「原稿用紙二枚分の感覚」 評21〜25

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。


●21 海亀湾館長 『ルンナは夜明けまでに』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 最後まで淡々と、それでいて生々しい、強烈な文章で紡がれてあるように感じます。物語を構成するためだけに置かれてあるようなものも感じられず、統一感のある文章に見えました。最初から最後まで、まさに人間が描かれてあるように思います。破綻なども感じませんでした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 最後の「その小さな顔をそっと乳房に近付けた。乳首に触れた赤ん坊の唇は、ナイフのように冷たかった。」を中心に、心奪われる表現がいくつもありました。それらが、ほかの平易な表現群の艶を、増幅させているように思います。たとえば、「踊り場の切れかかった蛍光灯が、せわしなく点滅している。」は一見すると、どこか淡白にも思える自然描写ですが、掌編全体の文章と絡まり合って、暗さ、冷たさ、異様さ、ぬるさが出ています。結果、この一文もまた、ほかの文章、たとえばすぐあとの「外は月夜だった。」という簡素な表現にも、艶を与えています。本来なら、月夜って具体的にどんな、と感じるところなのですが、まったく思わなかったので、やはり全体として、表現が強く瞬いています。

 冒頭の「手探りで下腹部に起きた変化を確かめる。両脚の間に突如出現したドームのようなものが、圧力の高まりによって、徐々に大きくなる。」は、作品のどろりとした質感の土台として、多少説明調ですが、際立っているように感じます。全体を通して見ても、また個々の表現をそっと拾い上げてみても、心奪われる文章だったように感じます。掌編の核となっているものの重さに、表現が負けていません。淡々としていることが生きているように感じます。描写が、表現が、そのずっしりとした掌編の核を、ぐいと目の前に突きつけてくる、そんなように思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「その小さな顔をそっと乳房に近付けた。乳首に触れた赤ん坊の唇は、ナイフのように冷たかった。」を核として、個々の描写から、ルンナの内側がどろりと滴っているよう感じます。「ふらつくたびに月を見上げる。」など、細部に渡って、ルンナという人間が、その表現からぎらぎらと照り返してきます。述べることが見つからないほど生々しく、ルンナという生きた存在の内側が、表現のなかで息づいています。そこにある五感や動き、あるいは自然描写を通じて、まさに人間に触れられる。そう感じられることが、この掌編を、非常に印象深いものにしています。

 4.基礎的文章力。
「今取り落としたものを慌てて拾い上げる。」の「慌てて」が、心理の直接的描写に見えました。ほぼすべての文章に、ルンナの心理が違和感なく練り込まれているからこそ、こういった細かい部分が気になりました。「小さな声で明るく歌いながら、」の「明るく」も、心理の直接的なにおいがほのかにします。「小さな声」をもう少しだけ描写することで、その「明るく」で伝えたかったことを、こちらに見せてほしかったように思います。非常に細かいかもしれませんが、これらは心理描写だと判断しました。全体が異質なので、些細なところがどうしても気になってしまいました。

 それから「穿いていたスウェットは、もうだいぶ前からぐしょぐしょに濡れて重くなっていた。」なども若干説明的に見えましたが、文章全体を通して多少説明的な香りは絶えずしており、しかもそれが気にならなくなるほどの艶めかしさや明け方の暗さが、何より人間が、表現全体から漂っているので、引っかかりませんでした。伝わってくるものが多いです。掌編の核として選ばれた分厚いテーマを、文章が真正面から受け止めており、その表現力にため息すら出ました。加点しています。重たいテーマの場合、気をつけないと文章が軽く見え、結果としてすべてが白々しく感じられることがありますが、この掌編の場合、そんなことは一切なく、まさに掌編の核が、細緻なまでに描かれてあるように思います。やはり、ルンナという個人の呼気を感じられることが大きいです。それは、この掌編の強烈な魅力です。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 空気感は底なしです。心理描写がほぼ完全に排され、完全な説明文もおよそ省かれた結果、震えるものを、文章から感じます。同時に、端々には澄明さもあるような気がして、表現すべてが持っている「感じ」は、極めて異様でした。

 ただ、「へその緒の下を覗く。男の子。」の「男の子。」が、少し丸っこい感じを持っていました。「下に着ていたスウェットの上着をたくし上げる。固く張り詰めた真っ白な乳房が現れた。」というところには「乳房」という直接的表現があるので、「男の子。」のところが、もっと生々しく描かれてあってもよかったかもしれません。とはいえ、もはや完全に好みのレベルです。「男の子。」でも、空気感は異質なままです。乱れていません。怖いほどに「感じ」が出ています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 何度も読み返したいと思いました。悪心を催す色に包まれた文章からは、ルンナという一個人が、劇毒的なほど鮮やかに飛び散っています。言語化不能な「何か」でこちらを呑み込んでくる、忘れられない掌編でした。核の重たさも伝わってきます。感じられるものの多い、考えさせられる小説でした。

 総評。
 表現の多くが特異さを持っており、掌編の核と完全に調和した文章の空気感に、目を奪われました。輪郭すら一切分からない、ルンナの、重く深く、蒼白い内側。描写は一つ一つが個々に自立し、相互に絡み合い、全体の表現の完成度を高めているように思います。震えました。読み終わった瞬間、何も考えずにまた読んでいました。ルンナに触れたくて仕方ありませんでした。心理描写がほぼ存在しないからこそ、怖いほど人間を感じました。まさに人の、心の「表現」でした。それ以外に述べられることが、およそありません。ご容赦ください。

●22 See May Jack 『海のそばで一人』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 ほぼすべての表現が説明的、という書かれ方は、最後まで変わらないように思います。何か破綻しているような感じもありません。淡々とした、要するに淡白な書かれ方のように思います。文章全体の背骨となっている説明のにおいに関しては、別の項目で触れます。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 目と耳に関する表現が大部分を占めていますが、文章自体は平易に感じます。まさに目の前の質感が大きく取り上げられているので、もっと文章に起伏がほしいと思いました。たとえば、「音」という単語が無数に散らばっています。用いられている語彙が一定であることが原因で、表現から語り手独自の感覚が薄まり、あまり肌に迫ってきません。比喩もありますし、書かれ方には独特さも感じるので、個々の表現がもっと鋭ければ、と感じずにはいられませんでした。音に関連する語、表現は、日本語にはたくさんあるのではないでしょうか。語り手の音に対する関心は高いので、音という語を用いずに音を表現したほうが、語り手が音に惹かれる人間であることが、いっそう生々しく伝わってくるように思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 確かに作中人物の内側はおぼろげに香っています。ですが、全体的に説明的で、文章から反射してくるものがどうにも微弱です。具象画にモザイクをかけて加工したもの、という印象でしょうか。音や色彩の表現から、伝わってくるものは確かにあるものの、とにかくふわっとしているという感覚だけが根強く残りました。ただ自然描写がそこにあるだけ、という思いから、どうしても逃れられませんでした。その見えたものに、映り方に、作中人物の内側を、もっと溶かし込んでほしかったように思います。確かに、描かれてある海には惹かれますが、海が見たいのではなく、語り手の心の色に、より染まった海が見たかったです。掌編全体が持っている説明調が原因で、個々の個性的な表現の生々しさが薄れているように感じます。

 4.基礎的文章力。
 多くの文章が説明的でした。「砂浜に座っているものだから,足の指に間に砂が入ってくる。目をつむっているから指の間にどれだけの砂があるかは見えない。」の「砂浜に座っているものだから,」は、「だから」とあるせいで、描写ではなく単純な説明になっています。その後ろに関しても「目をつむっているから」という説明のせいで、表現が混んでいます。目をつむっているのはその前の文章で分かっており、砂は見えなくて当然です。いなくてもいい言葉があると、どうしても気になります。表現がわちゃわちゃしている、と言ってもいいかもしれません。せっかくの砂の触感が、弱まっているよう思います。ちなみに、「足の指に間に砂が入ってくる。」は、「足の指の間に」の誤字でしょうか。表現されている事柄からすれば、本当に些細なことですが、目に留まったので、一応お伝えしておきます。

「ただし,音楽プレイヤーでよくあるリピートではない。」も「ただし,」のせいで完全に説明文になっています。「目の前の海は,日が落ちた今見ても薄めた墨汁にしか見えない。昼間見れば確かに青い。しかし日が高い時でさえ,どこかの南国のような明るい青ではなく,どちらかというと紺色だ。」や「風のせいで潮のにおいがほとんどしないから,余計に海に見えなくなってくる。」も、説明の色が滴っています。たとえば後者の引用は「せいで」、「しないから」とあるため、説明の色が濃いです。何とかが原因で。何とかだから。そういった表現は、説明の色を帯びます。そして説明だと、伝わってくるものの息遣いが基本的には弱まります。たとえば、「歩いていたら自転車のベルの音がして、振り返った」だと表現が大雑把なので説明的ですが、「ふらふらと歩いていたら自転車の甲高い響きに耳を噛まれて、目を細めながら振り返ったら靴底がざらりと鳴った」だとより描写的で、そのベルの音を聴いた人間の内側が、淡くでも載りますし、伝わってきます。今回、基本的には説明ではなく、描写してほしかったように思います。

 それから、「絶妙な茜色。」や「砂浜はどこかの楽園のような白さではなく見事にベージュ。」は形容が曖昧なように感じます。特に気になったのは「絶妙な」と「見事に」というところ。絶妙な茜色とはどんな茜色でしょう。見事なベージュとは、具体的にどんなベージュでしょう。完璧な茜色、完全なベージュ、という意味合いがあるように感じますが、ではそのベージュとは、いったいどんなベージュでしょう。「見事にベージュ」だと、表現としては非常に曖昧です。その見事さは、具体的に表現されていてほしかったと思います。読んだこちら側に、見事だなぁと思わせてほしいです。そうでないと、そうなんだね、という軽い感想しか抱けません。ほかは具体寄りに表現されているのに、この部分は変に曖昧です。抽象的な形容は、形容として成り立たないことがあります。読んでも意味は分かりますが、言いたいことは伝わってきますが、厳密な描写にはなっていません。描写っぽい何か、という印象が濃いです。そのため、肌に迫ってきません。「ただし,音楽プレイヤーでよくあるリピートではない。」の「音楽プレイヤーでよくあるリピート」も、同じように曖昧です。否定されている事柄に関して、およそ何も分からないので、こちらで完全に補完するしかないのですが、その場合、こちらの感覚なりイメージなりで上書きすることとなり、もはや語り手の感覚は消えます。

 また、心理描写もぽつぽつありました。「次はだんだん大きくなったかと思いきや,」は完全な心の声です。「鬼灯の色に近いだろう。」や「ところどころにある黒い影を素足で踏んだら怪我をするだろう。」の「だろう」も同じです。すべて五感を用いて表現されてあったら、と思います。この三ヶ所は、それぞれ心理描写だと判断しました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 視覚と聴覚を軸にして、空気感がわたあめのようにふわふわと、掌編の周りに漂っています。ですが説明的な文章が、その雰囲気が膨らんでいくことを阻んでいます。独特な文章だからこそ、五感がゆっくりゆっくり書かれてあるからこそ、説明の生んだ不協和音が大いに気になりました。個性的な描写で端々まで覆われてあれば、作中人物の内面もより伝わってきて、結果として、作品の「感じ」はより鮮やかになったと思います。人間も見えてきたように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 全体の表現がより鋭ければ、あるいは説明が少なければ、ということに尽きると思います。丁寧に書かれてある音や色彩の表現は、「波と風の世界から離れる時間だ。」という最後の行を中心とした説明群に、すべて上塗りされてしまっています。そのため、作中人物は浮いてしまっており、ただただ音と色だけしかなかった、という印象が、読後残りました。

 総評。
 端々が細かいだけに、説明という大味さが気になりました。説明のにおいを掻き消すほどの「何か」があれば、また違った印象を受けたかもしれませんが、いずれにせよ、説明ではなく描写だったら、という感覚が強いです。人間の不在すら感じます。半端に描写が丁寧なので、余計にそう思いました。人の内側が、確かにありそうなのに、しっかり触れられない。そんなもどかしさに、何度も襲われました。作中人物の内面に、生々しく迫りたかったです。海にもっと、人を溶かしこんでほしかったです。『海のそばで一人』という題に込められてある作中人物の想いに、より迫りたかったです。

●23 里場 『夕暮れの街中にて』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
「冷たい風を受けて、お腹、さすりながら歩く。」を筆頭に、文章には独特のリズム感があり、また同じ名詞の繰り返しや、体言止めの多様など、文章の調子は一貫しているように感じられました。描かれてある日常的な場面はどこか冷たく、暗く、そこには破綻も乱れもないように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「冷たい風を受けて、お腹、さすりながら歩く。」のリズム感には惹かれました。ただ、全体を通して文章は平坦であり、またリズム感は不規則に乱れ、説明的な文章が、どうしても目につきました。そのため、描写がいっそう平らになっています。全体的に、淡いオレンジ色と水色を感じる、どこかひんやりとした文章でしたが、説明調の文章に、魅力的な個性が掻き消されている、という面があるよう思います。もっともっと、独特のテンポと描写で満ちていれば、日常の物悲しさとでも言ったらいいのでしょうか、あるいは周囲を気にせずにはいられない瞳の動きとでも言ったらいいのでしょうか、そういったものが、生々しくこちらに覆いかぶさってきたように感じます。わずかにあった個性的な表現に、もっともっと触れたかったです。

「冷たい風を受けて、お腹、さすりながら歩く。」は特に心奪われる質感を持っていたので、加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 細かい描写もあり、動きや五感から、作中人物の内面は確かに香っています。ブリトーを取り出すところや、名詞の繰り返し、体言止めなどに、人の心は映り込んでいるように思います。ただ、どうしても説明的な文章が気になり、また表現全体に横幅がなく、多くの文章が痩せているので、どうにも淡いです。痩せていてもいいのですが、だったらもっと病的に痩せていたほうが、逆に作中人物の内面が映り込んだかもしれません。

 また、用いられている擬音全体が妙に軽妙で、文章の痩せに愛嬌が出てしまっています。作中人物の内面は、ところどころで確かにどろりとうねっているのに、かわいらしい表現が原因で、うねりが凪になっています。

 4.基礎的文章力。
 繰り返される名詞と体言止めは、全体に彩りを添えているように思います。ただ、「橙色と青色、二つの色に染まる空の下。」を中心に、説明的な文章の存在が、繰り返しと体言止めに、説明の色をつけています。結果、文章が生きているのに死んでいる、という、妙な状態になっているよう感じます。たとえば、「家、家、家。たまに閉店中の店や電灯の灯ってない学習塾。」のところの後半が、あまりにも説明的で、「家」の繰り返しが説明の色に喰われているよう感じます。家、というより建物の無数に迫ってくる感じが、どこか薄れてしまっています。完全な説明、あるいは説明の色の濃い文章が少なければ、特徴的な体言止めや名詞の繰り返しが、より強く印象に残り、掌編全体の光り方が鋭くなったように思います。作中人物の内面も、より鮮やかな形で触れられたように思います。

「その時、にわかに周囲が賑やかになった。」も「その時、」が原因で後ろの描写がただの説明に変わっています。細かいかもしれませんが、説明のもたらした引っかかりが、どうしても気になりました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 すでに何度も述べていますが、説明的な描写の多いことが原因で、いくつかあった個性的な表現から滴っている「感じ」が、どこか薄まっているように感じます。

 また、無言ないし沈黙の描写が、記号で完結しているところがありました。記号ではなく日本語で表現されてあるほうが、そもそも多くのことが伝わってきますし、この掌編の場合でも、日本語のほうが、全体の調子と合うように思います。丸っこい擬音と相まって、暗く冷たい空気感が、どこか乱れています。浮いている、と言ってもいいかもしれません。記号による表現は簡易な手段なので、どうしても軽さをもたらしがちです。体言止めや繰り返し、あるいは個々の特徴的な表現からは、「感じ」が確かに出ているので、それを乱す存在が目につきました。

 体言止め、名詞の繰り返し、印象的な表現。それらが織りなしていた空気感には惹かれたので、加点しています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 感じられるものはありますが、説明的な表現と、全体的な表現の平易さが原因で、迫ってくるものが薄まっています。個人的には好みの空気感だったのですが、浸りきれないという感覚が、最後まで根強く残りました。一部の表現はとても個性的だったので、そういった表現にもっと触れたいという欲求が、どうしても捨て切れませんでした。独特のリズム感のあった描写からは、歩いている作中人物の息遣いを感じましたし、「高校生」と繰り返される部分には、作中人物の瞳と内側の動きを、強く感じました。だからこそ、そういった表現でもっと満ちてあれば、と思いました。


 総評。
 名詞の繰り返しや体言止めには惹かれました。全体から蒸発している香りも、個人的には好きです。ですが、細部のほつれがどうしても気になり、もっと徹底されていれば、と思いました。いくつかの表現には固有の色があったので、その色彩で全体が満ちていたら、というふうに感じます。というより、それが感じたことのほぼすべてです。言いたいことはその一点に尽きます。せっかく艶っぽいところもあるのに、総体としては、どこかあせているように見えてしまいました。家や高校生、ブリトー、お腹をさすりながら歩くところ。部分からは、淋しさ、悲しさ、虚しさ、疲れ、恐怖心など、いろいろなものが感じられましたが、たとえばあおった一杯からはあまり感じられませんでした。そういった、感じられるところと感じられないところの落差が、大きかったのかもしれません。全体が説明っぽいので、最後の一行もどこか説明に見えてしまう。このことが、「一杯あおる」というざっくりとした、けれども多くを感じられるはずの行動から、光を奪っているような気がします。


●24  町村紗恵子 『立ち尽くす女』

 問題作でした。全体を流れる説明調をどう受け取るかによって、この作品の色彩は百八十度変わります。なぜ、文章の底にある説明調を真逆に捉えられるのか。それは、「私」と「彼女」という存在に対する解釈が、いくつも存在するからです。

「私」と「彼女」という二人の人物が描かれてあると見た場合、説明調だと、感じられるものが著しく減衰します。ですが、この二人が一人の人間であるとすれば、説明調が圧倒的な表現へと変貌します。その曖昧さと淡白さが、「私」の一歩引いたような視線が、生きた人間を生み出します。そして、二人が一つの存在であると考えられることが(考えられる理由は後述します)、つまりたとえ作者の方の意図がなんであろうと、そういうふうに読んでも許されることこそが、この掌編が自分にとって、問題作であった理由です。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 一人称でありながら三人称的で、全体を通して描写に説明のにおいがこびりついていました。一つの段落ですべてが完結し、書かれ方は最初から最後まで一貫しているように思います。

 読んでいて、なぜ「私」という語り手の足は踏まれないのか、という疑問を、最初に抱きました。次いで、作中人物の描写のなさが引っかかりました。あるのはローファーくらいです。その結果、「私」なるものと「彼女」なるものが、一人の人間であるかもしれないことに気づきました。もちろん、二人なのかもしれません。けれど、そう解釈することも可能でした。その瞬間から、掌編全体の説明調や、淡々とした表現が、劇的なほど鮮やかに見え始めました。踏まれている自分を別の自分が、いいえ、踏まれている女性たる「彼女」を、まさに見ている「私」がいる。作品に圧倒的な深みを感じました。この解釈の多様性は魅力です。そしてこの、およそでき得た解釈が、表現の曖昧さ、説明調を、圧倒的な光へと変えています。一人の人間の内側は一つではない。そう読めることこそがまさに重要で、作者の方の意図とは大きくずれた読み方かもしれませんが、今回、そういうふうに読ませていただきました。ご容赦ください。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 起きている事柄には惹かれます。「私」と「彼女」の関係性や、存在の解釈の多様性などは、痩せた文章に、圧倒的なふくらみを生んでいます。文章は確かに説明的です。一人称のわりに、どこかよそよそしい感じがします。ただ、そのよそよそしさ、冷たさは、解釈の多様性という名の太陽によって、まさに光り輝いています。同時に、表現の他人行儀な感じが、まさに解釈の多様性を下支えしているようにも思います。説明調は、淡白さは、表現として怖いほど生きているように見えました。核となるものに負けない異様さが、表現全体から香っているように思います。曖昧な、伝わってくるものの少ない書かれ方であるからこそ、逆に多くのものが伝わってくる、そんな文章のように思います。淡々としているからこそ、「私」なるものの内側の色が、よく見えます。その色彩は一切分からないにも関わらず、色なるものが、確かに感じられます。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 「『一本、二本、三本、四本』といった具合に呟いていたが、ちょうど二十本を超えたときから口をもつぐむようになった。」というところを中心に、作中人物の内面はとろりと流れてきます。全体を通して説明調ですが、その淡々とした文章から、「私」なるものの、内面のぬるい視線を感じます。完全な説明になっている文章もあるので(詳細は後述します)、そこは説明調にまで落としてほしかった、とは思いますが、いずれにしても、説明的という、あまり迫ってこない感じが、結果として、「私」なる存在の口臭を生んでいます。語り手の冷たさ、無機質さが、逆に人間らしく見えています。それは、「彼女」と「私」という存在が何なのか、明確には一切解説されないことが、強く影響しています。

 4.基礎的文章力。
 最後の「摩擦熱が凝縮した瞬間の音だった。だが、その一連の流れを知るものはあまりにも少ない。」の「だが、」より後ろは、完全に説明になっています。「だが、」という接続の仕方が、説明のにおいを生んでいますし、その後ろは、そもそも話を締めるための表現、解説になっています。「流れを知るものはあまりにも少ない。」ことは、全体を読めば分かることなので、解説されてしまうと、ただただ頷くことしかできません。引用した部分は、元々完全な説明文ですが、たとえ描写であったとしても、繋げ方次第では、表現は完全な説明へと姿を変えます。説明調であればまだ描写ですが、説明だと、ただの情報伝達になってしまいます。

 話は少し逸れましたが、とにかく、最後の一文さえ、という感じがします。ここがないか、あるいは完全な説明ではなく説明的な表現であれば、という想いが、どうしても拭えませんでした。無視できそうなのに、できませんでした。とはいえ、引っかかり自体はそこまで大きくありません。

「そしてしばらくの後、私が「百」という数字をあてもなく呟こうとしたとき、」の「あてもなく」は、心理の直接的な表現に見えました。細かいかもしれませんが、ここは直接的な心理描写だと判断します。「あてもなく」を、呟き方で表現してほしかったかなと思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 説明調と淡白さ、そして解説しないという冷たさと、「私」と「彼女」という存在の解釈の多様性が絡まり合った結果、極めて独特の、言語化するのが困難な「雰囲気」が漂っています。だからこそ、最後の一文のような完全な説明がなければな、とも思いました。そういった表現が、空気感をわずかに損ねているように感じます。最後まで、この掌編の持っている色に、浸らせてほしかったと思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 掌編の核は好みです。説明調や淡白さなどがもたらす、圧倒的な不透明さ、抽象性にも惹かれます。全体から香ってくる人間のにおいも、嗅いでいると心地よいです。「彼女」にも「私」にも、もっと触れたくなりました。動きや五感、自然の描写は極めて曖昧ですが、そこもまた、作中の女性に対する解釈を多様にし、結果として、作中人物が、生きた人間に見えました。多くの場合、表現が曖昧だと生きた人間に見えないのですが、この掌編には「何か」が確かにあり、結果、それが作中人物を人間にしているように思います。「私」と「彼女」という呼ばれ方を持った存在が、まさに一個の人間を描いているように見える、と言ってもいいかもしれません。たとえ本当は、別々の人間であったとしてもです。一対かつ別々に見えることに、惹かれました。

 総評。
 正直、どう評を書いていいか分からない掌編でした。ですがそれは、感じられたものが、迫ってきたものが、極めて複雑で、多く、かつ魅力的であった、ということです。確かに人間を感じられました。惹かれる掌編でした。それ以外に、言えることがありません。

●25 アキ 『めぐるドードー』

 文章の大部分が心理的な語りで、残りもほぼ説明でした。今回、五感と自然描写と動きのみで書かれた掌編を求めました。そのため、採点の基準上点をつけられませんでした。評は書きますが、無評価という扱いになります。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 思ったこと、内面のつぶやきで全体が構成されており、それを補強するように説明が添えられています。全編を通して非常に抽象的であり、具体的なことは一切伝わってきませんが、ぐるぐる考えているときは、こういった感じで極めて曖昧なものなんだろうと思います。文章に統一性はあるよう感じます。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 こういった、詳細を隠して抽象的に語り続けるという書かれ方自体は好みですが、表現自体は平易ですし、内面の息苦しさや荒々しさ、あるいは濁りや汚臭を感じるような表現はなかったです。独白なので、もっともっと、語り手固有の言語で迫ってきてほしかったな、という感じはします。どうせなら、語り手の乱れた内側を、よりえげつない形で見せてほしかったな、と思います。とはいえ、文章自体は非常に読みやすく、さらりとした触り心地なので、読んでいて心地よかったです。語られてある内容に比べると、表現が上品、と言ってもいいかもしれません。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 内側らしきものの存在は確認できます。なぜか。たとえ曖昧で抽象性が高く、具体的なことが一切述べられていなくても、心理的な語りだからです。今回、動きや五感で作中人物の心を表現してほしかったので、語りで直接心を描くのは控えてほしかったように思います。個人的には、独白体もすごく好みなのですが。

 4.基礎的文章力。
「吸おうとして禁煙していることを思い出し、またやりきれない思い。」の「やりきれない思い。」を動きなりで表現してほしかったです。「やりきれない思い」なるものを、たとえば人が抱いたとき、肉体には必ず何かが生じるはずです。それを今回、描いてほしかったように思います。小説のなかで、語り手固有の感覚が描写されてあると、多くのものが、生々しく伝わってくるように思います。

 また、「ルービックキューブの解き方を知らぬままにただ触っているだけのような、圧倒的な情報量不足。」は説明調で、「食い違い。言い争い。偽りたくない気持ち。」は抽象的です。こういった表現は、表現として、とても曖昧であることはお伝えしておきます。それが悪いと言っているのではありません。ただただ曖昧である、と言いたいだけです。何より、これだけでは心理の説明です。そして説明は描写ではないので、語り手固有の実感に、どうしても触れにくいです。その偽りたくない気持ちを、描写で何とか表現してほしかったように思います。仮に心理描写であったとしても、具体性がほしいです。もちろん、抽象的でも構わないのですが、その場合なら、圧倒的なえぐみのある表現がほしいです。この掌編のように、抽象的かつ大人しいと、どこか物足りないです。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 ぐるぐると頭のなかであれこれ考えている、という淡い空気感は出ていますが、この掌編特有の「感じ」には触れられませんでした。この掌編でないと触れられないものがあったらと思います。この語り手の実感に、より深く迫りたかったように思います。もっと語り手のことが知りたかったです。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 すでに書きましたが、この掌編に特有のものがあればと思います。こういった心理的つぶやきなるもので構成された掌編は、個人的には好みですが、それでももっと、という感覚は消えませんでした。仮に心理描写で描くなら、もっと徹底して描写してほしかったように思います。内側の声なのに、説明感もあって、どうにも厚みが感じられず、浸りきれませんでした。内面に生じた声がそのまま、乱れも破綻も残したまま、まさにそのまま書かれてあったほうが、あるいは生きた人間の独白に見えたように思います。あれこれ思案しているわりに、どうにも落ち着いているように見えました。

 総評。
 ほぼすべてが心理描写だったので、今回は無評価ということになりました。そしてその心理描写も、ほとんどが心理描写的説明なので、どうにも迫ってきませんでした。語り手に固有のものがもっと生々しく感じられたら、と思います。ぐちゃぐちゃな思考が描かれてあるわりに、どこか上品なにおいがしました。表現は、もっと乱れていてもよかったように思います。

読んでいただき、ありがとうございました。