じられるものが薄くなります。「肌寒くなってきた。」のあとに続く文章は非常に艶っぽいので、余計に気になりました。

 あと、抽象的な表現が目立ちました。たとえば、「スマホでRADWIMPSのグランドエスケープ、夢灯籠、スパークルを順に流した。」という辺り。一見具体的ですが、そのアーティストや曲を知らないと、どんな音楽なのか一切不明です。こういった形で、流していた音楽を形容するのは諸刃です。誰もが一度は聴いたことのある曲、クラシックか民謡かは不明ですが、とにかく、そういったものであれば、その抽象性は薄れますが。いずれにせよ、ここはきちんとした形で表現されているように見えて、その実、厳密には表現として軟弱です。その曲たちが具体的にどういうふうに聴こえたのかまで、せめて描いてほしかったように思います。各曲の雰囲気、空気感なりが描写されてあれば、受けた印象は違っただろうと思います。鮮やかに見えてきたはずです。

 また、肝心の流星群の描写もありませんから、掌編全体が極めてふんわりしているように感じます。名詞をどんと置くだけだと、表現としては頼りないです。ペルセウス座流星群の輝きは、天候によって、見る人間によって、またその時々の内面の色彩によって、大きく変わってくるはずです。ですから、ペルセウス座とみずがめ座は、徹底的に描写されてあってほしかったです。そして、それら二つの見え方の違いを通して、作中人物の内面を、今の語り手が感じていることを、描いてほしかったように思います。そのほうがより生々しく、語り手という人間を感じられたように思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「だから誰とも連絡しない。」という表現を始めとした、説明的な文章群と、先ほど述べた抽象性の高い文章群が相まって、空気感は薄れているように感じます。語りなので、香りがあることはあるのですが、全体的にどうしても、その色が透けてしまっています。流星群の描写だけでもいいので、細緻なものがほしかったように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 流星群の描写さえあれば、といったところでしょうか。題にもなっている肝心なところが透明なので、迫ってくる「何か」が欠けているように感じました。目を奪われるような流星群を、語り手の瞳を通して、見せてほしかったように思います。そうすれば、語り手という人間も、自然と見えてきたように思います。

 総評。
 こういった語り的文章は好みなのですが、もう少し、核となる部分の描写があればと思います。そのほうが、語りたいことや語りそれ自体に艶が出て、文章全体に夜露のような湿っぽさが生まれると思います。肝心なところだけでも、丁寧に編んでほしかったように思います。文章には、核には、瑞々しさもあったので。個性的なやわらかい表現のなかに、確かなものを一つ、溶かし混んでほしかったです。そうすれば、文章がより輝くように感じます。特徴であるやわらかさが、まさに生きてくるように思います。

●39 城戸 圭一郎 『黎明』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 説明調の文章が最後まで続いていくように感じます。自然描写はしっとりとしており、気になる偶然性などもありませんでした。ただ、終わり際が箇条書き的に見え、前半はそれと比べると表現が細かく、文も詰まっているので、統一感という点では多少気になりました。「フェルディナンはふと、ゴンドラから顔を出してみた。」の辺りから箇条書きなら、フェルディナンの心理の動きによって表現が変わったと見ることもできますが、その少し前からすでに箇条書きなので、多少引っかかりました。フェルディナンにとっての「黎明」とは、まさにゴンドラから顔を出して、目の前を見た瞬間からだと思うので。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。

「太陽に炙られた海は、銀色のビーズを撒いたようだった。頭上に浮かぶ雲のかたちを、そのまま海面に貼り付けたように影が映っている。」という描写を中心に、自然描写の湿っぽさには惹かれました。ですが三人称ということも相まって、全体的にどうしても説明のにおいが漂っているように感じました。別の項目で詳しく触れますが、説明調が原因で、全体の色彩が少し弱まっているように思います。全体にある自然描写の質感には非常に惹かれたので、加点しています。

 ちなみに上記の引用の、「頭上に浮かぶ雲のかたちを、そのまま海面に貼り付けたように影が映っている。」は、細緻な描写のようで、厳密には曖昧です。肝心の雲の外形が描写されていないからです。個々は分厚いのか、薄いのか、大きな塊が一つだけなのか、細かいものが点在しているのか。このままでも表現としては伝わってきますが、どうせなら、フェルディナンの目に映った雲を、そのまま見せてほしかったように思います。そのほうが自然描写に、フェルディナンに固有の感覚が載り、より鮮やかに見えただろうと思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 全体的に説明的で、かつ時間の流れが途中で遡って(回顧が入って)おり、そこで作中人物が置かれている状況の解説がなされたので、伝わってくるものが薄くなってしまっています。「もう幾日も前のことだ。ガスの排気ができなくなって、高度を下げられないまま気球は東へ流れていった。」というところがそうです。高度を下げられなくなったことは、掌編の前半部分ないし描写総体で、表現してほしかったように思います。そうでないと、そうなんだ、なるほど、という了解ばかりが残り、肌に迫ってくるものが薄いです。作中人物の漂流していることは、描写さえ丁寧であれば必ず伝わると思うので、直接的な形で解説しないでほしかったように思います。自然描写の質感がとてもよかったので、余計にそう感じます。説明だと色艶があまりないので、文章に浸りきれなくなってしまいます。

 また、「海に出てからの時間をメモしていたが、記録したのは昨日まで。フェルディナンの手帳は、胸ポケットに仕舞われたままだ。」というところ。先ほど述べた解説的な表現があるせいで、フェルディナンはそのあいだこんなことをしてきました、というただの情報の提示、ないし設定の公開、要するにただの説明になってしまっているので、感じられるものが弱いです。描写という形で、上記の文章に含まれている情報に触れさせてほしかったです。たとえば、胸で感じる手帳の重さを描写する。あるいは、胸元を掻いたときに指先がふと手帳の硬さに触れて、だけど取り出さない。別に何でも構いませんが、細緻な描写で描くほうが、ここでのフェルディナンの心理がよく現れるように思います。やり方はたくさんあるかと思います。全体として説明のにおいが香っているので、フェルディナンの内側が、どこか少し、ぼやけてしまっているように感じます。

 また、時間の流れ方が変わると(文章に回顧や振り返りが差し込まれると)物語の流れそれ自体もまた、必然的に分断されてしまいます。そして、差し込まれた部分が説明的だと、冒頭と最後の、つまり現在の部分の色艶にまで、その説明調が波及してしまいます。基本的に、物語の流れていく方向は一定であったほうが、つまり時間軸に沿って進んでいくほうが、作中人物の内面に迫りやすいです。挟まれた過去が解説的、説明的だと、その部分が、これまでのあらすじ、のように見えてしまいます。ここに至る経緯を説明するとね、という掌編の変に丁寧な声、ないし優しさまで聴こえてきます。そうなると、物語から自然勢いが奪われ、結果として、迫ってくるものが、表現の生々しさが、減衰するように思います。

 フェルディナンが過ごしてきた日々は、現在のフェルディナンの仕草、動き、五感に落とし込んで、こちらに見せてほしかったように思います。そのほうがより生々しく、その過去が感じられたと思うので。仮に過去を挟むにしても、その場面を、丁寧に描写してほしかったように思います。説明だと、ふむふむ、となるだけで終わってしまいかねません。

 4.基礎的文章力。
 すでに述べましたが、多くが説明的です。「水平線の一部がぼやけているのは、そこに雨が降っているからだ。」などは、何とかなのは何とかだから、という形の、完全な説明になっています。ここは、水平線の一部を丁寧に描写するという形で、ぼやけているのは雨だからだろうな、とこちらに思わせてほしいです。そのほうが、フェルディナンが漂っている空を、場所を、より深く感じられます。「太陽に炙られた海は、銀色のビーズを撒いたようだった。」という表現をはじめとして、自然描写にはしっとり感があるので、説明的なものの硬さが、どうにも目につきました。「今夜は雲が多い。」も、描写のようで、説明の色が強いです。その雲がどういう雲なのか、フェルディナンの瞳に映ったまま描写してほしいです。雲にだってたくさんあります。どんな雲なのかこちら側で補完させられると、作中人物の五感の要素が弱くなり、結果として、伝わってくるものが薄くなります。空は、この掌編の肝の一つのはずです。その描写に緩さがあると、どうしても気になってしまいます。

 それから、後半が特に抽象的なように感じました。たとえば、「夏の大三角形が、その存在感を衰えさせる。」という表現。具体性がないので、どうにも文がふんわりしているように思います。どの星がどんなふうに弱まっているのか、別に星の名前などはなくてもいいので、色なり光の鋭さなりを描写しながら、描いてほしかったように思います。前半の描写が比較的細かく、終わり際は箇条書き的なこともあって、どうにも気になりました。最後まで同じような形で描写が続いていれば、と感じます。しかも空は、この掌編の舞台なので。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「冷たい空気が吐息を視覚化させる。」の「視覚化」や「暗闇の勢力はそれほど大きい。」の「勢力」、あるいは「籐で編まれたゴンドラも、アウトラインだけが辛うじて視認できる。」の「視認」などは、字面が少しごついです。全体的になめらかな空気感が出ているので、空気感が少し乱れているよう感じます。もう少しやわらかい語彙群のほうがいいように感じました。ミルク、ビーズ、ライム、籐など、少し丸っこい表現が多いので、字面ないし音のがっしりしている語が、少し浮いているように思います。どうでもいいことかもしれませんが、思ったこと、感じたことなのでお伝えします。

 それから、すでに何度も述べていますが、説明の色がもう少し薄ければ、より雰囲気に浸れただろうと思います。自然描写や掌編全体からは、「感じ」が確かに滴っているので。作中人物の行動からも、空気感がよく香っています。人間の存在が、淡くですが漂っています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 説明調でなければ、あるいは説明調でもそれを完全に無視させてくれる「何か」があればと思いました。自然描写には惹かれるのですが、文章の多くが抽象的、説明的なので、もっともっと細緻だったら、と感じずにはいられませんでした。たとえば、「三日前に空になったことを知っている。しかし昨日は、網目の隙間から、小指の爪ほどのパンのかけらを見つけたのだ。」という情報は、前後の動きをより細緻に描写するという形で、文章自体に落とし込んでほしかったです。そうではなく、ただただむき出しのまま情報を渡されると、へぇ、とか、そうなんだ、とか、うんうん、といった声が、どうしても芽生えます。説明は描写ではないので、迫ってくるものがあったとしても、その勢いはどうしても弱くなりがちです。そしてこの掌編では、自然描写や作中人物の行動の色彩が、説明や解説的回顧が原因で、色あせているよう感じました。

 総評。
 説明のにおいが薄く、描写がもっと細緻だったら。その一言に尽きると思います。三人称が持っている一歩引いた感じという特徴もあって、どうしても全体が薄く見えてしまいました。説明調で迫ってくる文章もありますが、その場合は表現総体の艶感や空気感が劇毒的か、あるいは全体の底に圧倒的な「何か」があります。この掌編の場合、自然描写には艶があるので、そこがもっと突き詰められていれば、というふうに感じました。フェルディナンの内面がもっと濃く香ってくれば、とも思います

 結局、こちら側で多くを補完して初めて、この掌編は鮮やかに見えてくるのですが、その場合、もはやフェルディナンの感覚や見たもの、想いや思案などは消えてしまい、残るのは読んでいる自分の感覚や感じ方、思考「だけ」になってしまいます。フェルディナンという、生きた人間の感覚や思考が、読後にくっきりと残っていてほしかったです。


●40 小川牧乃 『けさのこと』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 淡々とした、それでいて色艶の濃い描写が続いていくという印象を持ちました。気になる偶然性もありません。最初から最後まで、その淡く、けれども鋭い文章の色彩は、香り続けているように感じます。詳細は後述しますが、文章がまさに人間に見えます。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「『ごめん』と舞子はそれを私のほうへ掲げて、またトイレに駆け込んだ。」という描写を中心に、ほぼすべての表現に、多くのものが溶け込んでいます。そのため、各々の描写が個々でほぼ完全に自立しており、どこに触れても冷たく、温かく、湿っぽく、滑らかでした。文章に触れているととても愉快で、同時に胸が震えました。生きている人間の一瞬間に接することができる描写群は、極めて異質でした。言葉が見つからないほどです。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「彼女は答えずにそれをテーブルの上に投げた。」という一文に触れた瞬間、とても濃いものが伝わってきました。「舞子はカーテンを踏みつけながらリラコを脱ぎ、仕事用のジャージを履いた。」や「Tシャツと下着も脱いで洗濯かごへ投げたが、失敗して舌打ちをしながら洗面所へ入っていく。」も同様です。「振動で箸立てがひっくり返る。何やら声を上げながらそれを直すと最後にシンクの下の扉を蹴飛ばした。」もそうです。およそすべての動きに、舞子の内側が映り込んでいます。そして、「『ごめん』と舞子はそれを私のほうへ掲げて、またトイレに駆け込んだ。」という一文が、掌編全体の描写の色彩の鮮やかさを、圧倒的なまでに際立たせています。これらの行動に関する、明確な説明や解説があるわけではありません。ただすべての描写に、舞子の心が確かに溶け込んでいることで、多くのことが伝わってきます。その生々しさは、強烈なまでの存在感を放っているよう思います。

 同時に、「ビーズで飾られた木枠に透明の板がはめ込まれているものだが、小さな傷がついていた。袖で拭くが、消えない。」というところや、「カーテンはたたんでクローゼットにしまっておくことにした。擦りガラスだから、と言うと舞子は小さくうなずいた。」というところから、語り手の内側も、ふっと漂ってきます。最後の「了解」もそうです。ここには語り手がいます。まさに人の心が、ほぼ完全に、行動と感覚だけで描かれてあるように感じました。

 4.基礎的文章力。
 「どこかの部品が古くなっていたらしい。」という心理描写的説明の存在が気になりました。そのすぐ後ろを読めば、古くなっていたことは分かるので。全体の完成度が異常だったので、些細なところですが、気になりました。ここは心理描写だと判断しています。

 また、「これは付き合って一年のあの日、互いの親に会いに行き、それぞれから孫がほしかったのに許せないなどと言われた帰りに買ったものだった。」というのが、二人の関係性の説明ないし暮らしの解説になってしまっています。写真立てをより描写したり、あるいは写真立てを見た際に、その許せないと言われたときの声や表情が眼前に蘇る、という形だったり、とにかく何でもいいですが、描写を通して、この情報を伝えてほしかったと思います。ほかがすべて描写による伝達なので、ここは少し、本当に少しですが、浮いているように感じました。「仕事用のジャージを履いた。」の「仕事用の」も若干説明的です。「時計、ハンドクリーム、小さなぬいぐるみ、芳香剤。」は、具体的にどんな、と問いたくなるところですが、全体が、とりわけ動作の描写群が極めて異質なので、表現の説明調も、小物の抽象性も、ほぼ気にはなりませんでした。気になるところがあっても、それを無視させてくれる力を、文章全体が持っています。

 なお、全体の完成度と、禍々しいほどの表現力に関して、ここでそれぞれ加点しています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 空気感は異常なほど滴っています。日常的なものが掌編の核ですが、その核の持っている艶が、表現によって徹底的に磨き上げられ、結果として、極めて異様な「感じ」が出ています。生々しいほど、生きた人間の息のにおいが漂ってきます。二人のどの行動を見ても、そこに個人が感じられる。そのことが、作品の雰囲気を決定的なものにしています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
『けさのこと』という題名が示している、日常の一瞬間が、圧倒的なほど淡く、そして鮮やかに迫ってくる掌編でした。動きや感覚には、作中人物の内面や関係性が深く刻み込まれており、どこに触れても心地よく、愉快で、それでいて胸が締めつけられました。まさに「何か」がある掌編でした。舞子と語り手に、そっと触れられる、生きた掌編でした。何度も読み返したいと思いました。描かれている生の、ほんのわずかな一瞬に、たくさんのものが詰まっているよう感じます。表現の奥にあるものは、底なしのように感じます。原稿用紙たった二枚のなかに、本当に、生きた人間がいる。そう感じられました。

 総評。
 個々の動きや感覚に、非常に多くのものが溶け込んでいて、読んでいて震えました。生の一瞬間が、香り豊かに表現されているよう思います。生きた人間がそこにいました。関係性、暮らし、生、性、感情、想い、過去、未来、そして現在。たくさんのものが絡まり合っている、底の深い表現のように感じました。もっと評を書きたかったですが、言葉が出てきません。ご容赦ください。大好きな掌編です。

読んでいただき、ありがとうございました。