「原稿用紙二枚分の感覚」 評26〜30

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。

●26 しゅげんじゃ 『太郎の居る世界』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 抽象性の高い物語でした。短文と少ない語彙を重ねていく、という形で文章が続いていきます。最初から最後まで、短く平らな文章が積み上げられていくという形なので、文章に統一性はありました。こういった、平易で短い表現の連なりは読みやすく、個人的には好みです。

 ただ、目的の壁を見つけられた理由が不明瞭でした。数文字でいいので示してほしかったように思います。そうでないと、ただ物語を進めるためだけの発見に見えてしまいます。些細なことだとも思いますが。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 全体的に極めて平坦ですが、「太郎の笑顔はごとりと壁に跳ね返る。」という表現には惹かれました。掌編の核となっているものが非日常的、比喩的なので、表現にもっと狂いがあれば、というふうに思います。名詞の多くが細緻には形容されず、行動などもざっくりとしか描かれていないため、表現は抽象的です。表現が抽象的なところは、掌編の核の曖昧さと合っているよう思うのですが、三人称ということもあってか、こちらと太郎にあまりにも距離があり、結果として、表現全体の色があせているように感じます。何らかの形でもう少し、太郎を感じさせてほしかったです。太郎の人間性を、感じさせてほしかったです。現状だと、無限に解釈可能な奇妙な物語、というだけになっているような気がします。物語の前に、まず人間に触れたいです。

 それでも、上記の引用したところにはとても惹かれたので、加点しています。際立った表現でした。全体を通して、こういった狂いのある表現がもっとあれば、受けた印象はがらりと変わったように思います。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「太郎が歩く世界の中に、人の影は存在しない。」という文章に代表されるように、多くが説明的です。また、一つ一つの文章が短いので、どうしても動きがト書的に見え、かつ説明調を帯びているため、太郎という個人があまりにも感じられませんでした。無機質、と言ってもいいかもしれません。そしてその無機質さも、無機質な人間、存在だから、というよりは、表現自体が無機質だから、というような気がします。三人称という書き方もあるかもしれませんが、いずれにせよ、文章が乾いていて、内面の香りが弱いです。こういった、短文の積み重なった表現も好みなのですが、ただただ短文が積み重なってあるだけ、という印象が強かったです。説明的でも抽象的でも無機質でもいいのですが、そこに人間を感じられないと、どうしても入っていけません。「太郎の笑顔はごとりと壁に跳ね返る。」など、ところどころからは内面らしきものが香っているので、もう少し濃く嗅がせてほしかったな、という印象です。

 4.基礎的文章力。
 繰り返しになりますが、表現の多くが説明的です。たとえば「その足取りはゆっくりと、しかし、確信に満ちていて力強い。」だと、「しかし、」という部分の存在が、文章に説明の影を落としています。同時に「確信に満ちていて」という表現は、心理を直接的に描いた、心理描写的説明になっています。「しかし、」という接続の仕方も相まって、描写から描写の色が剥がれているように思います。また、「やれやれと息を吐き出して、」の「やれやれ」も心の声的な表現です。引用した二ヶ所は心理描写だと判断しました。細かいかもしれませんが。

 また、先ほども述べましたが、それぞれが短文であり、表現も平易なので、全体の説明的なにおいも相まって、個々の描写から、ト書的な印象を受けました。そのため、掌編の核の奇妙さ、奇怪さ、不透明さ、抽象性に比べると、文章があまりにもあっさりしているように思います。起きている事柄に、文章が置いていかれているようにも感じます。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 説明的な書かれ方が原因で、どうにも雰囲気が弱いです。掌編全体が、起きている出来事にだけ依存しているような、そんな気がします。そうなると、必然的に作中人物の存在感も薄まるので、結果として内面のにおいが消え、作品の空気感が微弱になります。事実この掌編は、題名にもなっている肝心の太郎の存在感が、極めて薄いです。太郎の居る世界というよりは、ただただ奇妙な白い世界です。

 また、「コチリ、コチリ……」という表現のあとに、「左腕に巻かれた腕時計が、コチリ、コチリ、時を刻んでいる。」とあり、「コチリ、コチリ」が続いています。過剰な繰り返し、強調に感じました。強調するなら、表現が変わっていたほうが、文章の色彩も豊かになるよう思います。

「ボムッ! 太郎は爆発した。」も、起きていることに比べると、あまりにかわいらしいです。愛嬌があります。この表現自体がかわいらしいのはいいのですが、ほかが説明的だったので、この表現が、どこかふわふわしているような気がします。この表現に合わせて、説明臭い文章が、描写という形で書かれてあれば、というふうに思いました。そうすれば、太郎が爆発した瞬間の色彩も、より生々しくなるかと思います。どう爆発したのか、具体的に描写されていない以上、全体の空気感を用いてその表現の「感じ」を増幅させないと、肝である「太郎は爆発した。」という表現まで、ただの説明に見え始めてしまうように思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 表現全体の味が曖昧で、もっと濃ければ、スルメのように味わい深くなったかもしれません。「太郎の笑顔はごとりと壁に跳ね返る。」という、心奪われる表現もあったので、掌編自体が薄味だったことに、物足りなさを感じました。作品が、出来事と世界観だけに依存しており、そして今回、それを単体では見ていないので、ただ奇妙さが置かれてあるだけでは、どうしても惹かれませんでした。奇妙な世界が見たかったのではなく、奇妙な世界にいる「太郎」の感じ方、見え方に触れたかったです。

 上記の引用は、繰り返し触れたいと思ったので、加点しています。

 総評。
 短文を重ねていくという書き方は好みですが、短文はト書、説明のように見えやすい、という特徴が、露骨に出ていた掌編でした。そのため全体からは、抽象的な核の、曖昧な味しかせず、もっと濃かったらなぁ、と思わずにはいられませんでした。多くの表現に鋭さがないので、掌編の核、選ばれたテーマ、そしてそれらの抽象性に、文章が、何よりも太郎が、埋もれてしまっています。

●27 夏川冬道 『冷凍オートマター』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 統一性はあります。ありますが、カンテラがくどいです。あまりにも主張の激しいカンテラが、途中からとても愉快に見えてきて、読んでいて楽しくて、作品を読み込むどころではなくなってしまいました。いくら強調のためだったとしても、ここまで照らした照らしたと言われると、分かってますよ、となります。後述しますが、もはやカンテラ小説という印象しか残っていません。抽象的な形容もあちこちに見受けられますが、書かれ方は一定であり、とりわけ触れるような破綻もないように感じました。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 カンテラに関する表現が多すぎて、ほかの描写が頭に一切入ってきません。カンテラに照らされすぎて、ほかの描写の色味がすべて暖色に変わっています。この異様なまでのカンテラを照らす動きに、ある意味心奪われました。ですが、個々の描写は極めて説明的で、どうにも胸に迫ってきませんでした。プロット的にも感じます。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 三人称であること、表現が淡々としていること、またカンテラが記憶に残りすぎて、全体として、伝わってくるものが微弱でした。たとえば、「シラユキはしりもちをついた。」というところ。シラユキの内面は淡く見えますが、全編を通したカンテラの表現のぎらつきがあまりにも濃いのと、ほかの説明的な文章と相まって、どうしても色があせて見えました。カンテラを照らし続ける描写からは、シラユキの性格なりも伝わってきますが、やはりカンテラの圧が強すぎます。カンテラが肝であるならいいのですが、題名にはオートマターとあるので、すべてがちぐはぐなように感じます。

 4.基礎的文章力。
 何度も述べましたが、カンテラが濃いです。また、説明的な文章があまりにも多く、描写が描写として成り立っていないように感じます。たとえば、「それを何回も繰り返し、広大な聖域は正常であると確認するが聖域の警らの仕事であった。」という文章は完全に説明です。シラユキの行動が「警ら」の仕事だろうことは、その前の文章たちの存在で分かるので、不必要な存在がそこにいるようにしか思えませんでした。しかも、カンテラを照らす行為は、何度も何度も書かれることで、圧倒的なほど強調されます。そのため、引用した部分の存在を、どうしても受け入れられませんでした。

「聖域は古代樹の樹海の中にあり危険生物も多い。」も同様です。これだけだと完全に設定であり、どれくらい危ない場所なのか、肌に迫ってきません。そうなんだ、という了解だけしか生まれません。その危険生物を具体的に描写してほしかったように思います。そうでないと、登場するすべての名詞がおよそ抽象的なこともあって、こちらであれこれ補完しないといけなくなり、そうなると、もはやシラユキの感じ方、見え方は消えます。

 また、「地下階段の先は奇妙な文字らしき絵が所せましと描かれた廊下になっていた。」という一文。「奇妙な」という形容がありますが、具体的に書かないと、何も伝わってきません。奇妙かどうかは人によりますし、奇妙な文字とは具体的にどんな文字なのか、こちらはシラユキないし語り手ではないので、描写してもらわないと、一切分かりません。形容が形容として成り立っていないので、抽象性が飛躍的に高まり、結果としてほかの文章よりも抽象度が高まって、表現が浮いているよう感じます。「奇怪な音を立てて、棺の蓋が一人で開閉した。」も同じです。具体的にどんな音なのでしょうか。聴こえた通りに描写してほしかったように思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 カンテラと説明調の文章が、掌編の核がもたらしている雰囲気を乱しているように感じます。もはやカンテラの印象しか残っておらず、題名にあるオートマターが死んでいるように思いました。地下階段やオートマターの存在がなければ、カンテラを強調し続ける、異様な掌編になったと思います。くどすぎるカンテラの表現は、突き詰めれば強烈な「感じ」を生むような気がします。カンテラからは、圧倒的な空気が漂っているよう思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 異様なほど記憶に残りました。大半の文章で、カンテラを照らし続けるからです。そのため、オートマターや玄室の存在が浮いていました。カンテラだけの掌編だったら、逆にあまりにも愉快で、読み返したいと思ったでしょう。

 総評。
 繰り返されたカンテラを照らすという行為が、題名や後半部分をすべて喰っています。カンテラの小説、という印象がすべてで、もはや題名を思い出せません。言いたいことはこの一点だけです。オートマターの台詞すら、カンテラの光で見えません。これが『カンテラ』という題で、最初から最後までカンテラを照らすだけの小説だったら、死ぬまで忘れない作品になったと思います。それくらいしつこく、とても愉快でした。途中から、カンテラや照らすという文字を見るたびに、楽しくてくすくす笑っていました。シラユキにも親しみが湧きました。カンテラで照らし続けているだけなのに、シラユキの内面が、じんわりと伝わってきたからです。カンテラ小説だったら、という名残惜しさが、最後に残りました。


●28 小説工房わたなべ 『お弁当』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。 
 前半の大部分は親しみのある語り的説明で、逆に後半は濃い描写という構成でした。そのため、途中から文体が変わっているように感じ、そこが気になりました。変化した理由は、お昼ご飯にありつけたから、昼食難民でなくなったから、と考えることもできますが、そうだとすると別に気になる部分が生じ(後述します)、結局引っかかりは取れませんでした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。

 後半の描写はとても丁寧で、「滑り台には赤テープがぐるぐると巻かれ、柵に囲われた砂場からは親子連れの遊び声がころころと。」というところには特に惹かれました。ですが、掌編の半分が語り的な説明であったことが原因で、淡く輝いていた個々の描写の色が、どこか薄くなっているように感じました。

 たとえば、「さほど高くなく、もちろん美味くって、ご飯のお替わりが無料で、平らげたあとも追い出す雰囲気を醸し出すことなく、ぼんやりと本を読んでいられるランチの店は近場ではここしかなった。」というところ。ここは、日頃から通っている定食屋の、説明文にしか見えませんでした。定食屋の設定と言っても構いません。説明だと、そうなんだ、という感覚だけしか残りません。「混雑している。密閉している。胃袋が首肯せず。」という部分で、別のご飯屋さんが(極めて淡くですが)登場しているのですから、たとえばそこを描写して、行きつけの定食屋と対比させ、定食屋の雰囲気なり情報なりを示したりするほうが、作中人物にとって定食屋がどんな存在だったのか、より深く感じられたと思います。

 冒頭に引用した部分は特に鮮やかだったので、加点しました。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「くくく、とか自分でやっちゃう。」という文章を筆頭に、内面のつぶやきや説明的な文章の存在が、描写による内面の香りを薄めています。「と、口を──顔を上に向ければ、新緑の隙間をこぼれ抜けた木漏れ日が落っこちてきて、まぶしさに目を細めては、つぶやきました。ごちそうさま。」という最後の行を中心に、丁寧な描写には、語り手の生きた心が確かに映っているように思います。ですが、点在している内面の語りが特徴的で、おかしみと親しみがどうしても強く、それらに呑まれた結果、内側が、細緻な描写から伝わってはくるものの、薄かったです。「くくく、」という部分は心理描写だと判断しました。「これを漂泊中に見かけた犬の額ほどの公園にて、という目論見で。」も同様です。「という目論見で。」と、考えを、直接的な形で伝えられてしまいました。「ご飯にはゆかりが散らされ、華奢な塩気が懐かしく。」の「懐かしく。」も、味の形容というよりは、懐かしいなぁ、という思ったことです。その懐かしさなるものは、描写に落とし込んでほしかったように思います。おにぎりを握ってくれた父の手や母の手が蘇るとか、小学校の給食の時間につけていたマスクと今しているマスクの違いに気づくとか、懐かしいと思ったときに、語り手は、必ず何かを想起したはずです。それをそのまま描写して、懐かしさを伝えてほしかったように思います。そうでないと、そっかそっか懐かしい味なんだね、という頷きしか生まれず、白米や塩気などが、何よりその、語り手に固有の懐かしさなるものが、肌に迫ってきません。

 4.基礎的文章力。
 上記のように、心理的語りがところどころに見受けられます。「とうとう臨時休業の貼り紙を掲げやがった。」は「とうとう」と「(し)やがった。」という部分によって、完全に心理的なつぶやきになっています。そして、そこから滴った色が、その後ろの説明的な文章を濡らし、結果としてそこも心理描写的な語りに見えています。ここはワンセットで心理描写と判断しました。

「探せ、この世のすべてをそこに置いてきた、とかつぶやきながら。」も「とか」という二文字によって、つぶやいたという描写ではなく、そうつぶやいたんだぜ、という心理描写的説明になっています。またこの表現は、元ネタを知っているかどうかで印象が変わりますが、ほかの創作物の言葉を持ってくる形で作られた作品の厚みは、諸刃です。確かに語り手の過去や趣味など、およそ人間性という部分は芽吹きますし、作品にも色はつきますが、同時に「何言ってるんだろう」とか、「ここでそれ使うのか」とか「うわあれのやつじゃん」みたいな印象、ないし違和感が生まれる可能性があります。語り手の個性なりは出ていますが、あまり必要性を感じない形でほかの創作物の文章を引っ張ってくるのは、控えてほしかったように思います。後半の文章が丁寧で、しかも独特だったこともあり、この文章は妙に浮いて見えました。

 それから「あ、と閃く。」は完全に心の声なので、心理描写と判断しています。

 あと、「と、昼食難民と化していたら、道の向こうにお弁当の幟がはたはたとはためいていて。」の「昼食難民と化していたら、」も説明でした。それまでの行動から、昼食難民であることは十分に伝わっているので、わざわざ強調する必要もないように思い、引っかかりました。しなくてもいい説明は、避けてほしかったように思います。説明されると、うん、とか、そうなんだ、という印象がどうしても生まれやすく、また描写ではないので、迫ってくるものが薄いですし、前後の描写に泥を塗る可能性があります。ほかの説明的な文章に関しても、言いたいことは同じです。仮に強調するなら、行動や描写でしてほしかったように思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 後半の描写は非常に細かく、「感じ」がよく出ているのですが、前半の語りが生んだ空気感と、反発し合っているように思います。文体が違う、という引っかかりです。文体は、児童遊園に着いた辺りから変わっています。具体的には、そこから描写が異様なほど濃くなっています。なぜでしょうか。考えられる理由の一つは、昼食難民でなくなったからですが、そう考えても、あまりしっくりきません。理由を述べます。

「そうして手渡される出来たての生姜焼き弁当。」というところ。そのすぐ後ろでは、底の熱についての描写があるのに、肝心の生姜焼きのにおいなどに関する描写がありません。生姜焼き弁当だったら、受け取った際に、もっと言えば待っているあいだに、かすかにでもにおいがするはずです。別に生姜焼きのにおいでなくても、たとえばお米の甘い香気でも構いませんし、ほかの人が注文したカレー弁当のにおいでも構いません。ですが、そういった表現はありません。つまりこの時点では、描写が後半に比べるとまだ薄いです。袋ががさがさ鳴る音もありませんし、袋のなかをちらと覗くような仕草もありません。持ち手のところが指に甘く食い込んできたときのかゆみや痛みもありません。お弁当を受け取る瞬間とは、昼食難民ではなくなる、まさに決定的なときです。であるにも関わらず、書かれ方が、昼食難民であったころとそこまで変わっていません。考え方を変えて、食べる瞬間が一番重要だから、そこから文体が変わっているんだ、と捉えるとします。ですがその場合、描写が劇的に濃くなるのは、児童遊園に着いたときからなので、どうにもピンときません。

 結局文体は、児童遊園に着いた辺りから劇的に変わっていますが、変わるなら、お弁当を受け取った辺りから変わっていたほうがよかったように思います。そうでないと、前半と後半の描かれ方の違いが不自然です。なぜこんなにも変わっているのか、あまり納得できません。お弁当こそ、この掌編の肝だから、という態度を取ったとしても、だったら受け取った瞬間が細かくないのは変なように思います。お弁当が真に掌編の核であるなら、その出逢いこそ、徹底的に描かれてあるべきだと感じるからです。語り手はそのとき、とても多くのことを感じ、あるいはたくさんのものに触れ、何よりそのお弁当を、その目で見ているはずだからです。

 前半の空気感は、おかしみのある語り方が生んでいるものです。描写が生んでいるわけではありません。一方後半は、細緻な描写が生んだものです。そのため全体として、雰囲気の調和がどうにも取れていないように感じました。前後にそれぞれ、自立した雰囲気はあるものの、その混ざり方が気になる、という感じでしょうか。

 なお、後半部分の描写の細やかさが生んだ空気感には惹かれましたので、加点しています。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 親しみのある前半の語りも、細かく紡がれた後半の描写も、個人的には好みですが、迫ってくるものがありませんでした。たとえば、空腹感や苛立ちと呼ばれるものが前半で、描写によってもっと描かれていれば、最後の文章が放っている心情も、数倍の厚みを帯び、異質な掌編になったろうと思います。語り的な表現でいくなら、最後まで軽妙に語ってほしかったように思います。肌感覚として、少し物足りなかったです。

 総評。
 前半の語りは軽妙で、後半の描写は細緻でした。だからこそ、説明的な文章や前後の空気感がもたらす不協和音など、細部がどうしても気になりました。掌編全体の色味が薄くなっています。確かに、児童遊園に着いてからの描写はすごく丁寧で、伝わってくるものもあるのですが、前半の空腹感や焦り、苛立ちなど、そういったものが事前に種として蒔かれていないので(厳密には蒔かれてはいますが、語りが軽妙過ぎて昼食難民である瞬間の内面が、種の役割をあまり果たしていません)、芽吹く最後がどうしても薄いです。掌編の核となるものが日常なので、事前によく土を耕して、水を撒き、時間をかけて光を当てないと、最後に残るものが微弱になりがちなように思います。


●29 高野優 『目覚める前もずっと暗い』

 一人称であること、直接的な心理描写があちこちにあること、文量の半分近くが回顧であり、しかもその回顧が描写ではなく、過去にこんなことがあったという形の、要するに説明的な語りであること。それらが、文章全体に強く働きかけ、結果として、残っていた説明調の描写までが心の声に思え、掌編が、完全な独白体に見えてしまいました。何とか点数をつけようとはしたのですが、基準上どうしても難しく、評は書きますが、今回は無評価という扱いになりました。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 表現のほぼすべてが説明的で、心理描写も散見され、文章の半分近くは解説的な回顧でした。そういった、湿っぽいわりにどこか淡白である、という描かれ方自体は、一貫していました。今この瞬間の、目の前のことではなく、過去のことが、多くの文量を割かれて語られるので、一人称ということも相まって、表現全体が独白体、つまり心の声そのままのようにも見えました。掌編総体は、何かの比喩にも見えますし、あるいは冒頭に「夢の中」という解説もあるので、何が起きていても、特に気になりません。統一性のある描かれ方だとは思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。 
「花から零れた蛆虫が彼の肌に落ち、気まぐれに皮膚を破いて潜り込む。」という文章には惹かれました。ただ、「気まぐれに」という表現が気になりました。なぜ蛆虫がそれを「気まぐれに」やっていると、語り手に分かるんでしょう。語り手は蛆虫ではないのに。しかもこの掌編には「私」という主語があるので、一人称です。とはいえ、夢の中という説明も冒頭にあったので、そこまで気になったわけではありません。この文章には、惹かれる「何か」が確かにあります。

 ですが全体として、説明が表現の中心であり、心理描写的な語りも、その多くが、起伏のない平易な表現でした。そのため、異質なのは掌編の核、つまりテーマ、そして、起きている出来事それ自体、という結論に落ち着きました。表現の多くは平らなように感じます。先ほど引用したような、どろりとした表現もあるにはあるのですが、もっと多ければ、と思います。夢のなかのことなので、表現自体は狂っていてもよかったように感じます。核となっているものに比べると、表現の身だしなみが整いすぎているような気がします。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 内面たる「何か」は伝わってきますが、それは掌編全体が説明的なことと、心理描写的な語りが多分に含まれているからにほかなりません。語り手や彼の内側は、五感や動きの描写ではなく、「きっと彼も同じくらいに痛かったはずだ。」という推測や、「それから彼との闘いが始まった。私たちは毎晩のように逃げたり追いかけたり、殴ったり殴られたり、殺したり殺されたりした。ときには相打ちになることもあった。」という説明から香ってきています。台詞や、「彼の一回りくらい大きな手が、」という最後の辺りの文章からは、確かに、登場人物の心がほんのりと漂ってきますが、それでも、完全な説明や心理描写的な語りに支えられた伝達、ということは、無視できませんでした。

 4.基礎的文章力。

「相手が気に食わないのは、私にとっても同じだ。どんな人間であろうと、弱い者いじめをするべきではないのだ。」という思想的なものの提示を中心に、完全な心理描写がいくつも見受けられました。「そして明日も同じようなことをするだろう。どんな形かはわからないが。」は語り手が思ったことそのままですし、「自分の楽しみを邪魔してくる存在が気に入らないようだった。」の「ようだった」も推測、つまり心の声です。「きっと彼も同じくらいに痛かったはずだ。これでおあいこということには、けしてならないけれど。」も同様です。

 また、「八重咲の花びらには蛆が這っていて、でも、とても良い匂いがする。」は「でも」という接続の仕方が原因で、心理描写感、心の声っぽさが生まれており、かつ説明調になっています。「でも」さえなければ、まだ五感の描写らしく見えるのですが、これがあるせいで、独白調に拍車がかかっています。細かいかもしれませんが。ちなみに、「良い匂い」は極めて抽象的な形容です。「良い匂い」かどうかは人によるのと、「良い匂い」の「良い」という言葉には具体性がおよそ一切ないので、表現としてはふわふわしています。厳密には、花びらの描写になっていません。良い匂いとは、具体的にどんな匂いなのでしょうか。じっくり考えてみると、およそ何も分かりません。分かるのは語り手だけです。

 これら思ったことは、今回に関しては、すべて行動なり五感なりで示してほしかったと思います。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
「それから彼との闘いが始まった。私たちは毎晩のように逃げたり追いかけたり、殴ったり殴られたり、殺したり殺されたりした。ときには相打ちになることもあった。」というところを中心に、多くが説明的な回顧です。回顧があってもいいのですが、描写的なものでないと、どうしても淡々と読むことになってしまいます。そうなんだ、うんうん、なるほど、みたいな感じです。そのため、「花から零れた蛆虫が彼の肌に落ち、気まぐれに皮膚を破いて潜り込む。」という艶っぽい一部の文章からも、水分が奪われてしまっているように感じました。説明が原因で、全体の「感じ」がどうしても弱いです。そもそも、「夢の中でだけれど、初めてバラの花束をもらった。」という書き出しからして、すでに説明的です。「夢の中でだけれど、」という形で、この掌編が夢の話であることを、最初に、たった数文字で、すべて説明されてしまいました。夢の話であることは、全体で示してほしかったように思います。そうすれば、何だこれはと、表現総体に異質さも生まれますし、作品に厚みも生まれます。夢の本来持っている空気感や「感じ」が、冒頭の説明によって、どうにも減衰しているように感じました。また「けれど、」という接続の仕方が原因で、心の声っぽさが露骨に出ているような気がします。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 わずかにある艶っぽい文章が、もっと全体に広がっていれば、きっと読み返したいと思ったでしょう。掌編の核となっているものはすごく好みです。核からは、作中人物の息遣いが聴こえてきます。互いにやり合っていることから、人間臭さを感じるので。ですが、表現の大部分が説明的なので、へぇ、とか、なるほど、という相づちばかりが胸に浮かびました。掌編が本来持っていたであろう質感のよさが、消えているよう感じます。

 総評。
 もっと徹底的に描写されてあってほしかったように思います。そしてその描写に、説明されていた事柄を落とし込んで、こちらに伝えてほしかったように思います。私と彼の関係はこんな感じです、とただ説明されても、そうなんだ、という頷きだけしか残りません。その二人の争っている場面が、もっとくっきりと描かれていないと、二人の関係性や過去が、ただ情報としてしか伝わってこず、肌に迫ってこないので、情報以外、何も残らないです。バラを渡されてきつく握らされた、まさにその場面だけが、これでもかというほど細緻に描かれてあれば、きっと度肝を抜かれたと思います。艶めかしい表現もあったので、余計にそう思いました。


●30 青樹ひかり 『愛。』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 ほぼすべての描写が説明調で、形容も抽象的ですが、文章自体は極めて個性的です。魅力ある表現の散りばめられた、生きた文章のように感じます。書かれ方は一定で、破綻などもなく、生じている出来事に関して、引っかかったところはありませんでした。掌編の核となっているものは、よく輝いているように思います。語り手の息遣いが聴こえてくる、温かく冷たい表現でした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
「毛穴から酸素の匂いがしない。」という描写を筆頭に、表現は極めて独特なように感じます。文章には起伏があり、肺のように膨らんではしぼむ、命ある文章のように思いました。だからこそ全体の、説明的な部分が少し気になりました。引用したところと、「アダムが喉に林檎を詰まらせた名残だから、水を飲んだら微かに林檎の味がするのだと嘯いた横顔。」と、「太古の男が口にした林檎の味を知るために、喉元を喰い破る勢いで骨の出っ張りを噛んだこともあった。」という文章には強く惹かれたので、それぞれ加点しています。ただし二つ目の引用は、「だから」という接続の仕方が原因で説明調になっており、三つ目の引用は「あった。」と過去形で、どの表現を見ても、どうにも説明的なところが、少しだけ引っかかりました。とりわけ三つ目の引用。回顧する形であったとしても、その噛んだ瞬間の描写を、まさに見せてほしかったように思います。表現の艶めかしさは端々から感じられるので、たとえ過去の出来事でも、生々しく描写することができたように思います。そしてそのほうが、より肌に迫ってきたような気がします。ただでさえ強烈な文章なので。「すべては置き去りにした日々の中の出来事。」という形で、締めないでほしかったです。もっと、語り手の動きに触れたかったです。より迫りたかったです。そう思うのは、語り手が、まさに生きた人間に見えるからです。この語り手に激しく魅力を感じ、より近づきたいという欲求が、胸のなかで暴れているからです。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「太古の男が口にした林檎の味を知るために、喉元を喰い破る勢いで骨の出っ張りを噛んだこともあった。」を中心に、多くの行動や描写には、語り手の内面が濃く映っているように感じます。その呼気は確かに感じられます。ただ、やはり説明的なので、その香りが若干薄くなっているような気がします。先の引用だと、「太古の男が口にした林檎の味を知るために、」は、そのすぐあとの動きの説明、理由の直接的提示になっています。どういうふうに噛んだのか、歯や舌、唇の動きなど、より詳細に描いてほしかったです。「林檎の味を知るために」それをやったということを、動きや五感でも表現してほしかったように思います。そのほうが、噛むという生々しい描写に、行動に、なにより作中人物の内面に、より艶が出るような気がします。表現の色艶は異常なのですから、それをもっと、もっと、見せてほしかったように思います。

 4.基礎的文章力。
「そして唇の色を決めるのは血潮なのだと、あらためて知る。」は心理描写だと判断しました。「あらためて知る」ことを、その前後にある表現群に、完全に落とし込んでほしかったように思います。文章は本当に湿っぽいので、ただでさえ強烈な生々しさを、より感じさせてほしかったように思います。

 それから「輪郭の骨のかたちを記憶する。」というところが、その前の行動の説明になっています。行動が、十指の細かい動きで表現されてあれば、「記憶する」と直接的に示さずに済み、結果として、生々しさが増したように思います。ぞっとするほど艶やかな文章ばかりなので、突き詰めてほしかったように感じます。たとえば、「毛穴から酸素の匂いがしない。」。こういった異質な表現に、もっと触れたかったです。この掌編でないと触れられない質感というものは、確かにあるよう思います。なので、質感豊かな表現がもっとあれば、あるいはその質感を薄めるような説明が少なければ、と焦がれました。

「私が汗をかくのは、生きているから。」や「ここからは、ひとりで帰るのだ。」という心理描写的なにおいがする説明もそうです。ここはワンセットで心理描写だと判断しました。まさに「私」が「生きている」ことを、「ここからは、ひとりで帰る」ことを、汗を、周囲を、より細かく描写するなどして、表現してほしかったと思います。そのほうが、この掌編の元々ある輝きが、うんと増すよう思います。同時に、悲しさや淋しさや苦しさや悔いなど、様々な言葉で形容できうる、語り手の内面に、より近づけたような気がします。何より、題名にある「愛」なるものが、より勢いよく迫ってきたように思います。語り手の心は、表現に確かに映り込んでいるので。

 また、細かいですが、表現の抽象性で、気になったところがあります。「そこから左右に広がる肉の薄い頬には、いつか見た遠い惑星の写真に似た髭の剃り跡が、青黒く残っている。」というところの「いつか見た遠い惑星の写真に似た」がそれです。それがどんな惑星なのか、具体的にどんな写真だったのか、ほんの数文字でもいいので、形容してほしかったと思います。そうでないと、どうしても伝わってくるものが薄くなってしまいます。言いたいことはもちろん見えますが、ほかの表現の質感がとてもよく、文章が全体的に非常に湿っているので、ここもより湿っぽく、語り手の目に見えるものを、確かな形で見せてほしかったように思います。

 なお、表現力には尋常でない求心力があるので、加点しています。震えました。今回は立てた基準に則って点をつけており、結果としていろいろと述べさせていただいていますが、それらすべてを取り除き、一編の掌編として見ても、個人的には、異様なほど輝いているように感じます。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 艶っぽい、極めて繊細な描写群が、掌編全体に生々しい雰囲気を生んでいるよう感じます。語り手の生々しさなるものが、端々から滴っています。「囁く声に頷き、私は釘打ちの石を握る。取り落とす。」などはそれが顕著です。だからこそ、心の声的な文章や、説明的な温度の高い表現の存在が気になりました。もっともっと描写されていたら、この空気感は、ますます強烈になったように思います。とはいえ、表現それ自体は、説明臭さの大部分を掻き消す「何か」を、確かに持っているように思います。掌編の核と表現の色艶がぴったり重なっている、ということが、大きいのかもしれません。いずれにしても、非常に個性的な表現であり、まさに圧倒されたこと、お伝えしたいです。読むたびに胸が高鳴り、思い出すたびにぞくりと震えます。自分にとって、極めて異様な「感じ」を持つ、異質な掌編でした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 艶めかしい表現群に、繰り返し触れたいと思いました。どくりと胸の震えるような、個性的で印象深い描写がいくつもあり、この掌編にしかない「何か」を、文章全体から強く感じました。掌編の核が持っているにおいに、表現の色艶が深く深く絡みつき、異質な文章として、完全に自立しているように思います。まさに語り手が、そこにいるように見えました。眼前で息をしていました。人間が感じられるということは、非常に魅力的なことだと思います。

 総評。
 説明や心理描写が、空気感や質感を、多少損ねているように感じますが、それでも、動きや五感の表現自体が恐ろしいほど生々しいので、その引っかかりは薄まり、もっとこの文章に触れたい、と何度も思いました。端々まで細緻に描写されてあれば、表現されてあれば、より劇毒的な掌編であっただろうと思います。

 いろいろと述べてきましたが、表現力は極めて異質なように感じます。文章が持っているこの艶美な質感は、決して忘れられません。語り手の「愛」なるものに、文字通り迫ることができました。それが、この掌編がまさに息づいて見える理由です。読んでいて胸が圧迫されるほど、息苦しくなるほど、力強い掌編でした。語り手という人間に激しく惹かれ、近づきたいと、何度も何度も思いました。出逢えてよかった。そんなふうに思っています。

読んでいただき、ありがとうございました。