「原稿用紙二枚分の感覚」 評11〜15

 評を読むときは、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。


●11 智春 『鳩サブレー缶』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 全体を通して湿った文章が続いていく、といった印象を持ちました。日常的なことが描かれているということもあって、崩れも破綻も、受け入れがたい偶然性も、見当たらないように思います。この掌編の、文章という一本の糸をどれだけたぐり寄せても、手触りは同じでした。心地よく、統一感があるよう感じます。後述しますが、雰囲気がいいです。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「前髪の先が眼球に刺さる。」は印象的でした。また、「ばこ、と春の風が音を立てて室内に吹き込み、」の「ばこ」は特に印象的で、異質な表現に感じました。よく記憶に残っています。全体を通して表現は上品で、異様な表現が散りばめられてある、というわけではないように思いますが、そのやわらかい文章が、掌編全体を下支えしているように感じました。奇抜な表現はかえって悪影響かもしれませんが、基準上、そこは見ています。「前髪の先が眼球に刺さる。」と「ばこ」という表現は特に惹かれたので、それぞれ加点しました。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 語り手の動作、行動が、全体的にねっとりとしていて、人の内面のとろりとした「何か」を感じます。ですが、「僕は街頭のシスターたちの仲間には入れないし、もうあのぬるいベッドの中にも戻れない。」という部分が気になりました。ここは語り手の、思ったことそのままのように感じます。そしてこの部分が、掌編全体にある動作群から伝わってくる「何か」を補強しているように思いました。感じられるものは多くあります。ですがそれは、混ざっている心理描写によって増幅されたものであると判断しました。引用した上記が、掌編の背骨になってしまっています。掌編の中心は、動作や五感であってほしかったように思います。

 4.基礎的文章力。
 個々の描写がねっとりとしているからこそ、説明的、解説的文章が目につきました。「春先の、女とともに入る布団は妙にぬるい。」は、ほかの描写が丁寧なだけに、説明の色が若干香っています。「春先の」と「妙に」という表現が原因だと思います。いずれにせよ、説明的です。描写の色がもっとあればと思いました。そのほうが、ぬるい感じもよく伝わってきたのではないでしょうか。春先ということは、もっと五感で伝えてほしかったように思います。床の冷たさなどは描写されてあったので、余計にそう感じました。

 鳩サブレー缶の中身についての描写も同様です。「『まとめて奪われたらどうするのか』と女は問うがどうにもしない、分散もしない、大げさに隠しもしない、あるか、ないか、ふたつにひとつだ。」という心理的な語りによって、なかに入っているものの羅列が、完全に説明の色に染まっています。また、この引用した部分は、語り手の思っていることそのままであると判断しました。もう少し、個々の小物が丁寧に描かれてあれば(たとえば色など)、その小物にも多くのものが宿るように思います。真珠のネックレスなら、傷なり何なりがあるはずなので、それを見せてほしかったです。そのほうが、過去なり時間経過なりが小物に直接芽生えるので、作品の厚みが増すように思います。

「女が使い切った、はちみつの瓶を灰皿の代わりにして、ベランダの片隅に置いている。」も同じです。「女が使いきった」という部分が、はちみつの瓶の説明になっています。それを五感や、はちみつの瓶それ自体をもっと形容することで、表現してほしかったように思います。たとえば、はちみつの瓶を見たときに、それを女が使い切った瞬間がふっと蘇る。その蘇ったものを細緻に描写する、といった具合で。やり方はあったように感じます。これは女が使い切った瓶なんですけどね、と直接的に説明された場合、そうなんだ、と頷くだけで終わってしまいます。

「体内を通る管の壁面をつたい、落ちていく冷水。」も、一見描写的ですが、説明のにおいが漂っています。理由は三つあります。一つは、「管」や「壁面」という字面、語感に、肉の生々しさが少ないこと。一つは、掌編全体がしっとりとした雰囲気を帯びているにも関わらず、この表現には、どこか機械感があること。それは、前述したことが影響しているように思います。もう一つは、そのあとにある、「口元から足の先まで外から中から身体全部の熱を逃す。」の「熱を逃す。」という言い方です。熱が逃げていく、なら肌の感覚ですが、「熱を逃がす。」の場合、主語が冷水です。そのため、冷水が語り手の熱を逃がす、という説明的表現になっています。結果、その前の部分にまで説明っぽさが波及し、描写から色が奪われてしまっているよう感じます。細かいかもしれませんが。

「まだひとくちしか吸っていないが、ガラス瓶に擦り付けて火を消す。」も、「まだひとくちしか吸っていないが、」という前半部分のせいで、説明調になっています。その前の文章で、まだ全然吸っていないことは伝わってくるので、くどく感じてしまいます。結果、説明のにおいを帯びています。説明だと、ほうほう、とか、なるほど、という印象が濃くなりがちです。そうなると、せっかくのタバコの香りが弱まってしまいます。

 それから「僕は」という主語の出てくるところがあります。「僕もこうべをだらりと垂れ、煙を口から吐きながら祈りを捧げる。」や「僕は街頭のシスターたちの仲間には入れないし、もうあのぬるいベッドの中にも戻れない。」がその例です。あるいは最後の「僕は隙間から外に出ると静かに外側からドアの鍵を閉めた。」も同様です。冒頭の動作、たとえば「暗闇の中で上体を起こす、寝かす、を三度繰り返してベッドから這い出る。」には主語がありません。日本語は基本的に、主語がなくても意味が伝わる言語です。ましてやこの掌編は一人称です。なので、「僕は」とある場合、そこに何かを求めます。一貫して「僕は」と書かれてあるならともかく、多くの動作、行動からは主語が省かれているので、主語がそこにいるのなら理由がほしいです。仮にない場合は、違和感のなさを求めます。

「僕は街頭のシスターたちの仲間には入れないし、もうあのぬるいベッドの中にも戻れない。」は心理の直接的描写で、この部分は特に強調したかった、そう考えれば、ここに主語があるのは納得できます。一方、「僕は隙間から外に出ると静かに外側からドアの鍵を閉めた。」も、強調のように感じられますが、少し弱い気がします。この部分を主語で強調しなくても、「僕は街頭のシスターたちの仲間には入れないし、もうあのぬるいベッドの中にも戻れない。」の部分がすでに、掌編すべての動作の強調として作用しているので、端々の動作に「僕は」があると、過分な強調のように感じます。「僕もこうべをだらりと垂れ、」も同じです。この「僕は」という存在は重く見ました。よく整っているからこそ、そこに座っている主語が気になりました。いなくてもいいんじゃないか、という感覚が根強いです。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。

 表現に粘り気があるので、掌編全体が糸を引いています。ですがそのねっとり感は、「僕は街頭のシスターたちの仲間には入れないし、もうあのぬるいベッドの中にも戻れない。」という部分が下支えしていることは見逃せません。というより、そこの存在が全体の色彩を決定しています。確かに描写全体や個々の動き、五感からも、「感じ」は出ていますが、心理を直接描いたと思われる部分がその土台となっている感は、どうしても否めません。空気感は香っています。ですが、その香り方が気になりました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。

 掌編が持っているほの暗さ、温度、湿度は好みです。「ばこ」という惹かれる表現もありました。一度文章に目を浸して、そこから顔を上げたとき、瞳にこびりついて残ったものは、雰囲気でした。空気感はあります。ですが、それ以上の何か、たとえば語り手の人間性や、足首を掴んで離さない圧倒的な生活感など、感じられる「何か」は薄かったように思います。この掌編が持っている、ねっとりとした静けさは、一度読めば満足でした。雰囲気はよく味わえました。文章の背骨が心理描写でなければ、より雰囲気は濃くなったように思います。もっともっと雰囲気があれば、表現のインパクトは増すように思います。

 総評。
 掌編全体が垂らしている粘っこさには惹かれました。文章も整っています。だからこそ、説明的な色合いや、細かな部分が目につきました。また、直接的な心理描写の腕力が強過ぎました。個々の動作や感覚、あるいは自然描写に載っていた語り手の内側の色を、変にぎらつくものにしています。全体的に淡さもあるので、解説的な語りの生んだ濃さも、余計に気になりました。確かに雰囲気はあります。空気感それ自体を楽しむ掌編という印象を強く持ちました。そして、この掌編から触れられる「感じ」は、個人的にはとても好みです。

 ですが、真ん中にドンと一本立っている心理描写に、五感や動作などに関する、個々の丁寧な描写が寄り集まっている、という構造が、今回特に気になりました。五感や動きが中心ではなく、王たる心理描写に遣わされている、という印象が、色濃く残りました。一編の掌編としては、もちろんそれでも構わないとは思います。確かに雰囲気はあったので。ただ、この心理的な語りが不在であれば、今回抱いた印象は、がらりと変わったように思います。

●12 ディッグアーマー 『そのあぎとが見えるか』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 曇天や雷の暗い雰囲気が、文章全体に張りついていました。起きている出来事自体は超常的ですが、破綻などは特に感じられませんでした。文章も一貫した書かれ方で、統一性は、表現の奥にまっすぐ一本、通っていると思います。一人称のはずなのに、妙に三人称っぽいところもありましたが、全体的にそうなので、特に気になりませんでした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 目で触れたときの文章の硬さが際立っているように感じます。独特の比喩表現もあちこちに組み込まれています。ただ、個々の表現の圧力というよりは、文章全体の硬さ、冷たさで、こちらにじりじりと迫ってくる、そんな文章だったように感じます。なので、総体には惹かれました。全体が生んでいる金属の音は、確かに響いています。その部分で加点しています。ただ、重苦しい感じの掌編なので、一文一文がもっとぎらぎらしていたら、という物足りなさはありました。それぞれが、もっと目玉にのしかかってくるような、そんな表現だったら、というふうに感じます。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 たとえばクレーンの運転手のざっくりとした行動描写から、その内面は香っています。また、「その音に背筋が泡立ち、膝が震えはじめた。」という描写を始めとして、語り手の内側は、その行動や五感から、確かに伝わってきます。個性的な比喩表現もそれを支えているように感じます。ただ全体として、もう少し迫ってくるものがあれば、という感じも受けました。起きている出来事に比べると、表現が淡々としているような感じを受けます。「僕も」という主語があった一人称なのに、どこかよそよそしいです。三人称的、と言えばいいのかもしれません。作中人物の渦巻いている内面や荒々しい出来事に比べると、文章が少し軽かったように感じました。人間が描かれている、というよりは、人間っぽいものが書かれてある、という印象が強いです。もっとずっしりと、語り手なりの内面の重量感が、文章の端々から感じられていたら、と思います。起きている出来事自体には重みがあるので、余計にそう感じました。あぎとを描くにしても、それを見ているのは語り手という人間なので、その個人の存在が薄いと、どうしてもあぎとまで薄くなってしまいます。

 ちなみに、全体としては硬い文章なので、もっともっと硬くてもよかったのではないでしょうか。たとえば、「震えはじめた」の「はじめた」は漢字でもよかったように感じます。ひらがなだと丸みがあるので、軽さがほのかに香ります。細かいところで、もはや好みかもしれませんが。ですが細部までがっしりしているほうが、語り手の内側が、より鮮やかに伝わってきたように思います。

 4.基礎的文章力。
「まずい、落ちる。」と「咄嗟の想像が脳裏を過ぎる。赤い鉄骨のトラスが百数十メートルを落ちていき、下で逃げ惑う人々を押し潰す光景が。」は、心理を直接描いた文章のワンセットであると判断しました。特に前者の存在が、後者にその色を足しています。「まずい」と思ったときに生じる肉体的な感覚などで、「まずい」を表現してほしかったと思います。たとえば、内臓がキュッとなるとか。語り手が感じたことで伝えてほしかったです。そのほうが、描かれてあることが、より生々しく感じられます。緊迫感のある瞬間でもあったので。

 頭に浮かんだ最悪の事態も同様です。体温なり息遣いなりで、描いてほしかったように感じます。説明だと、どうしても生々しさが薄れます。全体的に細かく描写されていますから、説明がそこにいると、場違いなような気がします。「その時はじめて、運転手が泣き叫んでいる理由に思い当たった。」も、思ったことそのままです。この二ヶ所は、明確な心理描写であると判断しました。全体を通して丁寧に紡がれてあるので、説明調の文章の存在が気になりました。すでに述べましたが、「僕も」という表現があった割りに、やたらと三人称的です。もちろんそれでも構わないのですが、一人称らしい内面の乱れ、といったものがあったら、と思います。語り手が、どこか落ち着いているように見えてしまっています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。

「いつだかテレビで見たシーンのようだ。ガゼルか何かがライオンに首を噛まれ、大地に引きずり倒されるあのシーンだ。」で、心理描写的説明がなされています。一人称ということもあって、思ったことがそのまま内面でつぶやかれている、という印象を持ちました。「クレーンは泣き、暴れ、歪められていく。」ことが、もしライオンの捕食に見えたなら、見えたままを細緻に描いてほしかったです。「いつだかテレビで」と、リビングにあるもので説明されると、緊迫感が薄れます。説明だと、そうなんだ、という感じが多かれ少なかれ生まれますし。細かいかもしれませんが、ここは心理描写だと判断しました。

 また、独特な比喩表現が目立ちますが、比喩ならどんな比喩であろう構わない、というわけではないと思います。たとえば、「それはまるで、蕎麦を啜るような擦過音だった。」というところ。おいしそうな蕎麦がぽっと浮かんで、なんだかかわいらしい表現に見えてしまっています。あぎとがもぐもぐ、クレーンを食べている感覚が湧いてしまったので、重苦しい空気感が乱れました。蕎麦をすする音それ自体には問題がなくても、蕎麦という名詞が持つ一般的なニュアンスと字面は、文章全体と調和していません。もっと適切な名詞、比喩表現があったように思います。好みの問題かもしれませんし、意図的かもしれませんが、「感じ」という面から見ると、気になりました。比喩は諸刃です。失敗すると、文章総体の色彩がおかしくなります。すべてが滑稽になりかねません。

 ちなみに、冒頭の「はじめに骨組みが歪んだ。」は、後ろの文章の存在もあって、説明っぽさを帯びています。その後ろを読めば、初めに骨組みが歪んだことは分かります。わざわざ説明という形で強調されていることの理由は、あまり感じられませんでした。導入のためにとりあえず置かれてある、という印象が強いです。全体の描写が丁寧なので、ここは浮いているようにも思えました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。

 重たい雰囲気、どことなく香る退廃、畏怖、絶望など、個人的には好みの空気感が漂っている掌編ですが、迫ってくる異質な「何か」が薄かったように思います。超常的な現象が描かれている文章ですが、要所要所が説明的で、そうなんだ、という感覚に襲われてしまいました。もっともっと、金属の不快な音で満ちていれば、とも思いました。文章には硬さがあるので、雰囲気なり不気味さなりの色が濃ければ、なにより説明的な文章がなければ、表現の底が一気に深くなり、再読したくなったと思います。好みの掌編だったので。

 総評。
 文章の質感は金属的なもので満ちており、個人的にはその暗さに惹かれました。ですが、かわいらしい、丸みを帯びた比喩があったり、解説にも似た語りがあったりと、空気感の乱れを感じるところが気になりました。意図的にそうなっているのかもしれませんが、突き詰めてほしかったと思います。硬い質感が極めて丁寧に、それでいて荒々しく表現されていたので。手に取った鉄の棒の一部が、どういうわけかふにゃふにゃしていて、何だか気持ち悪い。そういった感覚を、今回覚えました。動作、五感、自然描写はたくさんありましたし、伝わってくるものもありましたが、もっと勢いよく、もっと濃く、という欲求は消えず、そこがどうしても気になりました。「あぎと」を見ている人間が、どうにも薄かったです。そしてその人間の薄さが、掌編全体の味を薄めているような気がします。

●13 アセアンそよかぜ 『離陸』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 文章の色味は最後まで変わっていないように思います。また、日常の一場面が丁寧に切り抜かれてあるので、破綻や偶然性など、気になるところもありません。やわらかい掌編のように感じます。タッタッタッと廊下を駆けていくような、淡い表現のように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 文章は全体的に極めて平易でした。同じ語彙が繰り返し用いられることもあったりと、個々の表現は平坦に感じます。ただ、「おそろいの儀式」という表現は愉快でした。全編を通した丁寧さには目を惹かれますし、文章総体が生んでいるやわらかい質感はいいのですが、描写や文章それ自体は、やはり平らでした。掌編の核が日常的なものなので、異質な表現は、場合によっては浮きうるかもしれませんが。「おそろいの儀式」には特に心を奪われたので加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「手のひらを見ると、今回もわずかな汗が手相の中に溜まっていた。」という一文を中心に、描写全体から、語り手の内面がよく香ってきます。ただ、詳細は後述しますが、細かく散りばめられてある直接的な心理描写や説明が、それを下支えしている感も否めませんでした。掌編全体として、伝わってくるものは多くあるのですが、その伝わり方が気になりました。動きや五感から、より多くのものを直接漂わせてほしかったように思います。そのほうが生々しいですし、記憶に深く残りやすいですし、何より文章の味が濃くなります。

 ちなみに、上記引用の「今回も」は説明のにおいが濃いです。「今回も」と言わずに「今回も」ということを伝えてほしかったです。というより、飛行機の挙動を気にする語り手の動きから、それは十分伝わっていました。なので、説明感が濃いです。そして説明されると、へぇ、そうなんだ、という気持ちがどうしても湧きます。すると、入り込んでいた文字の世界から、胸を押されて追し出されたような、そんな感覚に陥ります。

 4.基礎的文章力。
「念のために下を見てベルトが閉まっていることを確認。」の「念のために」が心理の直接的な表現に見えます。何度も触って確認するなど、手の動きや瞳などで「念のために」を表現してほしかったように感じます。そのほうが、内面の動きがより鮮やかに映るのではないでしょうか。あと、「閉まっている」ではなく、「締まっている」ではないでしょうか。本当に些細なことですが、せっかくなのでお伝えしておきます。

「その下で整備をしている人が歩いているのと同じ速度のようだ。」の「ようだ」も推測という心理が出ていますし、そのすぐ後ろの「少しずつ速くなった気がするが、」も同様です。「あと2機ほどか。」や「思わず椅子の肘掛を力強くつかむ。」の「思わず」もそうです。すべて行動と五感だけで表現してほしかったように思います。「さていよいよこの飛行機の番が来たようだ。」や「周囲の乗客はここから見える限り、真剣に見ている人はいない。すでに寝ている人もいる。と思ったら急に眠くなり、少し記憶が飛んだが、数分もしないうちに目が覚めた。」の「と思ったら」も直接的な心理を描いているように思います。全体として、もう少し心理描写は減らせたと思います。そしてそのほうが、語り手の内面は生々しく伝わります。文章自体は丁寧に感じますが、作中人物の動きの描写が少し荒っぽいです。一つ一つの動作をもっと細かく書けば、上記の心理描写が伝えようとしている恐れや緊張、不快感と呼ばれるものが、より強く伝わるのではないでしょうか。実際、語り手は飛行機の挙動一つ一つに、かなり意識を向けている、あるいは向いてしまっていることは、掌編全体から分かるので。少し物足りない感じを覚えました。多分にある心理描写に関してですが、ここですべて減点の対象としました。その結果、後述する部分の減点も含めて、この項目では基準上評価できなくなってしまいました。

 また、描写が丁寧であるにも関わらず、説明的な文章が散見されました。「さていよいよこの飛行機の番が来たようだ。滑走路に入るために機体を大きく回転させた。」の前半部分と「滑走路に入るために」は特に説明的です。語り手の五感で「いよいよ」を伝えたほうが臨場感が出ますし、「滑走路に入るために」はなくても伝わります。強調するなら、描写のほうが勢いが生まれるように思います。説明だと、どうしても文章が弱くなります。説明は描写ではないので、語り手特有の感じ方に、どうしても触れにくくなります。色が薄くなりがちです。「何とかのために」という表現は、特にそうです。これこれのためにしてるんだな、とこちらに思わせてほしいです。丁寧に描かれてある割りに、語り手の行動も大味なので、余計に心情が霞んでいるように感じました。また「おそろいの儀式をしている。法律で決まっているのか、緊急時の救命具の使い方の説明。」は、「おそろいの儀式をしている。」の後ろがすべて「おそろいの儀式」の説明になっています。そのせいで、おかしみのある表現なのに、少し色が落ちています。「おそろいの儀式」だけでも何をしているのか十分想像できるのですから、仮に補足するなら、描写であってほしかったです。そのほうが、儀式っぽさがより出るように思います。説明のせいで、儀式に作業っぽさが生まれています。

 あと、細かいかもしれませんが、「するとそれまで静かだった機内に突然高音と低音の大きなエンジン音が機内に響き渡る。」には「機内」という単語が二つあります。片方は(特に後者。より厳密には両方)なくても構わないように感じ、気になりました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 語り手の目を通した飛行機の挙動が、とにかく徹底的に描写されているので、その心情が生んだ空気感は、掌編全体を包んでいます。ですが、説明調の文や心理的描写が、それを補強しているように思います。一つ一つの動きそれ自体が生んでいる「感じ」は、少し弱い気がします。各々の動作がより細緻だったら、この文章が持っている雰囲気は、異質なものになったと思います。たとえたった一つであろうと、丁寧な描写は、十の説明にも勝る説得力と雰囲気と生々しさを持ち得ます。説明調の文章が持つものは、基本的には微弱になりがちのように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 初めて読んだとき、飛行機の一挙手一投足を気にする語り手の心情に、もっと触れたいと思いました。ですが、文章が丁寧な割りに、よく噛んでみると大味で、そこがどうしても気になってしまいました。語り手の内側が、動作や五感という形で徹底的に描き込まれていれば、印象深さは増したと思います。日常的なものが核なので、じっくり磨かないと、どうしても表面が曇って見えてしまいます。

 総評。
 全体的に丁寧さが感じられる文章ですが、一文一文はどこか大雑把に見えました。自然描写は細かいにも関わらず、語り手の行動がざっくりと書かれてあるだけなので、そういう感覚に襲われたのかもしれません。たとえばベルトを確認する文章も、「確認。」だけだと大味です。具体的にどこをどう見て確認したのかを書かないと、どうしても説明的で、印象が弱くなります。確認の仕方は人それぞれなので、そういった細かい描写には、人間が宿ります。もちろん、たとえ説明的でも、迫ってくるような書き方は可能でしょうが、その場合は強烈な「何か」が必要なように思います。こうした、あぁしたと、ただ箇条書きのような形で動きを書いていくだけでは、人間があまり感じられません。人間らしくない人間を描きたいなら構わないのかもしれませんが、この掌編はそうではないように見受けられました。なので、動きの一つ一つから、語り手の心理がもっと滴っていればと、そう感じずにはいられない掌編でした。もしも説明中心でいくなら、もっともっと説明を重ねる必要があると思うので、短編以上の文量が必要なのではないでしょうか。


●14 ジョン久作 『約束事』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 極めて短い文が最後まで連なっていて、文章全体が一個として立っているように感じました。描かれている事柄に、気になるような破綻なども見受けられず、文章には一体感がありました。切り詰められている文章は、個人的にはとても好みです。ちなみに、「臭い」など同じ語彙が多様されますが、リズム感や緊張感の存在から、特に気になりませんでした。むしろ駆けていく感じがして、読んでいて勢いが感じられます。起きている事柄も相まって、目をどんどん引っ張っていってくれます。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 短文が中心なので、文章全体はきゅっと締まっています。その締めつけ具合には惹かれましたし、個々の表現は平易でありながら、表現総体は、掌編の核となるテーマの存在の影響を受けて、鈍く輝いていると思います。なので加点しています。

 ですが、多くの文章が説明調、というより説明と解説でした。五感や動き、自然描写全体は、説明や解説の色を帯びた文章に支えられている感じが、どうにも強いです。それだけでは自立していないように感じます。掌編の核やテーマ、されている説明ありき、といった感覚を抱きました。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 後半の三郎の動きは細かく描かれているものの、前半の作中人物の動きが大味なことと、説明、解説が多分に混じっていることで、微細な動作が、それらにすべて喰われているように感じました。確かに内面は伝わってはくるのですが、ただ情報として伝わってくるだけで、肌に迫ってきません。「『息子が生きてりゃ八十円』」という台詞は、後ろにある「清の父と三郎の、約束事。二人だけの、約束事。」という完全な解説が原因で、三郎の内面のおどろおどろしさ、生々しさ、においなどが、一気に薄まってしまっています。この台詞だけだったら、圧倒的な表現のように感じるのですが、直接的な形で詳細を教えられたので、感じられるものが減衰してしまいました。内面が伝わってくるのはいいのですが、その伝わり方と濃さが気になりました。

 4.基礎的文章力。
 説明によって表現総体が成り立っています。「同郷の清は二十歳になったばかりで、駆け込み婚の嫁が帰りを待っている。裕福で厳格な父と、心配性の母。病弱な兄と、快活な妹。生まれたときから貧しく、村民から爪弾きにされてきた三郎だが、清の家には何度か世話になっていた。」というのは完全にただの設定です。設定が単体でぽんと置かれてあっても、掌編全体が持つものは増幅されにくいように思います。というより、掌編では相当厳しいと思います。対照的な人生を送ってきた三郎の心理を、五感や動作に落とし込んでほしかったように思います。明確に感じられるような特別な理由もなく、ただただ設定を読まされると、そうなんだ、そういう人なんだね、という感じが色濃く残り、ほかの描写の香気を著しく損ねます。この掌編全体やテーマ性が持っている、異様で迫ってくるものが、薄くなっています。

「清の父と三郎の、約束事。二人だけの、約束事。」は、音の響きは印象的ですが、繰り返された結果、説明感が一層濃くなっています。題名に『約束事』とあるのですから、その約束が何なのか、誰との約束なのかは、掌編全体の描写で示してほしかったと思います。タイトルの解説を、たった一文で、しかも唐突に始められると、肌に残るものがありません。そうだったんだ、で終わってしまいかねません。

「下手に反撃する者は、横殴りの雨のように返ってくる敵の弾に蜂の巣にされた。」という辺りも、そう説明するのではなく、そうやって死んでいった人たちの動きなどを描くことで、伝えてほしかったように思います。説明だと、そうなんだ、という感じが強く生まれます。また、全体的に説明のにおいが強いので、「負傷者のうめき声と、血の臭い。全員の荒い呼吸と、汗の臭い。」という、短文を重ねていく辺りが、少し説明臭くなっています。掌編の核をなす「約束事」と「三郎たちの過去」が解説、説明されていることで、本来は熱っぽく印象的な文章であるにも関わらず、すべてが説明的な湯気を漂わせています。基本的に説明は、多くのものを削ぎます。もちろん、説明のある小説でも構わないのですが、掌編で説明が肝だと、あらすじっぽく見える可能性が高いです。表現総体が鈍く光って見えるのは、核になっている約束事が、まさに異質だからですが、本来であれば、もっと鋭く輝いていたように思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 いい意味で汚臭がしており、目を奪われます。ですが説明によって、その漂う雰囲気の多くは吹き飛ばされています。なまじどろりとした空気感が漂っているだけに、さらりと説明されているところがどうしても目につきました。文章が本来持っていた、胸騒ぎのするような恐ろしい「感じ」は、相当乱れているように感じます。もう少し、描写に多くが委ねられてあったらと、歯がゆかったです。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 「右足、左足」と繰り返されるところや、「右、左」と繰り返されるところは印象深く、また、「口の周りの雨粒を舐めれば、泥の味。」という表現を始めとして、個々の描写からは作中人物の内面が確かに香っているのですが、掌編自体がどうにも説明的で、文字のなかに入っていけませんでした。特に、「息子が生きてりゃ八十円」という台詞の後ろにある解説が決定的でした。それさえなければ、何度も読み返したくなったと思います。すべてが簡単な形で説明されてあるので、掌編が本来持っていた深みと嘔吐感が微弱になっています。台詞にはどくりと胸が鳴ったのに、そのあとの解説で、そうなんだ、と冷静になってしまいました。物語の外に追いやられた、という感覚でしょうか。

 総評。
 説明や解説、設定としか感じられない文章が、作中人物の動きや五感、テーマを弱めているように思います。結果として、伝わってくる内面が薄くなり、一番重要であろう台詞の、あの圧倒的な汚臭はとりわけ曖昧となって、掌編全体が持っていた気持ち悪さ、嘔吐感は減衰しています。説明さえされていなければ、劇毒的な掌編になったと思います。胸がざわつく作品であったがゆえに、台詞から三郎という人間がくっきりと感じられただけに、説明、解説、設定が、どうしても気になりました。掌編の核からは、迫ってくるものが異様なほどありました。だからこそ、細かいところが気になりました。

●15 富丘ジョージ 『不望』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 文章に出てくる名詞のほぼすべてが抽象的な形で表現されていました。説明調も底を流れ続けています。説明文もいくつかあります。何とかだった、という書かれ方は一貫して続いています。動作に関する描写も基本的にはざっくりとしていて、曖昧です。ですが、表現のおよそすべてが曖昧というまさにそのことに、異様なほど惹かれました。理由は後述します。ちなみに、「男が丁度倒れた場所は殺した女の墓の上だった。」というところには大きな偶然性を感じますが、全体で起きている超常的な事柄の存在から、特に気になりませんでした。文章は統一されているように思います。多くが短文なのでリズム感があり、全体の音の響きが心地いいです。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 猫を捜し続ける男の動きは印象深いです。最後の「女は自分に降りかかる砂となった男を掻き抱いた。男は女の腕をすり抜け、棺桶の底で眠りについた。」には心がどくりと鳴って、震えました。まさにそこから、人間の内側が強く香ってきたからです。「探した」や「川に撒いた」など、作中人物たちの動きの描写は基本的にはざっくりとしていますが、その不透明さが、最後の文章の異質さを、何より、掴みどころのない曖昧な掌編の核を、より色濃くしているように感じました。各々の文章は抽象的かつ平易ですが、濁った感じの色がよく出ているように思います。個々の文章の多くが短文で、音がいいということも相まって、表現全体として異質なように感じます。深みがある、と述べるべきでしょうか。また、最後の行に関しては加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 男の行動全体と、最後の「女は自分に降りかかる砂となった男を掻き抱いた。男は女の腕をすり抜け、棺桶の底で眠りについた。」で、それぞれの内側の、どろりとしたものが伝わってきました。特に最後の描写が印象的です。それまでの行動の描写自体は大雑把でしたが(「頬ずりした」など)、ここで少しだけ、ほんのかすかに、具体的になっているように感じました。結果、強調的な色も加わって、感じられるものが非常に多かったです。具体的には言語化できませんが、文字通り、内面らしき何かが、何らかの形でよく伝わってきます。この最後の一文を支えているのは、核となるものの不透明さと、表現全体の、一貫性のある抽象性、そして駆けていくようなリズム感と、直接的には何も明かしてくれなかった文章の冷たさです。抽象的だと、伝わってくるものが曖昧になって、掌編全体の影が薄くなることもあるのですが、ここではその抽象性が、まさに多くのものを、濃い形で、こちらに見せてくれているような、そんな気がします。どこまでも連れていってくれるような、そんな奥行きがあります。

 4.基礎的文章力。
 全体的に説明調で、曖昧さも多く感じました。「暗闇から顕れた異端審問官たちは、」というところに、その者たちの外形の描写はおよそ一切ありません。男にも女にもありませんし、猫にもありません。「歩く度に身体から泥や水棲生物がボトボトと落ちていったが、」の水棲生物も、具体的には不明です。とはいえ、その前に「魚や蟹に食われた。」という描写があるので、想像はできます。それでも、どんな魚、どんな蟹、という感覚は覚えました。ただ、すべてが一貫して抽象的なので、気になったわけではありません。むしろこの抽象的だという感覚は、掌編の核となるものが抽象的なこともあって、非常に心地よかったです。具体的で細かい描写はむしろ邪魔なように感じます。繰り返しの引用になりますが、「女は自分に降りかかる砂となった男を掻き抱いた。男は女の腕をすり抜け、棺桶の底で眠りについた。」という、極めて淡く、それでいて鮮やかな文の存在が、各行や単語群全体が持っている抽象性を、まさに支え返すという形で、輝かせているように思います。ここの動きが鮮やかなので、表現総体の不透明さが光っているように感じます。言語化の難しい、魅力ある表現です。どう評を書いていいのかまったく分からないくらい、惹かれました。

 ただ、「男はまず、自分の家へと戻った。」の「まず」は完全に説明的です。「猫の匂いがしなかったから」の「から」も同様です。「男は遂に倒れ、砕けて砂になった。」の「遂に」もそうです。「説明調」の文章が多いからこそ、完全なる説明の色を帯びた細部が気になりました。なんとか説明調にまで、においの濃さを落としてほしかったように思います。細かいかもしれませんが。

 また、「男は三千大千世界中を回り、」の「三千大千世界」という名詞が少々ごつく感じられます。語が持っている意味的な理由から、掌編全体の深みは増していますが、元々、いくらでも解釈可能という圧倒的な深さが、この掌編にはありました。その深みが増しているのはいいのですが、字面という点で、本当に少しだけ引っかかりました。些細な部分かもしれませんが、胸に迫ってくる掌編だったので、文章中に存在している単語の字面は、どうしても気になりました。もはや好みの問題なので、このままでも構わないとは思いますが、感じたことなのでお伝えします。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 不透明な掌編の核、曖昧さの残る行動、抽象的な名詞群、最後の行の存在などが複雑に絡み合い、全体に、極めて異様な空気感が漂っています。多様な解釈ができる作品であるからこそ、個々の抽象性が、鮮やかに茂っています。漂ってくる形のなさと、決して底の見えない奥行きが、淡々とした文章に、強烈な「感じ」を纏わせているよう感じます。掌編の抽象性から深みが感じられる、ということが、非常に大きいように思います。ただただ抽象的なだけだと、はてなが生まれがちなので。

 ところで、「異端審問官」という固有名詞の存在感が、あまりにも大きいように思います。この掌編独自の名詞なので、抽象性がほかの名詞、たとえば「男」や「女」、あるいは「猫」とは異なっています。世界観を表すために必要なのかもしれませんが、その後ろにある「異端審問官」たちの言動で、その人たちの異質性や世界観は十分出ており、どこか浮いている、という感覚を覚えました。そもそも、全体の単語群に比べると、字面がごついように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 読むたびに、読み返したいと思いました。どう触れても許される掌編の核と、文章全体の違和感のない抽象性、何より作中人物の輪郭のない内面が、極めて強く、心の底にまで香ってきます。しつこいようですが、最後にある文章の存在が決定的でした。「人間の息遣い」と「何か」が恐ろしいほど強烈に迫ってきます。そしてそこが掌編の核と溶け合い、個々の表現の抽象性と曖昧さを、においを、質感を、強烈なほど濃くしています。直接的な解説がなされていないことも、大きいように感じます。というより、解説なる文章が存在しないことが、この掌編の、魅力的な抽象性を保っています。仮に解説されてしまったら、この掌編からは光が消えてしまうように思います。

 総評。
 全体を通して説明調であり、完全な説明になっている文も存在し、名詞も抽象的なままですが、その説明調や抽象性から生まれた不透明さが、淡さが、最後の文章と相まって、全編を極めて特異なものに変えているように感じました。具体的な表現を差し込んでしまうと、掌編全体が大きく歪んでしまうようにすら感じます。五感や自然、感覚の描写は確かに曖昧です。ですがその曖昧さが、作中人物だけが感じられるもの、まさに他者には絶対に触れられないであろう、その個人に特別な感覚を、鮮やかに映し出しています。基本的に、描写は具体的かつ丁寧であるほど、多くのものが伝わります。ですがこの掌編は、曖昧かつ淡々としていながら、人間やその内側、あるいは言語化不能な「何か」を、まさに鮮やかに撒き散らしています。できうる解釈は多様です。多様なうえに、人の「心」なるものが行動に載っています。特に最後の描写はそれが顕著です。色があって色のない、大好きな掌編です。表現として、たまらなく惹かれました。感じたことを言語化するのがとりわけ困難な、魅力ある作品でした。

読んでいただき、ありがとうございました。