「原稿用紙二枚分の感覚」 評46〜49

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。

 

●46 ますこすこ 『夏の記憶』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
『夏の記憶』とある通り、回顧的な文章で、表現は基本的に過去形でした。その書かれ方は一貫しているように感じます。途中、「経緯はわからない。」という形で挿入されてある、必然性の不明な出来事はありましたが、アルコールなり何なり、いろいろと想像できましたし、作品の中心が過去の振り返りなので、記憶が飛んでいても問題ないように思います。そもそも、読んでいて特に気にはならなかったので、減点などはしていません。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 重要であろう部分が説明的であるため、描写の色が全体的にあせているように感じました。たとえば、「場所は大学近くの公園で、ぼくはあのコが割ったスイカの、転がった断片のひとつを右手で拾い上げ、吸い付くようにして頰張った。」などはそれが顕著です。「場所は大学近くの公園で、」というのは位置の完全な説明なので、その後ろの重要な描写にまでその説明臭さが波及しており、「ぼく」の内側や、頬張るという動きが、朽ちてしまっています。しかも、その公園がどんな公園なのかは説明して(見せて)くれません。そのことが、余計に説明っぽさを増幅させています。せめて数文字で構わないので描写、形容してほしかったように思います。そうでないと、公園はただの記号になってしまいます。公園にだってたくさんあります。思い出の場所の描写が一切ないと、作中人物の記憶の生々しさが、作中人物の記憶への想いが、まるで伝わってきません。抽象度の高い形容でも何でも、とにかく公園は描写されてあるべきだったように思います。

 全体を通して独特な、淡い表現ではありますが、説明なるものが、その淡く滑らかで、かつべたつきのある質感を、薄めているように思います。「忙しそうに這いまわる音、微かすぎるその音をしかし確かに耳が捉え、熱帯夜のリズムに踊り狂う白煙の粒子を目で追っていると、正面に夏が突っ立って黙ってぼくを見ていた。夏はぼく自身で、指定ごみ収集袋の口をきつく閉じ、力を込めて固く握りしめていた。」は、「しかし」という接続の仕方と、「夏はぼく自身で、」という説明的な表現が原因で、「正面に夏が突っ立って黙ってぼくを見ていた。」という色艶のある表現から、その水分が奪われてしまっています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「経緯はわからない。前夜にスイカを割ったあのコの行方もさっぱりわからない。」という心理描写的な語り、ないし説明、解説が、全体を通して淡く滴っていた作中人物の内面のしずくを、吹き飛ばして蒸発させているように感じます。経緯は分からないという事実を直接的な語りで伝えられた結果、「そしてぼくは今でも、スイカの匂いを嗅ぐと下半身が熱くなり、伴侶となったアキコの裸にあのコの顔を強引に重ねて果てるのである。」という最後の一文が、非常に説明臭くなっています。元々、行動がざっくりと書かれてあるだけなので、ただでさえ説明臭いにも関わらず、余計ににおいが増しています。「アキコの裸にあのコの顔を強引に重ねて」という行為が本来持っているはずの、艶や性的な香りが、完全に消えてしまっています。生々しさや色気がありません。そもそも、何とか「である。」という表現の締め方自体が説明っぽいです。

 別に経緯は分からなくてもいいのですが、分からないならそのことを、乳房の上で目覚めたときの動きなり感覚なりで伝えてほしかったです。確かに、スイカに関する描写は生々しいです。ですが、全体を通してどうにも説明的なので、その経緯が分からないことまで直接的に語られると、最後の文の説明臭さも相まって、好きな人とスイカ割りをして、でもどういうわけか違う人と寝て、その人と結婚して、だけどスイカを見るとかつての想い人が浮かんできて胸が高鳴って、その想い人を考えながら妻を抱く人の話、という、一連の情報だけしか読後に残らず、肌に迫ってくるものがまるでないという状態になってしまいます。上記の「経緯はわからない。」のところは心理描写だと判断しています。

 4.基礎的文章力。
 重要なところが説明的なので、肌に迫ってくるものがないことはすでに述べました。多くの場合、説明は情報の伝達に過ぎません。描写と比べると、説明文はどうしたって貧弱です。

「左手には大袈裟に燃える花火。」という部分は、何とかには何とか、という形であり、かつ体言止めなので、やはり説明っぽさが出ています。体言止めも、使い方によっては説明臭さが露骨に出ます。この掌編では、ほかの説明的な表現の存在と、回顧という形式が重なって、体言止めが、完全に説明にしか見えませんでした。そうなると、感じられるものが減衰します。

 また、「ただ一つある鮮明な夏の記憶は、映画のように途中から始まる。」の「映画のように」という形容は、抽象的です。どんな映画のようなのかがまず不明です。洋画でしょうか。邦画でしょうか。映画にもたくさんあります。そもそも、映画と途中から始まることの関連性も、いまいちピンときません。掌編に映画感を羽織らせる、ただそれだけのためだけに置かれてあるように見えました。あるいは、物語をただ導入するためだけのものにも見えました。しかも説明的文章なので、ふむふむ、とか、へぇ、とか、ふぅん、とか、そういったものしか芽生えません。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「夏はぼく自身で、」という解説的表現が、「正面に夏が突っ立って黙ってぼくを見ていた。」という文章から色を奪っています。補足するような表現は、その補足されたものを、粉々に砕いてしまうことがあります。表現にあった広がりや深み、質感が、あっさりと奪われることがあります。その、「夏はぼく自身で」あることは、描写で表現してほしかったように思います。

 結局、割れたスイカとそれに関係ある動きや外形の描写だけが、空気感を確かに漂わせているものの、あとのすべての説明的な文章が、掌編の生々しさや性的な色を、すべて削いでいるように感じます。説明ではなく、描写で多くを伝えてほしかったです。特に経緯が不明なところと、「伴侶となったアキコの裸にあのコの顔を強引に重ねて果てる」ところ。この最後の文章が、ただの説明ないし設定、あるいは掌編の核の解説に見えてしまうところが、一番の問題のようにも思います。説明を受けるという形で終わってしまうので、そうなんだ、そういう「話」なんだ、という想いしか、読後残りませんでした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 生々しさや性的なにおいが完全に殺されてしまっているので、どうにも物足りなかったです。夏の粘っこさや、アキコを抱くときの生臭さなどはおよそなく、ただただ情報だけが伝わってくる、立体感と息遣いの感じられない掌編でした。スイカに関する描写にはべたつきがあるので、最後まで描写してほしかったと思います。アキコにあのコを重ねて抱くところなどは特に。そうでないと、最後に残るのが情報だけになってしまい、情報に、スイカなどの描写がすべて上書きされてしまって、この掌編でないと感じられないものが、読後ゼロになってしまいます。

 また、『夏の記憶』という題名なのですから、もっと狂ったように描かれてあってもよかったのではないでしょうか。核となるものの生々しさに比べると、表現が大人しいように感じます。

 総評。
 肝心なところが説明的表現であったことが、この掌編から生々しさを奪っています。スイカに関する部分は描写なのに、肝である最後の一文などはただの説明なので、それまでに蒔いてきたものが、芽吹くことなく埋もれてしまっています。「映画はここで終わる。」という表現の直後に、掌編の核となるものを説明するような一文がありますが、映画が終わった瞬間にその映画の解説をされてしまったら、余韻に一切浸れません。


●47 グエン 『❝G❞から❝A❞までの道』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 書かれ方は一貫していますが、「都合よく」とあったりして、基本的にはすべてがご都合主義的です。「おれにしか見えない悪魔」がいるので別に構わないのですが、何もかもが軽く感じられました。表現が浮いているので、迫ってくるものがありません。ここで減点はしませんが、ほかのあらゆる項目で響いています。都合のいいことを「都合よく」と表現してしまったら、すべてが白ける可能性があります。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「無理も無い、自分の相棒が正門の鉄柵に串刺しにされていたとあっては。」が顕著ですが、描写された動きや感覚の、説明ないし解説になっている文章、表現が散見されました。一人称であるにも関わらず、掌編全体が完全に説明的です。その結果、描写からは色が奪われ、肌に迫ってくるものがありませんでした。「この瓶で殺して、串刺しの死体を天高く掲げるのが亡き友の流儀だった。」も同様です。こういった情報を、描写のなかに落とし込んでほしかったように思います。そうでないと、ただ設定を読んでいるだけになってしまいます。明確な設定がある掌編なので、特に。動きの描写自体は硬く、速さもあるので、設定の公開ではなく描写がもっとあれば、という味気なさを感じました。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「残された最後の欲求が限界まで膨らんでいるのを感じていた。」が五感による細緻な描写であったら、と思いました。想像もできますし、いろいろと伝わってはくるのですが、どうにも薄味です。具体的にどんなふうに感じていたのか、もっと生々しく描かれてあれば、表現に肉体が用いられてあれば、作中人物の内面がより香ってきたように感じます。基本的に、設定の羅列や説明なので、伝わってくるものが極めて薄いです。言いたいことはその一点に尽きます。無機質な人間を描いているのかもしれませんが、その無機質さは、作中人物から香ってくるというよりは、表現の無機質さから、色のなさから漂ってくるもののように感じます。語り手が、無機質な「人間」ではなく、無機質な記号にしか感じられませんでした。

 4.基礎的文章力。
「おれは死の淵から這い上がる代償に自分の感情を、殺し屋を始末する膂力の代償に他人の感情を察する機能を悪魔に差し出していたからだ。」という表現を中心に、文章の大半が説明ないし作中人物が持っている設定の公開なので、どうにも文章に入り込めませんでした。個々の動きなどに、こういった設定を落とし込んでほしかったと思います。そうでないと、へぇ、とか、ふむふむ、とか、そういった頷きしか湧いてこず、ほかに何も残りません。そして、設定だけを単体で見せられても、およそ記憶に残りません。

 冒頭の、「とうに夜半は過ぎた。」は「とうに」という三文字が原因で、同じく説明になっています。夜半が過ぎたことは、周囲にあるものや仕草など、何らかのものを描写するという形で伝えてほしかったです。そうでないと、そうなんだ、という印象しか残りません。書き出しは表現の肝ですから、ここが説明だと、基本的には表現に入っていけません。

 また、「この感覚をも手放す日が、いつか来るだろうという予感だけがおれの胸中にあった。」は直接的な心理描写に見えました。その予感がある結果として肉体に生じている何かを、描写してほしかったように思います。ここは心理描写だと判断しました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。

 すでに述べていますが、およそ大部分が説明と解説なので、雰囲気がありません。設定なり動きなりが持っている空気感それ自体は独特で、色もあるように思いますが、作品自体の色彩は、どうにも薄いです。平易な表現も、設定や起きている出来事に比べると、どこか頼りない、あるいは大人しいように感じます。もっと荒々しく、動きを見せてほしかったと思います。あるいは作中人物の無機質さでも構いません。それをより乱暴な形で、こちらの眼前に突きつけてほしかったように思います。言いたいこと、感じたことの大半は、これに尽きます。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 説明がなければ、といったところでしょうか。もはや設定集の一ページにしか見えず、そもそも設定は、作中人物に惹かれて初めて意味を持つものであって、語り手が無機質な人間(存在)にすら見えない以上、設定を見ても、およそ感じられるものがありませんでした。もっと動きや音、においに触れたかったように思います。無機質な「人間」を、見せてほしかったです。

 総評。

 およそ説明しかないので、伝わってくるものがありませんでした。描写がほしいです。説明をただされても、そうなんだ、という気持ちしか、基本的には残りませんし、設定を公開されても、肌に迫ってくるものがありません。その説明された情報と公開された設定の落とし込まれた文章で、すべてが編まれてあれば、と感じました。やはり物足りないです。

●48 辞退

 みなさんへ。48番目に受けつけた該当作品がマガジンから外れており、なぜだろうと思って追加しようとしたところ、ブロックされているため追加できないという旨の表示が出ました。作者の方がこちらをブロックされたようです。ご連絡などは一切ありませんでしたが、作者の方がこちらをブロックされたという事実から、辞退なさったと判断しました。ご理解いただければと思います。

●49 たゆ・たうひと 『祖父の想いで』

 ほかの応募者の方、並びに読者の方へ。この作品は締切後に提出されていますが、作者の方から事前にご連絡、ご相談があったこと、また締切後一時間も経たずに投稿があったことから、応募作として受理しています。ご理解いただければと思います。よろしくお願いします。


 冒頭の描写は丁寧なのですが、全体を通して、細かな心理描写が散見されました。結果、採点に支障が生じ、評は書きましたが、今回は無評価という扱いになります。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 文章の多くが説明的、ないし心理的表現で、書かれ方は一貫しているように思いました。また夢のことなので、起こっている出来事に関しても、気になる部分はありませんでした。ただ、表現が少し大人しすぎるような気もします。核となっているものに比べると、文章がどこか冷静です。表現が説明的なことが、その一因のように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 夢のなかでありながら、表現自体は平易です。もっと狂ったような表現のほうが、夢のなかという香りが、濃くなったかもしれません。確かに「家の中は橙色の裸電球でも暗く、まるで停電の蝋燭のような儚い灯りの中にいた。なのに、奥の襖を開けると途端に明るく、日が照っていて眩しいくらいの夏が覗いた。」や「壁を透かして見ているような、そんな映像が目の前に、とにかく眩しく、照明を間違えて調節したような、目を開けていられないくらいの光で、慣れると見慣れた家の外の景色だった。」など、印象的な描写もあります。ですが、「それは夢だと解っていた。」と、書き出しからしてすでに説明的であることと、そのあと、「それが夢なのだと解った。」と再び強調された結果、まさに夢であることが直接的に伝達され、結果として、夢っぽさが消えてしまっています。夢自体を徹底的に描写するという形で、それが夢なのだと気づかせてほしかったように思います。そのほうが生々しいですし、表現がより肌に迫ってきます。仮に夢だと明言するにしても、夢自体の描写は、全体を通してより細緻であってほしかったように思います。そうでないと、すべてがただの説明で終わってしまいかねません。そういう夢を見たときのお話だったんですね、で終わってしまいかねません。

「家の中は橙色の裸電球でも暗く、まるで停電の蝋燭のような儚い灯りの中にいた。なのに、奥の襖を開けると途端に明るく、日が照っていて眩しいくらいの夏が覗いた。」には特に惹かれました。ただ、「なのに」という接続の仕方が、どうにも説明的です。細かい部分ですが、こういった些細なところから、文章の相貌はがらりと変わってしまうように思います。実際、魅力的な表現であるにも関わらず、その輝きが減衰しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 およそ掌編の核であるものが、すべて説明的、解説的な形で磨かれていました。

「私は母に夢の話をし、同時に私を「姉貴」と呼んだ人物が誰か解った。数年前、自ら自分の余命を決めた5つ下の従兄弟だった。」というところや、「亡くなった祖父だった。」がそれです。たとえば祖父であることは、呼び方なり容姿の描写なり、あるいは蘇った想い出を細緻に描写するなり、そういった形で表現してほしかったように思います。そうでないと、伝わってくるものがありません。こういった説明、解説が原因で、「目が覚めた。心臓がドキドキしている。」といった形で表現された、語り手の胸のざわつきは、音としてまるで伝わってこず、祖父らと対面した瞬間の、語り手の心情もまた、極めておぼろげでした。祖父や従兄弟という存在がまるで見えてこないので、語り手に、文章に、何より夢に、置いていかれてしまいました。

 また「慌てて辺りを見回すと、引っ越し間もない新居のベッドの上だった。」は「慌てて」という心理描写的表現が原因で、慌てている感が薄いです。重要なところに見えるので、もっと細かく描写してほしかったように思います。たとえば、首をあちこちへ捻っているほうが、あるいは視界が揺らめいているほうが、慌てている感じは肌に伝わってきます。どう書いてもいいのですが、とにかく説明ではなく描写であればと思いました。上記の「慌てて」は心理描写だと判断しています。

 4.基礎的文章力。
 説明的な表現が多いことが気になりました。理由はほかの項目で述べています。

 また、心理描写的な表現が散見されました。基準上、作品を無評価とせざるを得ないほどでした。

 たとえば、「なぜかそれには従わねばならないと思い、」や「目が覚めて、今のはなんだったのかと考える。久しぶりに母の実家を訪れ、妙な夢を見たと思うだけだった。」は完全に思ったことで、心の描写です。「それともこれは白昼夢。」は、体言止めと、その前の文章の独白的なにおいが原因で、完全に内側の語りに見えました。

 また「いったいどこだったのか…。」は、「…」が、心理描写的においを醸し出しています。「夢の中で、夢を見ていた…?」の「…?」も同様です。こういった細かな表現が原因で、掌編全体が、もはや完全な独白、心の直接的なつぶやきにしか見えなくなってしまいました。

「でも『姉貴』と呼ばれることに違和感はなかった。」の「違和感はなかった。」も、心理描写的な語りです。違和感のないことを、瞳の感覚や心音、息遣いで見せてほしかったです。「慌てて辺りを見回すと、引っ越し間もない新居のベッドの上だった。」の「慌てて」は、すでに述べましたが、直接的な心理表現に見えます。それを動きで表現してほしかったように思います。「バツが悪そうに肩をすくめるその人は、」の「バツが悪そうに」もそうです。肩をすくめるその仕草をより細緻に描くことで、伝えてほしかった事柄です。そうでないと、どの表現からも、およそ伝わってくるものが、極めて薄味になってしまいます。語り手の内側が見えてきません。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「同時に私を『姉貴』と呼んだ人物が誰か解った。数年前、自ら自分の余命を決めた5つ下の従兄弟だった。」や「今の私は自分の実家にすら住んでいない。」、「眩い光の中のあの人たちは、見たことはなくとも、確かに皆、知っている顔ぶれだった。そう皆、墓標に刻まれている人たちばかりだった。」など、掌編の肝がすべて説明、解説なので、前半にある描写、「家の中は橙色の裸電球でも暗く、まるで停電の蝋燭のような儚い灯りの中にいた。なのに、奥の襖を開けると途端に明るく、日が照っていて眩しいくらいの夏が覗いた。」や「壁を透かして見ているような、そんな映像が目の前に、とにかく眩しく、照明を間違えて調節したような、目を開けていられないくらいの光で、慣れると見慣れた家の外の景色だった。」という部分から得られていた色艶、「感じ」が、すべて色あせてしまっています。また心理的な語りが、個々の行動や自然描写に、べったりと色をつけてしまっています。情報は、内面は、描写に落とし込んで伝えてほしかったように思います。細部から、何より肝から香りが漂ってこないので、雰囲気がどうしても弱いです。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 説明が中心なので、迫ってくる「何か」がありませんでした。描写がない夢の話は、聞いていても肌に迫ってきにくいように思います。読んでいて、そうなんだ、とか、ほうほう、とか、そういった声ばかりが芽吹きました。こちらは語り手ではないので、ただ祖父が降りてきたとだけ言われても、感じられるものがありません。その祖父を、こちらは一切知らないからです。祖父を見た語り手の内側も伝わってきません。祖父がどう降りてきたのか、どのような容姿で、見た瞬間にどんな感覚に襲われたのか。そういったことが細緻に描写されていないと、語り手が、その夢を見た人間に見えてきません。生きた人間だと感じられません。『祖父の想いで』という題名が示している核にも触れられません。

 もちろん、自らの祖父をイメージし、語り手を自らに置き換え、補完しながら読むことは十分可能ですが、その場合、この掌編の語り手と祖父は消滅します。今回、語り手という存在を、作中人物という存在を、特に重視しています。だからこそ、語り手が感じたもの、見たものを、もっともっと描写してほしかったです。そしてその語り手の感覚を通して、掌編の核となっているものを、見せてほしかったように思います。

 総評。
 仮にすべてが描写なら、夢という舞台も相まって、生々しい掌編であったように思います。夢の話でもあるので、すべてが説明調だと、ほうほう、みたいな感覚が根強く残ってしまいます。その夢を見たときの語り手の感覚に、もっと迫りたかったです。表現はもっと乱れていても、あるいは狂気的でもよかったように思います。より抽象的でもいいように思います。強烈な夢が核となっているわりに、表現がこじんまりとしていました。説明や解説、心のつぶやきそのままという表現群が、小さくまとまっている原因のように思います。確かに、文章はとても読みやすいのですが、夢の色彩がどうしても滴ってこないので、もどかしかったです。前半のような細緻な描写で、ほぼすべてを編んでほしかったように思います。最初の辺りの光の描写には、色艶が確かにあったので。


 みなさんへ。
 評は以上となります。
 近日中に、全体の総評とともに、結果発表を行います。
 最後までよろしくお願いします。

読んでいただき、ありがとうございました。