見出し画像

人生における「今ココ」の話

私は大学を卒業してから国際協力の仕事で海外駐在員ばかりしていますが、その間に4年間だけ、それと全く関係のない東京の民間企業で働きました。

犬の話に絡め、アフリカのザンビアという国で難民キャンプの仕事をしたことを以前書きました。東京でサラリーマン生活を始めたのは、そのザンビアから帰国してからのことです。



ザンビアではマラリアに罹って死にかけただけでなく、仕事の上でも自分の未熟さ、至らなさ、甘さを痛感させられました。

日本に帰国後もマラリアの後遺症が出たため海外での仕事を探すのはやめ、しばらく静養して頭を冷やそうと日本にとどまることにしましたが、

「日本で社会経験を積んで、
 もっと勉強して成長して
 再び海外の現場に戻ろう」

と心に誓ったのでした。

・・・・・

その会社は外資系とか日本の大企業というのでもなく、海外との取引も皆無の、東京新宿にある中規模の会社でした。

朝8時すぎに国立市のアパートを出て駅まで歩き、中央線に乗車。

すし詰めの電車で新宿駅に到着すると、人の流れに乗り黙々と歩いて西新宿の会社へ。

大きなエレベーターで21階に上がり、

フロアの全社員での朝礼、
全国支店の前日の営業成績報告、
副社長による訓示・叱咤、
ラジオ体操の第一。

日中やお昼休みは

デパートのバーゲンの話、
最近買った服や靴、カバンの話、
合コンで出会ったオトコ、オンナの話、
前夜のプロ野球の試合結果、

課長のセクハラ話、
人事の裏情報、
社内恋愛情報、
社長と副社長の不仲説、

私の隣に座っていた女性社員による

「なぜお金持ちのオトコと結婚しなければ
 ならないか」についての一考察

等々に耳を傾けて相槌をうち、

毎日夜10時過ぎまで働き、
金曜日は同期の連中や同僚たちと飲み会、

休みの日は都内や近郊の美術館、博物館、神社、お寺、神保町の本屋さんや画廊をめぐったり、映画やコンサート、食事に行ったり旅行に出かけたり。


赤茶色の大地と、ときおり遠くにキリンが歩いているのが見え、殺伐としたサバンナの真ん中の難民キャンプでの仕事、生活とは何もかも勝手が違いました。

しかし東京での4年間は、大学を卒業してから海外で経験したのとは全く異なった楽しみ、そして快適さがありました。

朝の通勤や夜遅くまでの仕事は疲れるけれど、週末は好きに過ごせる、

少し癖のある人はいるが、会社の人たちも愉快でいい人たちばかりだ、

給料もいいし、会社も好調だし潰れることも当面ないだろう、

お気に入りのカフェや喫茶店、レストラン、飲み屋さんもできた、

東京は住みにくいと聞いていたけれど、ここも住めば都だ、

一緒に暮らすようになった素敵な彼女もできた。このまま結婚して家庭を持ってもいいだろう。


そんなふうに月日が流れ、やってきたもの。

この「慣れ」というのは、人をそこに留めさせようとする、ものすごい力があるのだということを東京時代を振り返るにつけ思い知らされます。

くだらない朝礼などに辟易しながらも、その仕事と生活のリズムに「慣れ」るうち、かつてザンビアで経験したことが自分に訴えかけていたことなんて、ほとんど思い起こすことすらなくなっていったのです。

サラリーマンになる前に

「自分の成長の糧になりそうな本」

として買った書籍は、いつしか埃が積もる山となりました。

英語力の維持のために定期購読していた英文雑誌も、次第に封を開けることすらしなくなりました。

かつて海外で仕事をともにした仲間との連絡もいつしか途絶えていきました。

そのときの仕事、
そのときの生活、
周囲の出来事で頭がいっぱいで、
それ以外のことに頭を巡らせる必要も感じなくなっていったのです。

そんな「慣れ」に埋もれるうち、あっという間に4年が過ぎました。


画像1


そんな私の「慣れ」を打破したもの。

私の場合は単なる偶然でした。


サラリーマン4年めの夏、かつてお世話になった方から頂いた

「アフガニスタンに興味ないか」

という突然のお電話がきっかけでした。

東京での暮らしやサラリーマン生活にさほど不満もなく、

「これはこれで捨てた人生ではない」

と思っていました。

だからこの電話がなければ私は今も東京で暮らし、そのときの彼女と結婚して家庭を持っていただろうと思います。


その電話の主がおっしゃるところによると、

アフガニスタンは治安が最悪だし、手を挙げて行ってくれる人がいなくて困っている、

「はびーび」は治安の悪い難民キャンプでの実務経験があるし、まだ若くて体力もある、

現地での移動用に防弾車を用意してある、

セキュリティーの整った住居も用意する、

2-3ヶ月に一度、休暇で帰国できる制度もある、

それなりの危険手当も支給するから

「それでどうだろうか?」と。


話を聞いてドキドキしました。

もはや「過去の思い出のひとつ」になっていたザンビアでの仕事やそこでの経験が頭の中でよみがえり、

「アフガニスタンでやりなおせる」

と思いました。

「面白そうですね〜、
 じゃあお世話になりま~す!」

というような会話で受話器を置いた記憶があります。

ザンビアから帰国して心に刻んだ

「日本で社会経験を積んで、
 もっと勉強して成長して
 再び海外の現場に戻ろう」

というかつての意思を思い出したのもその電話があったときです。

果たして私は4年で成長できたのか?

それに対する答えを自分の中で見つけられないまま、たまたま流れてきた舟に「えいっ」と乗るような感じで「行きます」と言ったに過ぎませんでした。


4年勤めた会社に辞表を提出してアフガニスタンに行く準備をしていましたが、首都カブールと赴任予定だった東部のジャララバードで自爆テロや部族衝突が続発し、結局赴任は中止。

宙に浮いてしまった私は、急遽名前も聞いたことがないような別の国に赴くことになりました。

しかしその国での仕事は面白く、その後の私に大きな影響を与えました。加えてそこである日本人と知り合ったのですが、その出会いがなければその方の遠縁にあたる私の妻と出会うこともありませんでした。

・・・・・

ここヨルダンでの仕事もそろそろゴールが見えはじめ、次の仕事、今後の人生について頭を悩ませる日が続いています。

これまで

「自分がしたいこと」

「自分が行きたい国」

を選択してやってきたつもりでいました。

しかしこうしてよくよく振り返ってみると、

望んだ通りの選択が病気でできなかったり、

一本の電話で人生が違う方向に動いたり、

自分ではどうしようもない力が働いて、思い描いたところと違う環境に身を置くこともあったなと思うのです。


最近、俳優の堺雅人さんのエッセイを読む機会があり、そこにビリヤードの話がありました。

私のこれまでの人生に照らして考えますと、

ビリヤードで手球(白い球)を私が突くばかりではなく、

誰かが突いた手球にはじかれ、思いがけないところに転がって止まる的球のようなこともたくさんあったなと。むしろそちらの方が多かったのかもしれません。


ヨルダンでの仕事が終われば、この国際協力の世界とはオサラバします。この仕事を20年もやって「慣れきって」しまいお腹いっぱいです。

先ほどのビリヤードでたとえるなら、ここでまず自分のキューで手球を打たないとなと思っています。

自分が手球を打てば的球が拡散し、手球も壁や転がってきた的球に当たって跳ね返り、また思いがけない位置に転がることでしょう。

あるいは、誰かが放った手球や、その影響を受けた的球が既に私の方に向かって転がってきているかもしれません。

来年の今頃、一体自分はどこで何をNoteに書いているのか全くわからないというのが

私の「今ココ」

です。

最後まで読んでいただきありがとうございます。