「原稿用紙二枚分の感覚」 評06〜10

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。

●06 

 参加者の方が作品を削除されましたので、評も取り下げています。


●07 優まさる 『観覧車が見える。』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 文章全体からは、淡々とした印象を受けました。作中人物に関する容姿の描写はほぼなく、「妻」や「娘」という単語の抽象性が、全体を通して人間を淡く縁取っていました。書かれ方は一貫しています。記号を用いた場面転換はありましたが、統一性は乱されていません。すべてが楽譜のように進んでいきます。気になるところはありませんでした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。 
 個々の表現は平易ですが、全体を通した自然描写には心奪われました。「太陽が、観覧車の影をアパートの列に映し出す。左カーブに孤を描く影。」などがその代表です。一つ一つの表現は一見素朴に見えますが、実はよく磨かれていて、表面に傷のない玉みたく感じます。項目の基準上、異様な表現を求めましたが、個別の特異な表現は、仮にあった場合、この掌編には邪魔かもしれません。

 文章全体としての淡い輝きは異質でした。引用した文章と合わせて加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 それぞれの行動が細かく書かれているわけではありませんが、その内面はよく伝わってきました。自然描写が、登場人物の内面の香りを、下支えしているように思います。また、作品のなかの世界で起きている出来事、そしてそれを家族がどう受け止めているのか、というのが、淡い色彩でよく感じられました。「観覧車、また、乗りたいね。」から「乗ろうね。」までの会話文は、その直接的な言葉の奥にある心情が、ぽっと香っていました。全体を通して、人の内側がたとえ明確でなくても、はっきりと伝わってきました。

 4.基礎的文章力
 採点時に明確な誤字がありました。「昭和の時代に建てれられた白い4階建てのアパート」というところです。

 またこの部分は、「昭和の時代に建てられた」とあり、説明の色を帯びています。作中人物が生きている時代は、推測はできますが断定はできません。アパートが古い、ということが伝えたいんだろうと思いますが、だとしたら、その外観で表現してほしかったように思います。ほかの自然描写はとても丁寧なので。

「私たちは、観覧車から見えたアパートのあの部屋に引っ越した。」という一文に関しては、そこから後ろの文章を読めばすべて分かることなので、後ろの文章の存在が、この行動を示した一文に、説明の色を足しています。「春から住むことになるだろう部屋の窓に差し掛かった時、」の「春から住むことになるだろう」も、細かいですが同様です。

 また、「新調したカーテンは、ちょうどいい大きさだ。」の「だ」が気になりました。心理的な匂いが若干濃くなっているような気がします。「だった。」だったら、多分気にならなかったでしょうが。とはいえ、あまりにも細かいですし、明確な心理描写かは不透明なところもあるので、減点はしませんでした。ただ、ほかの文章の色と比べるとちょっと、という感じを覚えたことは、明言しておきます。

 全体を通して、丁寧に磨かれた球体のような文章であるからこそ、細部の、ちょっとした傷が気になりました。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 形容されていない名詞の抽象性も相まって、淡さが文章全体から垂れています。「止まったままの観覧車。」の辺りからも、しっとりとした空気感が漂ってきます。語り手やその家族の行動全体からも、生の暖かさと淋しさ、とでも形容できる「何か」を感じました。人間の呼吸が、その息のにおいが、確かに存在している掌編でした。

 ただ、夏の熱っぽさやぎらつきがもう少し感じられたら、とは思いました。表現全体が淡々としており、描写にも抽象性があるので、夏の粘っこさが少し弱いです。また、後半の春の空気感が、淡々とした文章に支えられる形で存在感を放ち、前半の夏の存在を喰っています。夏と春の差は、明確な形で感じたかったと思います。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 淡色に浮かんだ、人のおぼろげな心理に触れたとき、もう一度、という気持ちが湧いてきました。そうして改めて触れて、そっと心にしまっておきたいと感じました。暖かい掌編でした。この掌編は数ヶ月、あるいは数年という単位で、ふっと読み返したくなる、そんな作品だと思います。

 総評。
「人間」が感じられる掌編でした。全体の自然描写が、語り手の心情の鏡になっています。行動全体や一つ一つの動作から、作中人物の「何か」を感じました。ところどころにある抽象的な表現もそれを支え、観覧車が止まってしまった理由も、明言されていません。結果、抽象性と溶け合う、鮮やかな広がりがありました。箱にしまって、棚の奥へ。そんなふうにして、大事に隠しておきたくなるような、そんな作品でした。


●08 おべん・チャラー 『カレーの日』


 文量は短めですが、その短いなかに心理的な語り、作中人物の思ったことが大量に混ざっていました。今回、五感と自然描写と動作のみで書かれた掌編を求めましたので、採点の基準上、点はつけられませんでした。評は書きますが、無評価という扱いになります。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 陽気さの漂う文章で進んでいきます。語りが中心で、乱れも感じられません。破綻も見受けられませんでした。作中人物のカレーに対する想いで、ほぼすべてが直接編まれています。なので、統一性はあります。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 個々の表現で色の違うものはありませんでした。動きの描写はほぼなく、語り手の思ったことがそのまま文字になっており、結果として軽妙さがよく出ています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 カレー好きということがこれでもかというほど伝わってきますが、それは語りだからです。作中人物の思ったことが、そのまま文字として垂れているからです。心理描写は省いてほしかったように思います。今回、心理描写的な表現をせずに、心理を構築してほしかったですし、人間を描いてほしかったです。

 4.基礎的文章力。
「何だかいつもより豪華に見えるワンプレート」のところ。いつもより豪華に見えるなら、それを視覚や嗅覚を用いて表現してほしかったように思います。このままでは描写ではなく、ただ思ったことという色が濃いです。

 また、「有名店のとっておきのスパイスが入っている訳でもないのに、ご飯にかけたカレーは何故か私達日本人を沸き立たせる。」も同様です。それを肉体の感覚で描いてほしかったように思います。さらに言えば、カレーが嫌いな日本人もいます。一人称の小説で、語り手が自らの感覚を突然敷衍し、「私」が「私達日本人」というレベルにまで広がると、違和感を覚えます。理由がほしいですが、そういったものは特に感じられませんでした。語り手の個人的なカレー愛、そしてそのカレーと病院との対比、が作品の核に見えるので、みんな惹かれる(に違いない)食べものだ、ということを伝える部分は、この短い文章中に、本当にあるべきだったでしょうか。

 それから、「食欲をそそる、あの匂い。」は抽象的です。そもそも、食欲をそそられるかどうかは人によりますし、「あの匂い」だけだと、どんな、という思いが消えません。カレーのにおいにもたくさんあります。カレーのにおいは一種類ではないので、描写してほしいです。仮に語り手には一種類だったとしても、それがどんなにおいなのかは、描写しないと伝わりません。カレーについての掌編で、カレーを曖昧にしないでほしかったと思います。カレーにすべてをつぎ込んでほしかったように思います。「優しい辛味」も抽象的です。「優しい」は、形容する表現として極めて曖昧です。

「白いご飯と魅惑のルウを等しく混ぜて食べる人もいるけど、私は形を崩さずに食べる派。すでに完成された調和に、手を加える必要など無い。」は、動作を丁寧に綴れば示せたと思います。語らないでほしいと感じるところがいくつもありました。「魅惑の」も抽象的です。「白いご飯」は艶や湿り具合、硬さなどが描けたはずです。

 なお、語り手の感覚が全体的に抽象的なので、カレーの描写が抽象的でもいいかな、とも思いましたが、カレーに対して語り手の心は全力で食いついていますから、抽象的なら抽象的な形で、もっと描いてほしかったように思います。抽象的かつ表現の文量が少ないため、どうにも違和感がありました。本当にカレーが好きなら、もっと細かく語るはず。たとえその表現方法が、どれだけ曖昧だったとしても。好きだけど細かく語らない、あるいは語れないなら、それが伝わってくる理由がほしいです。病院にいる人、というだけでは納得できません。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 病院という場所にいながらも、文章全体にはどこか軽さがあって、「感じ」は確かに出ています。でもそれは、語りや思ったことが生んだものです。今回、動きや五感で、全体の雰囲気を漂わせてほしかったと思います。語りは聞いていて楽しかったですし、愉快な感じのなかに、どこか淋しさと呼べそうなものも感じましたが、採点はできませんでした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。

 再読というよりは、カレーが食べたくなりました。

 総評。
 窓の外、あるいは動作の描写が多少あるなかで、大部分は語りと思ったことでした。そのため、今回は採点できませんでした。ただ、カレーがほしくなったのは事実ですし、語りを聞くのは愉快でした。五感という文字で、登場したカレーをもっともっと、煮込んでほしかったように思います。そうすれば、もっとたくさんの何かを、濃く伝えられたはずです。カレーに関する表現が曖昧だったので、どうしても物足りなく感じてしまいました。

●09 slaughtercult 『山伏神幸小噺』

 題名に小噺とある通り、語り。全体を通して喋りで構成されています。その性質上、文章はどうしても説明という色を帯びます。今回求めたのは、五感と自然描写と動作のみで構成された掌編です。熱かった、冷たかった、硬かった、臭かった。眼前に広がる山は蒼く、裾は薄茶だった。立った、殴った。そういったもので文章を編んでほしかったので、説明の色が濃いと、どうしても気になります。ただ、直接的な心理描写は少なかったように思います。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 文章は一本調子の語りで始まり、終わります。全体を通して、行動に関する表現も多く出てきます。そしてそれらの多くは、説明の色を帯びています。調子は一貫しています。統一性、という観点で見るなら、特に気になるところはありません。

 ただ、「その村に生まれた子供は皆、八歳を迎えたある時に、神隠しに遭って消えてしまうものだから、働き手の若者たちは祟りを畏れて村を捨て、村に残った者は年寄りばかりであったという。」という描写がありながら、若者が娘と村に居続けたのはなぜか、どうして若者は成長できたのか、など、気になる部分は多々ありました。ですが、それらすべての理由は、想像しようと思えばできました。一応納得しようと思えばできました。ましてや小噺です。矛盾、破綻などがあっても問題ないと判断しようと思えば可能です。ただし、この引っかかりそれ自体は、許容できないレベルにあるのかもしれません。小噺として、もっと細部を練ることができたのでは、とも思いました。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 ほぼすべてが語りであり、文章には説明、解説の色がついています。平易で読みやすい、という印象がすべてでしょうか。異質だと感じられるような、個々の文章はありませんでした。ただ、音読、あるいは語り方によっては、異様な物語になるかもしれません。自然や五感、動きの「描写」が異質かどうかが見たかったです。採点の基準上、評価が難しかったです。
 とはいえ、全体のどこか湿っぽい感じには惹かれたので、その部分で加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 若者の娘を想う気持ち、老人たちの山伏への恐れなど、心情は伝わってはくるものの、それはこの文章が小噺であって、ほぼ説明、解説だからです。若者の行動全体から、若者の心は確かに伝わってきますが、説明によって支えられた伝達、という意味合いが強いように思います。

 4.基礎的文章力。

 説明ではなく、描写がほしかったです。たとえば冒頭にある、村には若者がいないという説明や、子どもは八歳でいなくなるという設定は、村の様子を、人々の生活を描写することで描いてほしかったです。山伏の恐ろしさが老人たちの台詞で伝わってくるところも、掌編全体の文が説明調なので、ここにも説明の色がつき、村人たちの恐怖がいまいち伝わってきません。厳密に言えば、伝わってはきますが、色があせています。「年寄りたちは祟り場だと言って忌み嫌っていた。」も、説明的です。忌み嫌っている老人の仕草や振る舞い、声などを、何らかの形で描くなりして、表現してほしかったです。字数の制限上、そこまで描写するのは難しいかもしれませんが。ただ、たとえ語りであったとしても、説明の色味を淡くすることはできたはずです。「山伏は若い娘を抱えていた。それは若者の消えた愛娘であった。」の「それは消えた愛娘であった。」もそう。説明せずに、若者や娘の視線、瞳、体温、声色などで、十分表現できたはずです。小噺であっても。

 また、「鐸という奇妙な形の鈴がついた杖を打ち鳴らして歩いておった。」の「奇妙な」は抽象的で、心理を直接的に描いているようなにおいが香っています。奇妙かどうかは人によります。また「奇妙な形」だけでは、どんな形か正確には分かりません。「鐸」を細かく描写すれば、奇妙かどうかは表現できたはずです。抽象性が高過ぎる場合、それは形容する語にはなりません。なりうるかもしれませんが、極めて曖昧で、文章中にはめ込むと、多くの場合は相当ふにゃふにゃします。「奇妙な」という抽象性が足されているなら、納得できる理由なりがほしいです。それがない、または弱い場合、この抽象性は、違和感のある、夾雑物になり得ます。「しゃらん、しゃらんと不思議な音が聞こえた。」も同様。「不思議な音」って具体的にどんな、と問いたくなります。また、「しゃらん」という擬音が適切なのかどうかも気になりました。ただ小噺なので、不思議や奇妙という形容があってもいいかなと、思いはしました。ですが、なくてもいいものがそこにあるので、やはりそれなりに気にはなりました。これらの形容によって、小噺らしさは一見すると出ていますが、ほかの表現方法で小噺らしさは出せたはずなので、なんでこの語がここに立っているんだろう、という感覚が、どうしても残りました。

 全体的に、明確な理由や「何か」が感じられないままに抽象性が足された名詞が多くあり、説明調で構成されていたこともあって、あちこちで引っかかりました。説明調であっても、細かく描写されていれば、また違っていただろうと思います。抽象性の高い、おおざっぱでざっくりとした語りは、説明の色が濃くなります。そしてそういった語りだと、聞き終わったあとに、へぇ、とか、そうなんだ、という感想だけが生えてきて、小噺の核になっているもの、たとえばテーマなどが、一切胸に芽生えません。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 語りの調子は最後まで変わっていないので、暗い雰囲気は出ています。

 ただ、「山伏は夜の闇に消えたとさ」の「とさ」に軽さを感じました。全体の重さが、ここで切り裂かれています。最後の最後に、かすかにとろみのあった空気感が一変しています。ここは重く見ました。小噺だからといって、「とさ」で終わる必要があるとは思いません。何か理由がない限り、雰囲気は全体を貫く存在であってほしいです。終わらせるためだけに置かれてあるようにしか見えず、違和感しかありません。小噺であっても、軽妙さが邪魔なときはあります。確かに娘は救われていますが、この小噺の、物語上の終わり方では、最後の文の妙な軽さを支え切れていないように感じました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 一度聞けば、小噺としては十分でした。ただただ物語の提示であって、心をわし掴んでくる「何か」は感じませんでしたが、お喋りとしてはありだと思います。どちらかと言えば、知っている人の声で聞きたい、そんな作品でしょうか。

 総評。
 小噺なので、文章は説明で濡れがちでした。ですが、たとえ小噺であったとしても、描写がほしいと思いました。また、一つ一つの動作を、行動という大きなくくりでまとめて描いてしまうと、どうしても説明に見えがちです。例を挙げます。

 こたつの上の、白くて丸い鏡に映っている、薄紅い口紅で覆った厚い唇を、角度を変えて眺めながら、机上のスマホに右手を重ね、視線を垂らし、人差し指で、つるつるとした画面をゆっくりと撫でて、そっと持ち上げた。

 これなら描写です。ですがこれを、出かける準備をして立ち上がった、と大きく書けば、説明の調子が香り始めます。この掌編は、動作全体が大きな行動として描かれていることが多く、語りという性質も相まって、文章の大半が、説明や解説にしか見えませんでした。説明は描写ではありません。ただ、語りそれ自体、語られた内容それ自体には、小噺感がありました。子どものころに図書館で聴いたりしていたら、きっと思い出に残ったでしょう。小噺は、五感や動作、自然描写と、あまり合わないのかもしれません。だとしても、そういったものが多分に含まれた小噺だったらと、今回想像しました。


●10 siv@xxxx 『どないもならへん』

 採点時、字数をカウントしたのですが、どのやり方でも若干オーバーしていました。こちらのミスかもしれないので、複数のツールで何度も試したのですが、どれもやっぱり超えていました。3文字の超過です。ただし確認したところ、

「ただいま五千円札を切らしておりまして」 返ってきたのは千円札が8枚と五百円玉1枚、百円玉4枚。

 というところに、空白が一文字ありました。台詞の部分と、「返ってきたのは」のあいだに、スペースが一つあります。今回、空白は字数としてカウントしないことにしているので、実際の超過は2文字だと判断し、合計点から2点引いています。

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 丁寧な文章と方言で編まれた掌編で、描かれ方は一貫しているように感じました。なぜ、と問いたくなるような行動もありません。すべてが何らかの形で想像できます。また、細かな動作もあれば、大きなくくりとしての行動も随所にあります。全体を通して、統一感という穏やかな波が打ち寄せ続ける掌編でした。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 全体的にやわらかい文章で編まれているように感じました。「『ただいま五千円札を切らしておりまして』コンビニ店員の真似をしながら一万円札を抜きエイジに差し出した。」という部分に、ミカの個性が色濃く現れていて、心奪われました。思わず笑ってしまったくらいです。また、方言は滑らかで、違和感もなく、惹かれます。個々の表現の多くは平易なので、項目の基準上減点しましたが、部分部分に鮮やかさを感じました。結果、文章全体に特異さが生まれています。「エイジと焼肉を食べ支払いを終えるとまたスリムな形に戻った。」や「『PayPayで』ミカはスマホを店員に向けてから「やっぱし現金で」と言い直した。」も、多くのことが含まれている、心奪われる表現でした。

 引用した三ヶ所は特に心奪われたので、それぞれ加点しました。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 冒頭の現金で支払ったところ、店員のまねをするところ、折りたたみ傘を投げて渡すところなど、ミカの動きからはその内面のしずくが確かに滴り、絶えず飛び散っています。ドアのそばに立ったところも同様です。重要だと思われる動作にはすべて、ミカの内面が映り込んでいます。ミカの気持ちは、もちろん完璧には分かりませんが、それでも多くの「何か」が感じられます。感じられるものが非常に大きかったです。ミカの心の縁に、そっと触れることができる掌編でした。

 4.基礎的文章力。
 ところどころに説明の色があります。冒頭の、「天気予報では今日の降水確率は50%だといっていたのにすっかり忘れて家を出た。」はその例です。「ふたりで8千円というのがええ値段なのかどうか、ミカは知らない。エイジはスロットでそれくらいの金額を1時間で軽く使い切るし、ミカはバイト先のスーパーで8時間レジを打てば同じ金額をもらえる。」も同様です。「京橋で乗り換える時にまた傘を買わなくてはならないほど。」は完全に説明です。その前の、「雨が激しくなってきていた。」で、いずれ傘を買わないといけないことは、十分伝わってきます。実際にミカが買って帰るかどうかは別にして。なくても伝わるものには理由を求めます。強調のため、という見方は可能です。ですがその場合でも、説明という形ではなく、何らかの描写で強調してほしかったとは思います。できたはずなので。とはいえ、ここは細かいところです。

 問題は最後の「エイジには言わなかったが、今日はミカの誕生日だった。」というところ。掌編全体の、完全な解説、説明になっています。誕生日だということは、描写で示してほしかったです。たとえば友人からメッセージが届いて、それを見たときのミカの表情や仕草、態度など。描写のやり方は別に何でも構いませんが、「誕生日だった。」と直接的に説明されてしまうと、それまでのミカの動作に落とし込まれていた内面に、濃い色が、荒っぽい感じで足されてしまいます。誕生日だということは、ミカの動きなどに忍ばせてほしかったように思います。焼肉だって食べていたんですし。そうすれば、ミカの動作に映り込んでいた心情は、より生々しくなったはずです。説明だと、文章がどうしても乾いて見えます。

 ただ、文章全体が生んでいるミカという人間の存在感は異様で、その表現には圧倒されました。まさに生きていました。文章が持っている表現力には惹かれたので、加点しています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 雨の湿った感じ、ミカの心の暖かく寒い感じが、文章全体に漂っています。ミカが店員のまねをするところには、ミカという人間の「感じ」がよく出ているように思います。生きた人のように感じました。とても生々しい雰囲気が、全編で香っています。だからこそ、最後の解説的な文章が特に気になりました。雰囲気がドーピングのような形で、過剰に荒々しく増幅されています。根幹から崩れているとまでは感じませんでしたが、説明ではなく、描写で表現されていれば、この掌編が持つ空気感は、地に足をつけた形で増し、より堅牢になっただろうと思います。

 また、鶴橋や京橋という駅名や方言は、全体の色を下支えしています。特に、訛りやイントネーションは、その個人の、それまで生きてきた証です。掌編全体に過去が添えられ、厚みが増しています。違和感もなかったので、ここは加点しました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 ミカが店員のまねをするところが決定的でした。傘を放り投げて渡したところなどと合わせて、心が見えます。ミカの内面や息遣いにもっと触れたいと、読み返すたびに思いました。ミカが生きた人間であるからこそ、激しく心が揺さぶられました。まさに「何か」を強く感じられる掌編でした。人間が描かれている、極めて異様な掌編でした。

 総評。
 ミカという人間の生々しさが、複数の動作に色濃く映り込んでいることが、この掌編の肝のように感じます。説明も多いですが、それがあまり気にならなくなるほど、ミカの動作の描かれ方に惹かれました。ミカという個性が、動作の端々に出ているからこそ、心情が多分に含まれているからこそ、再読したい、ミカの心にもっと近づきたいという欲求が湧きました。店員のまねをしたところは、くすくす笑いました。笑いながら、ミカの心の縁に触れ、形容しがたいたくさんのものを感じました。胸がきゅっとなりました。解説のような説明さえなければ、この掌編の存在感は、より圧倒的になったように思います。好みの問題かもしれませんが。いずれにしても、極めて異質な掌編であったこと、お伝えしたいと思います。『どないもならへん』という題名が持っている「感じ」も、特異でした。大好きな掌編です。

読んでいただき、ありがとうございました。