「原稿用紙二枚分の感覚」 評31〜35

 評を読む際は、以下の記事を参考にしてください。
 また、敬称は略してあります。


●31 亀山真一 『この道を進む』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 極めて平らな表現と台詞だけで、最後まで構成されています。およそ一切の名詞に形容がなく、何もかもが非常に抽象的で、こちらで多くを補完しなければならないというその書かれ方は、一貫しているように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 大部分が台詞であり、台詞は表現の柱になっていますが、そこから色艶がほとんど感じられませんでした(理由は後述します)。そのため、個々の描写におよそ異質さは感じられませんでした。掌編の核となるものが日常的な一瞬間なので、平坦でもいいとは思いますが、あまりにもまっすぐであり、表現総体が極めて抽象的かつ無機質なので、ただ台詞が淡々と続いていくだけ、本当にただ台詞があるだけ、という印象が強かったです。ここでの基準上、評価ができませんでした。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 肝心の会話文が無味無臭で、個々の人物の色がほぼ伝わってきませんでした。台詞がただ置かれてあるだけのように見えてしまい、台詞が、生きた人間の声に聞こえませんでした。

 また、完全な説明も存在し、確かに、情報として内面なるものは伝わってはくるのですが、作中人物の息遣いや生々しさなどは、およそ一切感じられませんでした。文字に含まれている一般的意味合いだけにしか、触れることができませんでした。

 全体を通して、台詞が、文字通り「台詞」というものにしか見えない。要するに台本的に感じてしまう。これが、作中人物が人間に見えない理由の一つです。もちろん、台本的な小説でも構わないとは思いますが、それでもなお、人間がいてほしかったように思います。この掌編に関して言いたいことは、およそこの一点に集約されます。

 4.基礎的文章力。
 登場人物の容姿に関する描写が限りなくゼロなこと、台詞に色がついていないこと、具体的なことが描かれてあるはずなのに、その表現が極めて抽象的なこと。以上の理由から、誰が何を言っているのか、分かるけれど分かりにくい、という現象が起きています。冒頭に提示された二人の名前の字面も似ていますし、そもそも名前を出す必要性があるのかも不明でした。もし本当に、二人が生きた人間なら、「おい」とか「お前」とか「こいつ」とかだけで、すべてが十分見えてきます。相棒、という表現もありますし。ですが、名前が書かれてあるにも関わらず、ほんの一瞬、どっちが誰で、誰が何を喋っているのか分からない(頭では分かっても肌では分からない)ということは、この掌編から、人間が感じられないことを意味します。その結果、キャラクターづけをするためだけに名前が置かれてあるように感じ、余計に無機質な感じが生まれています。

 また、最初にモノマネをしていますが、どんなモノマネなのか一切不明です。声が甲高いのか、口元が尖っているのか、肩が上がっているのか。この時点で、先生という記号と、その真似をしているという設定のワタルなる記号が、ただそこに座っているようにしか見えず、同時に、アユムの見た目なり特徴なりも一切不明で、ただ野球をやっていたという設定しか分からず、結果として、三文字のカタカナ二つがただいるだけ、のようにしか見えませんでした。結果、台詞からは、本来あるはずの艶やおかしみがあせてしまい、ただただ台詞、という印象だけが残りました。そのため、文章自体は平易であり、読むことそれ自体は苦になりませんが、表現としては非常に読みにくいです。

 そして、「豪語するアユムは運動音痴だ。それこそ小学生の頃からずっとバッテリーを組んでいた俺が言うのだから間違いない。それでいて頭の回転が速く、周囲に勝負センスがあると思わせ続けてきた男である。」という設定の開示的文章が決定的です。この部分を会話や行動で示さないと、アユムはただの記号にしか見えません。結果、そのあとに続く駄弁的な台詞群からは、本来あったはずの、親しみなどの色が完全に失われ、掌編すべてが極限まで抽象的になってしまい、題名や「まあ一本道なんてつまらないしな」という表現が示している掌編の核も、完全に消えてしまっています。この文章のなかには、およそ人間も、日常も、存在していない。そんなふうに感じました。プロット的、台本的と言えばいいのでしょうか。いずれにせよ、人間なり心なりに触れたかったです。読んで感じたことのほぼすべては、この一言に落ち着きます。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 すべてが抽象的で、個々の文章に色がなく、それでいて作中人物がまるで見えてこないので、迫ってくる「感じ」が一切ありませんでした。もちろん、二人のとろりとした内側を、想像することは可能です。ですがそれは、この掌編から滴ってくるものではありません。似たような場面において、これまで自分が感じてきたものを、あるいはほかの創作物で触れてきたものを、ただ思い返しているだけです。語り手固有の心理や感じ方に触れているわけではありません。今回、語り手の感覚に触れることを望んでいました。漂う空気感はなく、基準上、採点できませんでした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 作中人物が記号にしか見えず、表現も真っ平らで、読み終わったあとに残るものがありませんでした。それに尽きると思います。「まあ一本道なんてつまらないしな」という台詞だけが、唯一かすかに、作中人物の内側なるものを滴らせていましたが、全体が無機質なので、そこですら、ただの台詞に見えてしまいました。

 総評。

 ただ台詞を書いたからといって、それが人間の会話の「描写」になるわけではないと思います。喋り方、声の出し方、言い方、語彙。話すことには、その人間が出ます。出るはずです。言語とは個人です。ましてや二人は十代のはずです。なのに、およそ個人なるものが一切出ていません。出ているのは情報、プロフィールだけです。そして、プロフィールなるものだけで個人をしっかりと表現することなど、およそ不可能です。結果、掌編からは完全に色が消えていました。あるはずの核も見当たりません。この掌編に存在している二人が人間に見えない、ということが、言いたいこと、感じたことのすべてです。台詞だけでも、十分生きた人間を描けるはずですから、読んでいて、どうしても物足りなく感じました。字面だけにしか触れられなかった、という感覚を、読み返すたびに抱きました。生きた人の声を、聞かせてほしかったように思います。二人が生きた人間であるよう、あらゆる部分を補足しながら、思い描きながら読むことはもちろん可能ですし、そういった小説でも構わないとは思いますが、その場合、もはやアユムとワタルなる人物は消え、こちらが作ったまったくの別人が、そこにいることになってしまいます。今回、アユムとワタルという、生きた個人を見せてほしかったです。文字ではなく、動きを、感覚を、人間を読ませてほしかったです。

●32 umaveg(うまべぐ) 『アスファルトの上の陽炎』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 説明調の短文が、淡々と重ねられ続けます。作中人物の容姿や登場する名詞群などはほぼ描写されず、表現の大半は抽象的かつ曖昧です。そのため、書かれ方は一定ですし、乱れもないように思います。破綻などもないよう感じます。統一性という観点から見れば、文章は確かにまとまっています。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 文章は全体を通して極めて平易なように感じました。「ほのかに甘い香りが漂う。目が染みそうないつものシーブリーズの匂いではなかった。」という部分の前半には惹かれましたが、後半部分がどうにも説明調で、文章が持っている香気が薄まっているように思います。「いつもの」香りでないことが、体の動きなどで表現されてあればと思いました。何度も嗅ごうとするとか、首をひねるとか。説明ではなく、いつもと違うと感じたときに生じる、語り手特有の動きが見たかったです。多くが短文であり、駆けるようなリズム感には満ちているので、もっと細かく描写されてあればと思いました。登場する名詞の多くは描写が極めて薄いので、説明調と相まって、表現全体が痩せて見え、かつ透けているよう感じました。掌編の核となっているものに比べると、表現が頼りないです。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「カバンの紐には一緒に買ったはずの投手のキーホルダーが消えていた。」という、最後の辺りの文章を中心に、作中人物の内面はたなびいているよう感じます。ただ、どうにもト書的なのと、全体的な描写が極めて薄く、多くが抽象的なので、心なるものが薄いです。悠太の容姿なりグラウンドの様子なり、もっと丁寧に描写されていたほうが、題材など、掌編の核となっているものが生きるように感じます。本当に淡く伝わってくるがゆえに、物足りなく、もどかしいです。説明的な部分も、作品から人間の存在を奪っているよう思います。

 4.基礎的文章力。
「ジ、ジジジーィ!」と「油蝉の鳴き声が尻すぼみに止んだ。」は表現していることが同じです。であるなら、どちらかはいらないように思います。強調、というふうに見ることも可能ですが、だとしたら「ブルルルル」と「悠太のスマホの振動音だ。」というワンセットの存在が気になります。結局、後ろの文が前の擬音の説明になっており、そしてその説明がなくてもなんの擬音かは想像がつく以上、なんでそこにいるの、という文章の存在が、どうしても目についてしまいます。

 また、「カバンの紐には一緒に買ったはずの投手のキーホルダーが消えていた。」は、「には」というところに違和感を覚えました。文の意味は分かりますが、感覚的に引っかかりました。「僕はカバンを置くと、捕手の人形のキーホルダーが躍った。」の「僕は」も同じく引っかかりました。些細なことですが。

 ちなみに、「投手(捕手)のキーホルダー」とは具体的にどんな人形、キーホルダーなのか、描写がないので分かりません。ボール(防具)を持っている(身につけている)のか、上半身だけなのか、首から上と腕と下半身のない、要するに、背番号が「1」(「2」)と書いてあるユニフォームだけのキーホルダーなのか。まるで分かりません。このキーホルダーは、極めて重要な存在のように思います。そこが抽象的なので、ほかのもの、たとえば白い砂としか形容されていないグラウンドなども、いっそう色が薄くなり、結果として、掌編総体の息遣いが、極めて微弱になっています。このキーホルダーたちは、丁寧に描かれてあったほうがよかったように思います。

 それから、直接的な説明になっている文章が気になりました。たとえば、「捕手の僕と投手の悠太の高校野球最後の夏は、すぐ終わった。それ以来、僕達は一緒に下校してここからグラウンドを眺めた。」というところです。それを二人の会話なり、語り手の動きや五感なりで示さないと、ただの設定の公開になってしまいます。読みたいのは、二人の関係性に関する情報ではなく、二人がこの瞬間、いったい何を見て、どう思い、どんなふうに感じているのか、そしてこれまで何を感じてきたのか、ということなので、こういった背景の解説をされてしまうと、どうにも入り込めません。説明的かつ抽象的ではあるものの、キーホルダーがカバンの紐から消えていたという描写もあるので、そういった形で、それまでの関係性と、その関係性がまさに変化していることを、示してほしかったように思います。そのほうが、より生々しく伝わってきます。

 ちなみにですが、「陽炎だろうか、小さくなった悠太の背中がゆらゆら見えた。」の「陽炎だろうか、」は思ったことそのままであると判断しています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 キーホルダーや最後の一行、悠太から香る匂いなど、部分部分から、「感じ」は確かに出ているものの、表現が平らなことと、説明的な部分が影響し、空気感がどうにも薄いです。もっと粘っこく描写されてあれば、雰囲気は出たように思います。夏のべたつきも薄いです。表現がさわやかすぎるように思います。

 また、練習場や田んぼ、山など、周囲にあるものの表現が曖昧です。特に練習場。野球関連のものはこの掌編の肝でもあるので、「白い砂」という表現だけだと、どうにも貧弱です。描写が薄いと、こちらであれこれ補完せざるを得なくなり、結果として、作品それ自体から香ってくる雰囲気が弱くなります。少なくとも野球に関するものは、丁寧に描いてほしかったように思います。キーホルダーもそうです。でないと、空気感や「感じ」に触れられません。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 ただただ淡々としている、という印象が強く、どうにも味が感じられませんでした。もちろん、掌編の核となっているものには触れられますが、語り手や悠太固有の感じ方がどうしても淡く、迫ってくる「何か」がありませんでした。グラウンド、キーホルダー。そういった、野球に関するものの描写が薄いことが、大きく影響しているのかもしれません。語り手は野球が好きなはずで、悠太と野球がしたいはずです。「僕はカバンを置くと、捕手の人形のキーホルダーが躍った。」と「カバンの紐には一緒に買ったはずの投手のキーホルダーが消えていた。」の「買ったはず」というところが、まさにそれを決定的に示しているように思います。だったら、野球に関するものに、もっと目がいってほしいです。そうでないと、二人で野球を続けたいという想いなるものが、まるで肌に迫ってきません。二人で野球を続けたいと思っている、そんな設定を持った記号感が、語り手から、ふわふわと漂ってくるよう感じてしまいます。

 総評。
 人間的な生々しさが載っていないので、どうしてものっぺりとした文章に見えてしまいました。情報として伝わってくる出来事自体には起伏があるのですが、それを支える表現自体が平らなので、先輩が人差し指を潰されたという話も、そうなんだ、という感覚が根強かったです。「ほのかに甘い香りが漂う。目が染みそうないつものシーブリーズの匂いではなかった。」という描写もあったので、全体的にもっと丁寧に描かれてあれば、生きた人間の体臭が、確かに感じられたと思います。野球に関するものがより細緻に描かれてあれば、「陽炎だろうか、小さくなった悠太の背中がゆらゆら見えた。」という最後の描写が、まさに生きたように思います。というより、そこに至るまでが丁寧に表現されていないと、最後の一文の持つ輝きが、極めて薄くなってしまうよう思います。

●33 たなかともこ 『長い髪』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 書かれ方は最後まで変わっていないように感じます。全体的に完成度の高い、端々の丁寧な、説明調の文章が続いていて、気になるような破綻は特に感じられませんでした。ですが、場面転換と、そのあとにある解説的文章の存在を、非常に重く見ています。詳細は後述しますが、場面転換と解説によって、何もかもが壊れているように感じました。およそ統一性という観点から見ても、許容しがたいものがそこにはあります。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 説明調でありながら、前半の文章からは多くのことが伝わってきます。にも関わらず、後半には解説的な文章が存在し、それが原因で表現の異質性が、何より、心情の生々しさが崩れているように感じました。掌編の核それ自体に著しい重量感がある場合、こういった形で露骨に説明されてしまうと、表現総体が軽く見えることがあります。白々しく感じると言っても構いません。そして事実、軽く見えました。結果、序盤にはあった作中人物の息遣いが消え、残ったのはただ、情報としてのテーマと、色艶の奪われてしまった文章です。髪を切るところまでを徹底して描くか、伸ばさない理由を、過去を、他者へ初めて明かすまさにその瞬間を徹底して描くかしないと、字数が字数なのと、題材が題材なので、そういう「ネタ」にしか見えなくなってしまい、作品に対して嫌悪感さえ生まれる可能性があります。もちろん、こういった描かれ方や構造でも別に構わないとは思います。この掌編を読んでよかったと感じた方はたくさんいらっしゃるでしょう。ですが自分は、そうではありませんでした。場面転換後の文章に触れ始めた瞬間から、体が熱くなって胸が詰まるほどの違和感を覚えたことは、お伝えしておきます。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
 表現は平易なものの、前半の由美子の動きから、伝わってくるものは多いです。ですが、場面転換後の文章が、その行動の、完全な解説になっています。「小学5年の春の、見知らぬ男に学校脇の路地に引きずり込まれた思い出を話したのは彼が初めてだった。」と、「『そのまま上履き入れで思い切り相手を殴って逃げたのに、すっかり被害者面よね』」がまさにそうです。自分はこういう掌編です、という、掌編の自己紹介になっています。

 もし場面転換がなく、髪を切るところまでが詳細に描写され、そこで終わっていれば、由美子が感じたであろう多くのものが、より生々しく伝わってきたと思います。逆に、直弥に話すときの仕草なり感覚なりが、丁寧に描かれてあってもいいですが。どちらにせよ、非常に重たいテーマそれ自体も、しっかりと提示できただろうと思います。字数の都合や三人称という書かれ方の特性、また全体的に説明調ということもあって、掌編の核となっているものに比べると、表現がどうしても軽く見えます。そして、その軽く見えてしまうということが、まさに多くの苦いものをもたらしています。

 もちろん、多くを語りたくないという心情から、描写が淡々としているだけ、という見方もできますが、一人称ではなく三人称なので、髪を切ってもらう瞬間の詳細などを、描こうと思えばできたはずです。むしろその切ってもらった瞬間がないと、文章全体が、怖い経験をした人の話の、少し肉づけされたプロット、という具合に見えてしまいます。そしてそれは、題材の都合上、極めてぞわぞわする感じをもたらします。

 やはり後半の解説的文章の存在が、どうしても気になります。直弥という存在もあってやっと髪を伸ばそうという気持ちになった、ということが肝なのか、恐ろしい経験に突き動かされた結果として髪を切りたくなったときの心情が肝なのか、どうしても不明瞭です。文量は前半のほうが多く、後半はその前半の解説なので、どちらが中心なのか分かりにくいです。正確には、頭では分かるけれど肌感覚として伝わってこない、といった感じでしょうか。制限は八百字です。何でも詰め込めばいいというものではないと思いますし、両方を肝とするなら、その描き方は問題になります。後半部分は前半部分の完全な解説となっていて、その影響を受けた結果、前半が後半の説明になっています。相互にただただ説明し合うだけ、という構造になっているので、掌編の核である、本来は極めて重い題材に比べると、文章が相当ふわふわしているように感じます。なまじ表現が整っているため、余計に軽く見えています。そしてそれは、胸がざわつく感覚でもあります。

 4.基礎的文章力。

 前半の行動の意味が後半で完全に解説されてしまった結果、少女が怖い思いをしたお話でした、という自己紹介的印象を、掌編全体から強く抱き、題材が題材なこともあって、異様なほどのざわつきを覚えました。重みのある題材で小説を描こうとする場合、丁寧に描写しないと、あるいは徹底して文章を重ねていかないと、どうしてもその重さに文章が負けて、表現すべてが軽く見えてしまいます。たとえその表現の技術力が、どれだけ高かったとしてもです。説明調が気になるものの、前半部分は細緻でした。早く髪を切らなきゃ、という由美子の想いに触れられました。人間がいるように見えていました。だからこそ、こんな話だったんですよ、というような解説を、場面転換までされて終わり際に掌編から聞かされると、すべてが白々しく思えてきます。表現の何もかもが浮ついて見えてきます。最初から、成長したあとの語りとしてすべてが書かれてあれば、気にはならなかったでしょうが、必要性の一切感じない、場面転換という極めて簡素な技術が用いられ、かつ解説までされた結果、文章や表現それ自体はしっかりしているにも関わらず、すべてが軽々しく見えました。文章から強度が奪われているので、核を包んでいた表現の底が破れ、題材だけが深く沈んでしまっています。そしてその、剥き出しになった題材を見せつけられるということの意味は、題材が題材なので、極めて深刻なように思います。

 あと、「家族同然の付き合いをしている山田家に由美子が下校してすぐ現れるのは珍しいことではない。」を筆頭に、完全な説明になっているだけの文もあり、そういった存在も、文章が丁寧なので、気になりました。三人称ということもありますが、考慮しませんでした。三人称で描写し切れないなら、一人称を用いればいいだけだと思うので。説明にある情報はすべて、動きなり自然描写なりで表現してほしかったです。説明は描写ではないので、伝わってくるものが薄くなり、強度が落ちます。こういった細かい部分もまた、核となるものの重さに負けているよう感じます。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 三人称特有の、どこかよそよそしい感じが露骨に蒸発していることと、場面転換が存在していること、そして「小学5年の春の、見知らぬ男に学校脇の路地に引きずり込まれた思い出を話したのは彼が初めてだった。」という掌編全体の解説が置かれてあることの結果として、全編を通した由美子の行動や、そこに映っていた心情が、すべて色あせてしまっています。何としてでも、そしてできる限り早く髪を切りたい、という形で描かれていた内面が、あからさまな形で解説された結果、こういう怖い思いをした人間が描かれてあります、という作品の自己紹介が聞こえてきてしまい、表現総体が軽薄に見えました。すべては題材の重さゆえです。題材が違えば、気になった度合いは小さくなったでしょう。また、同じテーマの中編小説や長編小説で場面転換がされていたとしても、きっと気にはならないでしょう。あるいは一人称であれば、独白という形であれば、こんなことは思わなかったと思います。ですがこれは三人称の掌編で、しかも今回、制限はたった八百字です。その短さのなかで、こういった形で場面転換を置かれると、こんな小説でした、という締めの挨拶を作品が始めたように見え、実際、解説的な文章が確かに置かれてあるので、表現の持っていた空気感はすべて朽ちています。どうして解説なる一文がここにいるんでしょう。前半のような形ですべてが描写されてあれば、どんな小説なのか、十分伝わってきたはずなのに。確かに香っていた前半の空気感は完全に壊れているので、基準上評価できませんでした。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 どれだけ胸がざわついたとしても、読み返したい小説はあります。ですが自分は、この掌編に、言語化できないほどの違和感を抱きました。文章自体がなまじ丁寧で、完成度が感じられ、前半部分から由美子の心情が滴っているからこそ、場面転換という簡易な技術を用いてまで行われた解説が、上滑りしているように見えました。受けつけませんでした。すべてが浮ついて見えました。個々の文の完成度の高さが、文章が題材で遊んでいるという感じを醸し出し、結果、文章自体は読みやすくても、読み返すことそれ自体は苦痛でした。

 総評。
 前半部分と後半部分に分けた理由が感じられない、というのがどうしても気になりました。八百字という制限上、描くならどちらかの時間軸だけでいいはずです。場面転換も後半の解説的文章も、本来であれば不要だったように思います。終わりの挨拶をするためだけに、それらがそこに立っているようにしか見えません。題材の、核の重さが、こういった表現方法の粗さ、緩さを、くっきりと浮かしているように思います。仮に両方描こうとするなら、もっとやり方があったはずです。記号を用いて行われる場面転換は、もっと言えば場面転換それ自体は、基本的には簡易な技術です。ぽっと行われていると、薄っぺらさが出やすいように感じます。日本語で表現することから逃げるために用いられた小舟に見えることさえあります。章が変わったという理由でなされている場面転換はまた別ですが。いずれにせよ、この掌編において、場面転換は無視できない要素です。解説的表現と組み合わさって、すべてを崩壊させているように感じます。

 すでに書きましたが、なまじ完成度が高く、文章がやたらと丁寧で、作中人物の内面が多くの表現から香っていたからこそ、場面転換と解説が織りなしたものが異様なほど目につき、題材が文章に遊ばれている、という苦い感覚を覚え、そしてそれが、この掌編に対する感想のすべてを生んでいます。文章単体で見たとき、この掌編は、個人的には受け入れられませんでした。こんな掌編なんです、という作品の自己紹介は、題材が題材なので、見ていられませんでした。

 生きた人間ではなく、怖い思いをしたという設定を持った、題材として、文章にもて遊ばれている記号。それが、由美子から感じるすべてです。たとえ上限が八百字であっても、もっと由美子という人間を描いてほしかったと思います。掌編の、あるいは核の自己紹介が聞きたいのではなく、そこにいる人間の息遣いが聞きたかったです。この文章が持っている表現力なら、聞けたはずなので。実際、前半部分の多くと、解説以外の後半の文章には、説明調が染みているものの、質感が確かにありました。だからこそ、すべてを打ち崩している存在が気になりました。


●34 もちちべ 『色は廻る』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 全体的に説明的ですが、極めて丁寧に紡がれてあるという印象を、最初から最後まで抱きました。気になる偶然性などは特になく、湿ったにおいのする、統一感で満ちた文章のように感じます。一文一文が丁寧で、非常に読みやすく、目で触れていると心地いいです。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 総体として、やわらかい文章なように感じます。「視界に微かな変化があり、少女はおもむろに立ち上がると、縁側の沓脱石の横に置いてあった大きなサンダルに足を通す。」や「少女が指を伸ばして花弁を拾いあげると、土の匂いが近づいてきた。」という、特に惹かれた文章を中心に、五感や動作、とりわけ瞳の動きが、とても丁寧に紡がれています。「視界に微かな変化があり、」は抽象的かつ説明調ですし、全体的に説明調の色は見受けられましたが、それもあまり気になりませんでした。だからこそ、完全な説明になっている文章が気になりました。その点に関しては後述します。上記の引用二つと、表現総体のしっとりとした質感は異質なように感じ、加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「長テーブルの端に座っている少女は、隣にいる母の顔を時折のぞき込むように見ると、それから正面を向いたり、木目を目でなぞったりしていたが、やがて縁側の向こうで視線を落ち着かせた。」という表現をはじめとして、個々の動きや自然描写全体から、少女の内面が濃く伝わってきました。三人称ということもあって、文章はどうしても説明調ですが、それを無視させてくれるほどの質感が、個々の描写にはあるように感じます。表現に、多くのものが映り込んでいるように思いました。少女の目の動きはとりわけ印象的です。まさに瞳に、心の光が点っています。生きた目玉です。

 4.基礎的文章力。
「去年の八月、」から始まる文章と、そのあとの「黒い服に身を包んでいる者たちは、」で始まる文章は、ともに説明の色が濃いです。過去に関する出来事や花の遷移、あるいは人々の態度が、まさに描写、もしくは説明感の薄い表現であったなら、掌編全体がより際立ったように思います。こうこうこうだった、という形で行われた、過去の出来事や時の流れに関する説明は、そうなんだ、という印象をどうしても与えがちです。香るものが薄くなってしまうので、少し気になりました。全体の表現の色彩が淡く、かつ鮮やかなので、もっと描写が徹底されてあれば、と焦がれました。「少女が指を伸ばして花弁を拾いあげると、土の匂いが近づいてきた。」などは、本当に艷っぽい表現だと思うので。こういったものに、もっともっと触れたかったです。

 細かく述べるなら、「数日前まで微かな呼吸音だけが響いていた古い和室には、」というところは、形容が「響いていた」と過去の形なので、実際には古い和室の説明になってしまっています。ちょっと前はこうだったんだけどね、という感じでしょうか。そのため、あとに続く実際の形容もまた説明っぽさが増し、色が少し薄くなってしまっています。描写が艶やかなので、些細なところが気になりました。今まさに存在している話し声の描き方で、数日前の静けさを、どうにか浮かび上がらせてほしかったように思います。「古い」という形容も、もう少し具体的であったほうが、文章がより印象深くなったのではないでしょうか。和室は庭と並んで、この掌編の舞台なので。

 あと、ここは明確に気になったわけではありませんが、「四肢を動かして歩いてきた蟻の一匹が花弁を避けるように方向転換する。」の「四肢を動かして」は必要だったでしょうか。「歩いてきた」と意味が重複しており、なくても意味は通じるとは思います。もはや好みのレベルですが、せっかくですのでお伝えしておきます。もちろん、あってもいいとは思います。

 全体は、圧倒的な表現力と完成度で満ちており、読んでいて心地よかったです。その部分に関して、加点しています。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
 説明がわずかに空気感を乱してはいるものの、表現全体の緻密さが、個性的な表現群の色艶が、圧倒的な空気感を生んでいるように思います。完全な説明さえなければ、文章の息遣いがより感じられたのではないかと、そんなふうに感じました。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 淡々とした文章は色彩に富んでおり、少女の心の動きにもよく触れられ、何度も読み返したいと思いました。瞳の動きにはとりわけ惹かれました。自然描写にも目を奪われ、説明的な表現がほとんど気にならなくなるほど、掌編がしっとりと湿っていました。動きと感覚の描写だけでおよそ完全に自立しており、人の呼気が絶えず香ってくる、忘れられない作品でした。

 総評。
 説明が気になったと言いましたが、実際はこの形でも十分惹かれます。個人的な好みと、今回は特に描写を重視したので、上記のような評になりましたが、一編の掌編として、極めて印象的でした。少女の内側が、目が、文章の底を静かに流れ、それが全体に厚みと広がりをもたらしており、生きた人間に、生きた和室に、生きた庭に、そして死に、確かに触れることができました。『色は廻る』という題に込められているものが、まさに迫ってきました。個人的に、本当に大好きな掌編です。描かれてある瞬間を、いつまでも抱いていたいと思う、そんな作品でした。

●35 たちかぜさん 『Rainy night』

 1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
 描写されているようで実は極めて抽象的、という文章が、最初から最後まで続いていきます。表現の抽象性に関しては後述します。統一性に関して気になるところは、特にありませんでした。偶然性に関しても同様です。「不意にスマートフォンが震えた。ディスプレイに表示されるあいつの名前。」は話を締めるために置かれてあるようにも見えますが、そう見えるだけで、背景なり何なりをいろいろと想像できますし、特に気になったわけではありません。「あいつ」に関することなど、多くは伏せられたままなので、その点で、作品に深みはあるように思います。

 2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
 ライターを扱う表現が擬音だったりと、全体的に平易な文章のように感じます。一見すると、確かに描写は丁寧で、全体として見れば一体感はあるものの、個々の表現は平らでした。ライターのつけ方、あるいはそのライター自体には個人が出ると思うので、どんなライターなのか、そしてそれをどういうふうに扱ったのか、より具体的に見せてほしかったように思います。描写の多くを占めている、雨や光などに関しても、より細緻に表現されていたら、と思います。

 たとえば「小さな電球の頼りない光で照らされている安全地帯が雨に侵食され始める。」の「頼りない光」というところ。心理的な表現っぽさが少し出ていますし、何より抽象的です。色や光の広がり方など、もう少し細かく描写されてあるほうが、表現の芯が太くなるように思います。表現自体が平易でも、もちろん構わないとは思うのですが、その場合、個々の描写がより具体的でないと、総体として、基本的にはどうしても弱々しく見えてしまいます。また、「頼りない」は心理描写だと判断しました。非常に細かいとは思いますが。

「足を引くと、地面に靴の形が残った。」という表現には特に惹かれたので、加点しています。

 3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
「足を引くと、地面に靴の形が残った。」、「だいぶ短くなった何本目かの煙草を弾く。」、「前衛的なグラフィティーアートが描かれたシャッターにもたれかかると、想像以上に大きな音が鳴った。夜も遅いというのに咎めるものはいない。もう一度。」など、伝わってくるものは確かにあります。スマートフォンの画面を確認している動きなどもそうです。ですが、個々の描写が具体的なようで実は曖昧なことと、表現の穏やかさが原因で、どうしても迫ってくるものが弱いです。「ディスプレイに表示されるあいつの名前。」という最後のところも、作中人物の内面の香りが薄いです。全体的に、もっと具体的に描写してほしかったように思います。たとえば名前が表示された瞬間。もう少し、指の動きや視線の移り変わり、心音、息遣いなどがあれば、と思います。「あいつ」の存在は掌編の核であるように思うので、そのときの語り手の細かい五感に、余計に触れたかったです。全体的に抽象的かつ説明調なので、作中人物の内側の音の響きが、どうしても薄いような気がします。

 4.基礎的文章力。
「とっくの昔に潰れた店の軒先、小さな電球の頼りない光で照らされている安全地帯が雨に侵食され始める。」という冒頭から、すでに説明的です。「とっくの昔に潰れた」というのは、その店が持っている設定です。潰れているなら汚かったりするはずですが、そういった描写がまずないと、あとに続く文章も、すべて説明のにおいを帯びます。

 それから、「一服。」という動作表現。これだけだと、どんなふうにライターやタバコを扱ったのかが不明です。すでに述べましたが、火のつけかた、吸い方には人間が出ます。喫煙者が全員同じようにライターを操作したり、吸ったりするわけではありません。微細な違いはあるはずです。しかもその持っているライターにも人間が出ます。どんなライターか、ライターが出た時点で描写しないと、喫煙者という情報以外、およそ何も伝わってきません。知りたいのは情報ではありません。「カチッ、シュッ。カチン。」も同じです。擬音だとどうしても曖昧ですし、何より全体の淡々とした書かれ方と合っていないように思います。妙にかわいらしいです。上記のように、どこか物足りない、抽象的な表現が散見されました。

 また、「薄汚れたコンクリートを反射する雨粒が、スニーカー──あいつが好きなマニキュアと同じ鈍い赤色──の先端を濡らす。」のダッシュで挟まれたところは、完全に説明です。そこにある情報を描写で伝達しないと、へぇ、とか、そうなんだ、というだけで終わってしまいます。ただただ情報ないし設定だけを差し出されても、残るものは少ないです。ここだけでなく、全体的にどうにも説明的でした。

 5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。

「前衛的なグラフィティーアートが描かれたシャッターにもたれかかると、」というところで、空気感が出ているような気がしますが、実際は表現が抽象的なので、どうにも「感じ」が生まれていません。肝心の「前衛的なグラフィティーアート」が、一切描写されていないからです。前衛的なものを前衛的だと形容されても、それはおよそ形容になっていません。前衛的、というのは観念であり、観念で形容されてもこちらには分かりません。抽象的なものの描写は抽象的でもいい、というわけではないように思います。その「前衛的」なるものを、まさに語り手の目に映ったまま描写してほしかったですし、そういった形を通して、こちらに前衛的だなぁと思わせてほしかったです。そうでないと、そうなんだ、という印象しか残りません。このままだと、シャッターの設定に過ぎません。空気感はおよそ出ません。作品の「感じ」は細かいところから香り出すように思います。細部が極めて曖昧で、しかもその理由が感じられない場合、どうしても表現の香気は薄くなります。全体の動き、あるいは雨や光などから、淡い雰囲気は、薄くではあるものの確かに漂っているので、もっと丁寧な描写であれば、と思います。たとえば「足を引くと、地面に靴の形が残った。」というところ。こういったところからは濃いにおいがしているので、個々がもっと丁寧だったら、という物足りなさを覚えました。

 ちなみに「意味もなく画面を眺め続ける。」の「意味もなく」は心理的な色が濃いです。このような些細な表現から、全体の空気感が少しずつ乱れています。上記は心理描写だと判断しました。細かいかもしれませんが。

 6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。
 より細緻に描かれてあれば、という想いだけが残りました。変に抽象的な表現が多く、また説明もあったので、どうしても迫ってくるものが薄かったです。「あいつ」の存在感も薄いです。掌編の核となっているものは好みですが、だからこそ、物足りなく感じました。より濃い雰囲気に、語り手の息遣いに、呑まれたかったです。

 総評。
 抽象的な形容、説明的な文章が、どうしても気になってしまいました。描写の比較的細かいところや、艶のある表現もあったので。また、全体的にどこか軽い調子を帯びてしまっているので、表現にもっと重みがあれば、とも思いました。かすかにしか嗅げない雰囲気が、もどかしかったです。タバコを吸うときの語り手の仕草、通知を確かめるときの動き、そういった細かい部分に、もっともっと触れたかったように思います。「チープなネオンサイン」という描写もありましたが、具体的にどんなきらめきなのか、そういったところまで、見せてほしかったです。

読んでいただき、ありがとうございました。