「原稿用紙二枚分の感覚」 評41〜45

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。


●41 優雨 『「K」の空間』

 作者の方、並びに評をご覧になっている方へ。この作品は、投稿後に文章が修正されました。今回、どの作品も、投稿された直後の文章を元に評(感想)を書き、採点しています。そうでないと、評をお返しする順番の都合上、締切終盤に投稿された方が有利になってしまうからです。作品が修正されるたびにこちらの評や採点を変更してしまうと、序盤の方の評を見て修正すれば、点数を底上げできる可能性が出てくる、ということです。そのため評と、現在の作品の表現とのあいだに齟齬が生まれておりますが、ご了承ください。応募要項にも「応募後に手直しされた場合、手直し前の文章で評価されている可能性があります。」と記載しておりましたので、ご理解いただければと思います。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。 
 少し駆けるような速さで進んでいく文章の調子は、最後まで一定のように感じます。気になるような破綻などもありませんでした。描写は細かく、にも関わらずどこか曖昧な感じが漂っており、最初の「K」でその場所がどこか分からなかった場合、その不可思議さ、奇妙さは、一層増すような気がします。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 擬音が目立っていますが、空間の不可思議さは、形のなさは、どろりとした感じは、描写全体から伝わってきます。個々の表現は平易です。全体として見れば暗さや湿っぽさもあり、もう少しそれぞれの表現に起伏があってもいいのかな、という感じは持ちました。そのほうが、核となっている空間の異質さが、より際立つように感じます。

 すでに述べましたが、「K」の意味することに気づかなかった場合、掌編全体に深みが生まれます。ここは何なのだろう。いったいどこなんだろう。何かの比喩なのかな。そういった感じです。逆に気づいた場合、描写の細かさが現地の空気感を生み、読み手のかつて訪ねた記憶ないし知識としての映像が、呼び起こされるのではないでしょうか。いずれにしても、「K」の存在感と文章総体のどこか曖昧な編まれ方が、全体に冷たさと温かさをもたらしているように感じます。個々の表現というよりも、掌編全体の質感に惹かれる、そんな小説のように思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「徐々に光がなくなって、空間が冷えていく。べとついた汗も引いていく。バックパックから長袖シャツをサッと羽織る。指が円の輪郭と穴から飛び出した糸を捉えた。」という表現があったりと、描写自体は細かいので、伝わってくるものはそれなりにあります。作中人物の目や耳の動きは、作中人物が空間から受け取ったものを、よく滴らせていると思います。

(注:該当箇所が、「徐々に光がなくなって、空間ますます冷えていく。べとつく汗も引いていく。バックパックから長袖シャツを取り出して。さっと羽織って小慣れた手つきでボタンを留めるとあったかい。」に変わっていました。「小慣れた」という曖昧な表現に変わっており、以前のほうが描写が細緻であったように思います。採点上、影響はありませんが。)

 ただ、カフカのミュージアムでした、という露骨な解説が最後にあることと、表現自体は平易なので、色彩がどうしても薄いです。たとえば、「ショーケースの中には本、イラスト、日記。全て黄ばんでいる。」というところ。本や日記などは、もっともっと具体的に、かつ起伏のある表現で描写されてあったほうが、作中人物の好奇心なり対象への想いなりカフカへの畏怖なりが、より伝わってきたように思います。重要な場所、特にカフカの存在がより濃くなったと語り手が感じた空間、ないし小物が、より丁寧に描かれてあったら、作中人物の内面も、より感じられただろうと思います。

(注:該当箇所が、「ショーケースの中、本、手記、日記。年月経って黄ばんでる。」に変わっていました。「年月の経っていることは黄ばみから分かる情報なので、いなくてもいい言葉のように感じます)


 4.基礎的文章力。
 すでに述べましたが、表現が細かいわりに部分部分が曖昧なので、特に重要であろうもの、ないし空間は、特に細緻に描写されてあってほしかったように思います。そのほうが、空間の異質性が際立つように思います。

 たとえば、「不協和音」という表現がありましたが、どんな感じなのかより具体的に描写されていないと、伝わってくるものが薄いです。不協和音にもいろいろあります。擬音が何度も用いられるなど、掌編を通して、音にはよく注目がいっているので、不協和音なるものの描写が「不協和音」だと、どうしても抽象的で、どこか浮いているような気がします。もう少し細かく、語り手の聴こえた通りに、その音に触れられたらと思いました。空間を、語り手が感じた通りに、より微細なところまで見せてほしかったように思います。空間を細緻に描写するという形で、まさにその空間全体の曖昧さを、奇妙さを、抽象性を、際立たせてほしかったです。そのほうが、空間により引き込まれ、肌に迫ってくるものも増えたように思います。題名にもあるように、「空間」はこの掌編の肝のはずです。その肝の表現に緩さがある場合、基本的には気になります。

 また、最後の最後で「『フランツ・カフカミュージアム』さようなら。」と、どんなところにいたのか解説されてしまいました。結果、湿っぽさを持っていた文章から、その色が失われています。最初の「K」でそこがどこか分からなかった場合だと、その解説的文章を読む前後で、文章全体の艶感ががらりと変わります。奇妙さ、奇怪さ、不可思議さ。そういった言葉で形容できそうなぞわぞわ感は、解説されると消えてしまいます。へぇ、とか、そうなんだ、とか、こんなところなんだ、という了解のほうが大きくなってしまうので。そういった部分は気になりました。また、「K」を見てそれがどこか気づいていた場合、解説的な文章を読んでも、うん知ってる、となるだけです。カフカのミュージアムだということは、「K」の時点で完全に示せています。最後に解説してしまうと、掌編の多様性や盛り上がりが奪われてしまうので、書かずにいたほうが、深みがあったように思います。

(注:該当箇所が「プラハ『フランツ・カフカミュージアム』さようなら。」に変わっていました。プラハという情報は、カフカ・ミュージアムという名詞にすでに含まれているものなので、必要ないように感じます)


 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「フランス語。」というただの説明がありました。そのフランス語が具体的にどう聞こえたのかを、どんなふうだったのかを描写しないと、本当にただの説明になってしまいます。細かいところですが、こういった細部の描写が甘いと、全体の空気感や「感じ」が損なわれがちです。

(注:該当部分が「呪文が聞こえた。フランス語。」に変わっていましたが、呪文が聞こえたのなら、それがどんなふうに聞こえたのかを描写してほしかったです。「フランス語」が、ますます説明臭く見えました。呪文という表現から色艶が奪われています)

「チェコの生ぬるい風、石の街道はボコボコ。」の「チェコの」も同じく説明的です。この掌編の場合、どこにいるかは冒頭の「K」か、最後の「さようなら」のどちらかで分かるので、わざわざ「チェコの」という言葉が置かれてあると、どうしても説明のにおいがしてきます。ただの説明は、空気感を損ねることがあります。また、「K」の意味に気づかなかった場合、「チェコ」とあると、それまでの奇妙さなり不思議さなりがすべて奪われてしまい、漂っていた「感じ」が消えてしまいます。

(注:該当箇所が、「生ぬるい風で汗がにじむ。」に変わっており、「チェコ」という表現はなくなっていましたが、提出直後の表現を基準として、今回は評価させていただきます。)

 また、すでに述べましたので詳細は割愛しますが、最後の解説的な一文もまた、雰囲気や「感じ」を乱しているように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 空間のどこか暗い感じや、作中人物の内面の盛り上がりなどは伝わってきますが、解説や説明的表現が原因で、迫ってくるものがどうしても薄かったように感じます。肝心の部分がもっと細かく、徹底的に描写されてあれば、と思います。

 総評。
 最後に、明確な形で場所が明かされていることが、色のあせている原因のような気がします。最初の「K」で気づいた場合でも、最後まで気づかなかった場合でも、終わり際に、直接的な形で名称、施設名、地名などが置かれてあると、掌編の印象ががらりと変わります。すでに述べましたが、最初の段階で気づいていた場合は、知ってる、そうだね、そうそう、という頷きが、最後の最後に残ってしまい、それまで感じていた雰囲気が上書きされ、了解にすべてが呑まれてしまいます。気づいていなかった場合、ここはいったい何なんだろうという形で得られていた広がりが、一気に奪われてしまいます。場所を直接的に明かす場合、気を配らないとすべてが台無しになってしまう可能性があります。また、表現(描写)自体には湿っぽさがあったので、その湿っぽさがもっと香っていれば、という物足りなさも覚えました。

 ちなみに、修正後の文章はリズム感が劇的に変わっており、その独特の音色は、読んでいて心地よかったです。採点には関係していませんが、とても惹かれました。

●42 虎馬鹿子 『おもいで』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 具体的かつ抽象的という独特な書かれ方で、最後まで描写されています。場面転換もありますが、表現の底を流れているものには統一性を感じます。気になるような偶然性もありませんでした。ですが、問題作、という印象を強く抱きました。詳細は後述します。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 個々の表現自体は極めて平易で、かつ圧倒的な抽象性があちこちからにじんでいます。そして、語り手が幼い子ども(『おもいで』という題なので、正確には、描写されている出来事を思い出している幾ばくか成長した子ども、ないし子どものときの気持ちで綴っている大人でしょうか。いずれにせよ、題と文体から、今回は、多かれ少なかれ成長した子どもないし大人と判断して読んでいます)なので、そういった抽象性やおよそ簡易な表現も、一切違和感がありません。文体と語り手がおよそ完全に一致しているので、すべてが自然に見え、個々の文章にも異質性が宿り、表現全体に求心力がありました。その抽象性と不明解さには心奪われました。「『ちょこれーとだ』」と「わたしが言った。」という最後の表現には、特に惹かれました。陰部を触られる描写や、性的な比喩表現に見える前半部分は特に禍々しく、そういった個々の異質な表現が、ほかのやわらかい表現だけでなく、掌編それ自体を、異様なものにしています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「閉じたまぶたがぶわっと熱くふくれる。涙があふれた。」という描写や、先ほど引用した最後の文章など、表現から、語り手の内側が、鮮明に漂ってきます。「たっくん、えっちだからとなりやだ!」というところからは、語り手と女の子の内面の差もにじんでいます。作中人物の容姿に関する描写は極めて曖昧で、総体としては圧倒的に不透明な掌編ですが、そこから滴ってくるものからは、どこか透明感も感じられます。題材には重量がありますが、掌編の核となるものに表現が負けていないので、感じられるものが多いです。また、すでに少し触れましたが、「小さい白い指が一本、めりめりと土にくい込みながら、しみの下へと沈む。ゆっくりとぐるり、ほじった。そっとつまみ上げて、手のひらに乗せる。顔のまん前に、つき出された。」の辺りが、性的な比喩表現に見えることも、表現が分厚く感じる理由です。重たい核がじわりと、こちらの肌ににじり寄ってくるような、そんな感じがします。

 4.基礎的文章力。
 語り手が子ども(のときの心情で満ちている大人)であり、かつ文体が極めて自然なので(言葉がやわらかいので)、およそ一切の抽象的表現と簡素な文章群、説明調に、違和感がありません。

 また、抽象的であるにも関わらず、陰部を触られる瞬間は非常に生々しいです。語り手が子ども(ないし当時の心情の蘇っている大人)であること、またそれまでの個々の描写に丸みと透明さと濁りのあったことが、それを増幅させているように感じます。

 ちなみに、空行を利用するという形で場面転換が行われているところがありますが、まったく気になりませんでした。気にならないのは、一人称であること、そして何より、語り手と文体がまさに一致しているからではないでしょうか。語られる部分が飛び飛びで曖昧なことも、『おもいで』という核と表現が、よく混ざり合っているように感じる理由です。
 
 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 描写全体に淡さと不透明さがあり、それが結果として、全体の空気感、ないし嘔吐感を生んでいるように思います。仮に陰部を触られる瞬間がもっと細緻に描かれていた場合、すべてが壊れていたと思います。どこまで表現するかは非常に難しい問題ですが、語り手に合った表現が、まさに「感じ」を漂わせています。

 ただ、「じんわりと、ふっくらと、縁から盛り上がり、縁から剥がれそうで、かさぶたみたいに。」の「剥がれそうで」が漢字なので、字面が少しごついです。「涙」なども同様です。全体の表現が丸っこく抽象的なので、これらはひらがなのほうがよかったように思います。ほかの漢字群に対しても、ひらがなにひらいたほうがいいのでは、と感じるところもありましたが、もはや好みの問題だと思い、減点などはしていません。題が『おもいで』であることが大きいです。当時を思い出している大人だと捉えれば、若干圧の強い漢字群や表現群(たとえば、「腰を折って、目をしみに近付けた。」の「腰を折って」は言い方が少し硬いです)は気にならなくなりますし、幾ばくか成長した子どもだと捉えても、そこまで不思議ではありません。画数の多い漢字や、多少硬い表現を用いる子どもを想定することは、十分可能だからです。列車や自動車に詳しい子どもたちがいるように、漢字や表現をよく知っている(巧みに使える)子どもがいると想定することは、おかしなことではないはずです。ましてや語り手の年齢(思い出している時点の年齢)は明かされていません。全体を通して、どこか内気で真面目な人のようにも感じられますから、普段から本によく親しんでおり、字に詳しいんだと(言葉で表現することが得意なんだと)、そんなふうに考えても、何ら問題ありません。このように、語り手の背景を想像できることもまた、雰囲気、「感じ」を濃くしているように思います。広がり、深みがあります。題名と、表現の抽象性が生きている掌編のように感じました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 生々しさが異常で、胸がざわつき、首から上が熱くなる掌編でした。だからこそ、何度も読み返したいと思いました。迫ってくる嘔吐感と性的なにおいは異常で、掌編の核となるものが、表現によってぎらり、どろりと瞬いているように感じます。重たい題材がまさにまっすぐ示されていて、考えさせられることの多い、感じられるものの多い掌編でした。かのちゃんが生きていました。

 総評。
 問題作でした。個々の表現はおよそ抽象的で、にも関わらず重要な自然描写はしっかりとしており、掌編の核となっているまさぐられる部分もまた、細かくはないにも関わらず異様なほど生々しく、作中人物の内面が、要所要所に、怖いほど浮き出ていました。語り手が語り手として完全に息をしていました。多くの表現に惹かれました。「じんわりと、ふっくらと、縁から盛り上がり、縁から剥がれそうで、かさぶたみたいに。」は表現が濡れているだけでなく、音がいいです。最後の「ちょこれーとだ」と「わたしが言った。」も、語り手の見えない内側が、恐ろしいほど迫ってきました。前半部分の、性的な比喩表現にも感じられる描写が生きているからこそです。全体を通して、やわらかい表現であるにも関わらず、ずっしりとした題材にそれが負けていないのは、語り手の感じ方に、確かに触れられるからです。息をしている人間の言葉でした。だからこそ、強く強く惹かれました。ほかに言うべきことがないほど。


●43 白庭ヨウ 『葉桜の季節から』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 説明調ではあるものの、全体的にしっとりとした文章のように感じます。総体は比喩的で、蒼い色が見えてくるようです。文体が、個性的な少女とよく混ざり合っていて、最初から最後まで、まさに一直線に駆け抜けていくような、そんな文章のように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「彼女はみんなに教えて回る。ジャングルジムをよじ登って、ブランコに揺られて、すべり台で転がって、大声を出して、あるいは『秘密だよ』と耳元で囁いた。」という表現を中心に、文章の多くから、温かいにおいが香ってきます。少女の個性、内面の温もりにも触れられます。「『ピンクは茶色にも、なるんだね』」という台詞にはとりわけ胸が高鳴りました。ただ、説明のにおいがどうしても気になりました。多くの描写がさわやかで、かつ艷やかだったので、余計に。たとえば「少女はみんなの注目の的だ。」というところ。そう書かなくても、少女の個々の動きだけで、十分伝えられたはずです。実際、ほかの表現を読めば、注目の的であろうことは確かに伝わってきます。冒頭の「五月晴れ、」というところも同様です。説明的な表現が少なければ、もっともっと、文章が持っていた緑の香気が濃くなったように思います。「『ピンクは茶色にも、なるんだね』」という表現は特に惹かれたので、加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「彼女はみんなに教えて回る。」や「『ピンクは茶色にも、なるんだね』」、「少女は鼻をふくらませて何度もまばたきをした。それから何度もその場で跳ねて言った。」というところを中心に、少女という存在の内側が、熱が、あちこちから色濃く伝わってきます。「もう片方の手で今まで動かなかった脚をぎゅっとつねって。」という辺りからは、男の子の心が香っています。少女という存在以外の人物に関する表現は少ないですが、それでも、作中人物の多くから、その内側がしっとりと流れてきます。「夏が、来るんじゃなあ」という台詞が生きた声に聴こえるのは、表現全体の色艶がいいからです。その結果として、掌編の核が輝いているからです。

 ただ、説明のにおいが、それらの香気を薄めてしまっているように感じます。たとえば、「それは泥汚れの土臭さと彼女が踏みしめた雑草の青臭さがする。」というところ。「それは」とあるせいで、その前の一文と「それは」の後ろが、どこか説明調になっており、表現の輝きが若干ではあるものの、弱まっているように感じます。些細なところですが、ほんの数文字で文章の相貌はがらりと変わるものです。掌編の核となっているものや、表現全体からは、確かな色彩が感じられるので、細かいところまで丁寧に編まれていてほしかったように思います。そのほうが、掌編の息遣いが、より濃く聴こえてきたように感じます。

 4.基礎的文章力。
 先も述べましたが、どうにも説明的なところが気にかかりました。「五月晴れ、乾いた陽気に人誘われて公園には幾組かの家族連れがある。」は「五月晴れ、」という説明的表現があることで、説明らしさが出てしまっているように思います。天候は描写か、表現全体で示されてあったほうが、より肌で感じられるような気がします。

 それから、「幾組かの家族連れが」という表現は抽象的なので、一文全体が説明臭くなっています。「家族連れ」という言い方で家族連れを表現するのではなく、ベビーカーなりブルーシートなり子どもなり犬なりゴムボールなりを描写するという形で、その家族連れを表現してほしかったように思います。そうでないと、冒頭から説明調になってしまい、ふむふむ、みたいな印象しか芽生えません。書き出しである「うん。新緑だね。五月だね」という個性的な台詞からも、色が奪われてしまっています。公園は掌編全体の舞台であり、かつほかの描写が丁寧なので、こういった形でふわふわ浮いていると目立ちます。説明的な表現がなければ、表現全体の蒼さは、より増したはずです。全体の色彩には確かに強く惹かれるので。そういった、表現全体の温もりある色艶は魅力的なので、加点しています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 繰り返しになりますが、説明的な表現によって、「感じ」が若干薄くなってしまっています。細部まできめ細やかであれば、描写が丁寧であれば、総体がより鮮やかになったと思います。再び例を挙げれば、「神様の霧吹きがほんのりそこに加わって。つまり、にわか雨。」の「つまり、」という説明的な表現は、やわらかく暖かく、それでいて個性的な、文章の湿っぽさを弱めてしまっています。「神様の霧吹き」という艶のある表現から、水分が奪われてしまっています。それがにわか雨であることを説明する必要性も感じないので、余計に。個性的な表現は、解説されてしまうと、その色艶が朽ちてしまいます。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 説明的な表現が気になり、もっと表現が濃ければ、とは感じますが、それでも、少女の温もりや、作中に登場する人々の淡い呼気などに、繰り返し触れたいと思いました。掌編総体が比喩的なこともあって、文章全体に膨らみも感じます。読んでぽかぽかするということはつまり、この作品に、惹かれる「何か」が確かに存在しているということです。まさに命、自然という存在に触れられる、そんな掌編だったように思います。

 総評。
 細部が多少気になったものの、個々の表現はまさに息づいているように感じます。蒼い空気感は確かに強く感じられるので、もっともっと粘っこく色が滴っていれば、と思います。落ち着きがあって、それでいて勢いのある文章は、読んでいて心地よかったです。「彼女が横切るとみんな目を閉じてその匂いを嗅いだ。」とありましたが、自分もまさにその一人でした。個性的で、魅力あふれる掌編です。


●44 杉本しほ 『海底に、月』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 おとぎ話のような語りで最後まで構成されています。大きな波に呑まれたり、粉々になったりと、物語を進行させるためだけに存在している偶然性も見受けられますが、おとぎ話的な書かれ方なので、特に気にはなりませんでした。全体的にしっとりとしているように感じられるのは、表現がやわらかいことと、語彙の丸っこさ、語りの穏やかさが理由だと思います。いずれにしても、読みやすい文章であることに変わりはありません。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 用いられている語彙は平易であり、表現はなめらかで、かつ平らです。おとぎ話的な構成と説明調がそこに重なって、読みやすさが生まれています。光の描写は確かにやわらかく丁寧で、個人的に、こういった文章はとても好きですが、ただただやわらかく丁寧なだけ、という印象が強いです。おとぎ話のような紡がれ方であったとしても、もう少し細かな描写がほしいです。ただ説明されているだけ、という感覚から、最後まで逃れられませんでした。文体がやわらかくおとぎ話的なので、読み聞かせという形で触れれば、また違った輝き方をする掌編のようにも思います。人の声で触れたい掌編です。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。 
「『みんなには怒られるけど、これを見ないと眠れないのよね』」という独り言的な解説が、人魚の行動から滴っている心情を薄めています。「見ないと眠れない」ことを、行動なり五感なりで示してほしかったです。そうでないと、伝わってくるものが弱くなってしまいます。何よりこの台詞は、掌編前半部分の人魚の行動の、あるいは心情の、完全な解説になっており、これがあるせいで、深く文章に浸れません。へぇ、とか、そうなんだ、といった声が芽生えてしまいます。解説的な表現は、基本的には淡白です。ましてや肝である行動を解説されてしまうと、そうだったんだ、そうなんだね、という頷きで、表現すべてが覆われてしまいます。実際、この掌編に関しては、人魚の行動や自然描写から香っていたものが、解説によって薄まっています。

 そもそも、言い方が完全に説明臭いです。発言の内容以前の問題で、声が作りものにしか聴こえませんでした。「何とかだけど、何とかだから何とかする」という形式の独り言は、独り言として不自然です。「眠れな」とか「寝れん」とかなら自然ですが。引用したところのような独り言を発する人(存在)がいても、別に構わないのですが、表現全体が説明調であり、かつそのような独り言を描写する必要性も感じないので(見ないと眠れないことは行動で示せたはず)、あまりにも露骨に、説明感が出ています。要するに、人魚が声を発したのではなく、ただただ台詞を言わされているだけのように見えました。そのため、どうにも気になります。

 後述しますが、説明的な表現に関しても気になりました。それが原因で、人魚の内面の色が薄くなっています。

 4.基礎的文章力。
「―――いまもなお、海底で光り輝き続けている。」という説明調の文章、あるいは「『みんなには怒られるけど、これを見ないと眠れないのよね』」という解説的な文章を中心として、多くが説明ないし解説なので、どうしても全体の色合いが薄いです。同時に、抽象的な表現も目立ちました。

 たとえば書き出し。「毎日のように、深夜に目が覚める人魚がいた。辺りは暗く、さかな一匹も起きていない。落ち込んだ様子でため息をついている。」というところですが、「毎日のように、」という説明があるせいで、後ろに続く表現がすべて説明臭くなっています。また、「落ち込んだ様子で」というところも曖昧です。それを具体的に書かないと、心理の直接的表現に見えてしまいますし、何より落ち込んでいることが伝わってきにくいです。「落ち込んだ様子で」は心理描写だと判断しました。
「これを見て、安心したようにすやすやと眠りについたようだ。」の「安心したように」も同じです。こちらも心理描写と判断しました。

「人魚の三倍以上の大きな波がやってきた。」というところも、変に抽象的です。人魚の大きさが明かされておらず不明なので、厳密な意味で波の形容になっていません。それはXの三倍以上の大きさです、と言われても、いやそのXをまず教えて、となります。「最新のiPhoneって、あれよりも二回り大きいんだよ」と話しかけられても、あれって何、となるのと同じです。三倍以上と、変に具体性のある描写なので、どうしても引っかかりました。もちろん、大きな波、ということだけは、確かに伝わってはくるのですが。数字を示す必要があったでしょうか。数倍ではなく、わざわざ三倍とあるんだから、四倍以上じゃない、三倍以上四倍未満なんだ、だけど四倍も三倍以上に含まれてる、だったら結局大きさはどれくらいなんだろう。といった具合で、表現のせいで余計なことを考えてしまい、結果として、言葉に浸りきれません。具体的な数字を用いて形容すると、表現の勢いが衰えてしまう可能性があります。

「すると、金平糖をまぶしたような夜空に、満月が光り輝いている。」など、光の描写は比較的丁寧なので、抽象的な表現がどうしても気になります。すべてが抽象的ならまだいいのですが。むしろおとぎ話的な語られ方なので、全編を通して抽象的であったら、とも思います。そのほうが、より深みが感じられたかもしれません。

 ちなみにですが、「すると、金平糖をまぶしたような夜空に、満月が光り輝いている。」は「すると、」とあるせいで説明的です。せっかくの鮮やかな描写から、描写のにおいが奪われてしまっているように感じます。細かいかもしれませんが、細部が緩いとどうしても目につきます。文章自体が落ち着いていて、やわらかいので余計に。

また「すると、金平糖をまぶしたような夜空に、満月が光り輝いている。の海の中とは比べものにならない輝きだ。」の「の海の中」は明確な脱字ないし、「の」という本来は不要な文字が入り込んでいると判断しました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 説明的、または解説的な表現によって、雰囲気の多くは薄まってしまっています。たとえば、「だが、その努力も虚しく、どんどん流されて、上に上に行ってしまう。」の「その努力も虚しく、」というところ。その努力が虚しいことを、人魚の動きと波の描写によって表現してほしいです。そうでないと、どこか軽い文章に見えてしまいます。海や光が本来持っているはずの重さは、こういった説明的な文章によって、損なわれてしまっているように感じます。波の重圧感は見せてほしかったです。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 おとぎ話的で、多くの文章が説明的ということもあり、どうにも迫ってくるものがありませんでした。おとぎ話のような書き方を否定しているわけではありません。仮におとぎ話のように見える文体で描くにしても、重要な動作や風景の描写は、濃くあってほしかったように思います。そうでないと、『海底に、月』という題や、最後の辺りの文章に込められているものが、輝けません。

 また、変に抽象的な表現もあったりしたので、どうしても引っかかりが消えず、人魚の話のプロット、という印象が強いです。仮にこういった説明的な書き方でいくなら、それを無視させてくれる劇毒的な「何か」がほしいです。あるいはそれなりの文量が必須なように思います。それらが欠けているので、読後、残るものがどうしても少なかったです。

 総評。
 もっと人魚に関する描写が、あるいは波(自然)の表現が細緻であったら、というのが、言いたいことのすべてです。人魚の動作や自然描写から、人魚の内側があまり香ってこず、全体としてどうにも無機質で、息遣いや潮の香気が、表現からあまり漂ってきませんでした。もっと海が迫ってきてほしかったですし、波も立体的であってほしかったです。そうであれば、光もより淡く、かつ鋭くなったでしょうし、人魚の存在が、より肌に迫ってきたようにも思います。もっと人魚を、水を、光を、夜を、空気を、感じさせてほしかったです。せめて人魚のうろこくらいは、触れさせてほしかったです。

●45 鈴木ウタ 『水色スイマー』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 説明調という書かれ方で終始満たされており、文章には統一性があるように感じます。淡々とした、少し早いテンポの文章は、水泳という核となっているものに、よく合っていると思います。日常的な一瞬間が描かれており、気になる破綻などはありませんでした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 ところどころの描写が抽象的なことと、全体を通して説明的な書かれ方であること、そして表現自体は平らであることから、迫ってくるものが少なかったです。

 たとえば、「ゴーグルを通してみる水底は肉眼で見るのと妙に遠近感が違う。」という書き出し。「妙に遠近感が違う。」の「妙に」が具体的に描写されていないと、見えてくるものがありません。こちらでその妙さを完全に補完せざるを得ず、結果として、語り手の目に映ったものがすべて消えてしまっています。抽象性の高い表現は、描写を殺すことがあります。

 また「俺はクロールで五十メートルプールの中程まで息継ぎなしで泳ぐ。」など、「俺」という主語があるせいで、説明臭くなっている部分があります。一人称という書き方で主語がある場合、書き方によっては説明調に感じられるときがあります。今回はまさにそうでした。日本語は主語がなくてもある程度伝わる言語ですから、余計だと思われる主語は、どうしても目につきます。俺は俺はと言う必要があまり感じられませんでした。「水の泡立つ音と真っ青なプールの底だけに支配された世界で、俺は水を蹴る。」も、表現から、青さや冷たさ、あるいは水の硬さややわらかさが、何より語り手の孤独なるものが、確かに香ってはくるのですが、やはり説明の色が少しついており、どうにも浸りきれませんでした。「手足の先からピリピリと酸素が抜けていく。」という表現は個性的で惹かれましたし、「鞍馬は、ははっと笑うと、自分の体をぺちぺちと叩き始めた。ふくらはぎ、太もも、腹筋、胸筋、腕の順に丁寧に叩き、体をほぐす。」や「飛び込み台の先に左足の指をひっかけ、右足を後ろへ引く。」など、細かく丁寧な描写もあったので、全体的により丁寧であったら、と思いました。

「手足の先からピリピリと酸素が抜けていく。」は特に印象深かったので、加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「鳥肌になった上半身を両腕で抱いて急いでスタート位置まで戻る。」や「水の泡立つ音と真っ青なプールの底だけに支配された世界で、俺は水を蹴る。」など、伝わってくるものがあるにはあるのですが、「泳いでいる最中は完全に一人だ。」という独白的な説明が、それを下支えしているように思います。泳いでいるあいだは孤独であることを、五感と動きで、より色濃く伝えてほしかったように思います。そうでないと、語り手の内側がどうしてもおぼろげなままです。一人だ、という部分が完全に掌編の説明になっているので、ただただ情報としてしか伝わってこず、作中人物の内面に迫れませんでした。なお、非常に悩んだのですが、「泳いでいる最中は完全に一人だ。」は心理描写であると判断しました。細かいかもしれませんが、どうしても、内面の直接的な表現、心理描写、独白に見えてしまったので。また、「嘘をついた。」という表現がありますが、嘘をついたのであれば、そのときの仕草などで、それを伝えてほしかったように思います。ただ「嘘をついた。」だけだと、どこか味気ないです。全体的に大味であることと、説明的、解説的な文章が原因で、伝わってくるものから迫力が欠けているような気がします。

 4.基礎的文章力。
 すでに述べましたが、全体的に説明的です。「もう六月になるというのにどんどん体温を奪っていく。」は「もう六月になるというのに」という季節の説明があるせいで、体温が奪われていく描写までが説明に変わってしまっています。「もう六月になる」ということを、何らかの描写で伝えてほしいです。そうでないと、ふむふむ、という感覚だけで終わってしまいます。なお、「体温が奪われていく」ではなく「体温を奪っていく」とあり、この文章の主語は「俺」から「吹きすさぶ風」へと変わっています。厳密には五感それ自体の描写ではなく、そのために、元々説明調ですが。

「俺はこの鞍馬良太と小学生の頃から同じように水泳を続けていたが、フリーでは鞍馬に負けたことは無かった。その代り鞍馬の背泳ぎには敵わない。」のところも同様です。二人の関係性の、設定の公開になっているので、そうなんだ、という感じだけが、色濃く残ってしまいます。二人の関係性は、二人のやり取りなり仕草なりで伝えてほしかったように思います。そうでないと、設定を見せられただけになってしまいます。見たいのは情報ではなく、二人という個人の動き、感じ方です。

「もちろん下半身に競泳用のタイトな水着を着ているだけで、上半身は裸だ。」というところは、寒さを強調するための表現なのかもしれませんが、続く「鳥肌になった上半身を両腕で抱いて急いでスタート位置まで戻る。」で、「鳥肌」、「両腕で抱いて」、「急いで」と、十分なほど強調されていますから、過剰な説明のように感じます。

 また、「反対に真っ白に光る前歯が絶妙だった。」は表現が曖昧です。「絶妙」という語には具体性がないので(ニュアンスしかないので)、厳密には形容としての輪郭を持っていません。その絶妙さを、もっと歯なり肌なりを描写することで、こちらに示してほしかったです。ただ「絶妙だった。」と表現されても、へぇ、とか、そうなんだ、とか、つまり? とか、そういった応答が生まれるばかりで、文面の意味は理解できても、表現に入りきれません。鞍馬を肌で感じられません。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 何度も言っているように、説明的な表現が、水や寒さが本来持っている空気感を乱しています。確かに、泡の存在感や水の絡みついてくる「感じ」はあるものの、それがどうしても薄くなってしまっています。もっと描写だったら、という物足りなさを感じました。二人の会話が持っている色艶も、薄くなっています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 言いたいことは同じです。説明ではなく描写であれば、そしてその描写が丁寧であれば、迫ってくる「何か」が生まれていたかもしれません。日常的なものが核なので、丁寧に磨かないと、最後の表現がなかなか生きてこないように思います。

 総評。
 一人称でありながらどこか説明調の表現だったので、個々の描写からその色が薄れてしまっていました。説明には、基本的には情報の伝達という役割しかありません。そのため、説明が中心だと、ただただ情報を伝えられた、というだけで終わってしまいかねません。もっと描写がほしかったです。そうでないと、作中人物の内面が香ってきません。水の質感や、部分部分の表現には惹かれたので、そういった表現に、もっと触れたかったように思います。それらを通して、語り手の内側を、より見せてほしかったです。

読んでいただき、ありがとうございました。