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多様性の古さ

新しいなにかから与えられる新鮮な衝撃とは本当にすばらしいものだ。


「多様性を認めるべき」っていう一連の流れ。
もちろん多様性は認められるべき。
それはそう。

「多様性を認めるべき」ってフレーズを
まだ新しいものだと思っていた。
「多様性」自体単語としてまだ新参者だと思っていた。
まだ世に浸透しきってない観念だと、
だから声高に語られているんだろうと、
それは語りかけ続ける必要性のあることだと、そう思っていた。

でもね、時代ってそんな論議を悠長に待ってない。
そうはっきり気づいた。
もはや「多様性を認めるべき」なんて考えは古いんだなって。
先日若いひとたちと接してる中でつくづく感じた。


とっくにその常識の渦中で生きてる若いひとたちにとっては、
そんなの取り立てて言うほどのことですらない。
こっちが「え~新しい!」と思っても、
向こうは「え?多様性ってなんですか?」くらいの意識。

例えば、働き方。
会社に勤めることははなから選択しない考え方。
得意なことで必要な分だけ働く、というスタイル。

例えば、結婚。
婚姻という制度に縛られない生き方。
子育ても同様。

例えば住居。
窓を開けたときに森林が見えて鳥のさえずりが聞こえている環境が欲しい、から組み立てる人生設計。

などなど。

もちろんそういう生き方のひとたちもいるだろうと思ってはいた。
それでも実際に会い面と向かって話を聞いてみると、
そこに悩みや葛藤などなくごく自然なこととして生活していることにかなりの衝撃を受けてしまった。
彼らに対してというよりはむしろ
自分の常識と自分の世界の狭さに。

逞しい。
きっと逞しいも違うんだ、フツーなんだ。
でも逞しさを感じずにはいられない。
自分のことは自分で決める。
自分が納得した生き方で生きる。
それがフツーでフツーにやってる、
それが本当に逞しいなって。

認められるも認めるもない。
ひとの生き方に『認められる』も、
ひとの生き方を『認める』もない。

だとしたら「多様性を認めるべき」などという考えは、
根本から間違ってるとしか言いようがない。

私は、あるいは私たちは
〜べきなどと思ってるうちはまるで物事の本質を捕えていない。

「世界はこう変わるべき」と頭の中で唱えてるひとたちなどよそに、
世界を動かすひとたちはとっとと実践してとっくに世界を動かし始めてる。


先んじて動くひとが動かないひとの分まで世界を動かしている。

動かすつもりのないひとはせめて動かすひとたちの足を引っ張らないように気をつけないといけない。

動きが停滞したら世界は腐ってしまうだけからさ。

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