ほぼ毎日フリーゲーム・インディゲームをプレイして得た4つの知見

私はふだんTwitter上で「#1ツイゲームレビュー」というハッシュタグを利用して、インディゲームを無償で紹介するレビューを連日 投稿しています。主に無料でプレイできる作品や、期間限定で無料ダウンロードできる作品などを紹介しています。

ほぼ毎日インディゲームをプレイしてはレビューを投稿しているなかで、なかなかインディゲームも難しいなと感じられる知見がありましたので、まとめておきます。

知見①:短いゲームを続けてプレイするのはストレスになる。
知見②:フリー・インディゲームは「質の高低のブレが激しい」
知見③:海外製の無料ゲームはデモ版が多い
知見④:日本製のフリーゲームは「ストーリー重視」が多い


知見①:短いゲームを続けてプレイするのはストレスになる。

最初の知見は、「たとえ好きなゲームであっても短いものを続けざまにプレイするのはストレスが溜まる」ということです。ある種 当然のことですね。

私がTwitterなどでゲームのレビューをしているのは、まさにゲームが好きだからで、「好きなゲームだからこそ楽しみながらレビューを続けられる」と考えたからでした。

「好きなゲームだからこそ楽しみながらレビューを続けられる」において正しかったのは、「ゲームが好きだから、楽しみながら続けられる」という点です。実際、おもしろい作品や気に入ったゲームを見つけたときは感動すらおぼえます。

「好きなゲームだからこそ楽しみながらレビューを続けられる」において誤っていたのは、「ボリュームの小さいゲームを続けざまにプレイするのはストレスが溜まる」というマイナス要素を予見できなかったことです。

しかしこれは無理もないことで、おそらく多いときは1日に5~6作品、週に10~18作品、月に50作品以上のフリー・インディゲームを「実際に」プレイしてみないと、このストレスにはなかなか気づかないでしょう。


「ちょっとだけ食べる」を続けるのはストレスになる

このストレスの原因を考えてみると、「短めのゲームをたくさんプレイする」ことと「長めのゲームを少ない種類プレイする」ことの違いに気づきます。それは「学習」や「慣れ」といった要素の数の違いです。

たとえば好きな食べ物で、「これならいくらでも食べられる!」という好物を挙げてみてください。ラーメンやカレー、寿司や焼き肉、フルーツやケーキ、なんでも構いません。これを「少しの種類を長く食べる」のと「たくさんの種類を少しずつ食べる」のとは異なる、という違いに似ています。

寿司で「中トロ」「サーモン」「えび」「はまち」など好きな種類を4つほど選びそれだけを食べ続けるのは大して苦ではありません。しかし1貫ごとに(自分の好みに合うかもわからないまま)食べ続け、しかも1貫食べたその種類はもう2度と現れることはなく、延々と違う種類の寿司だけを食べ続ける、というのは意外と苦になってくるのです。

牛角の1ヶ月食べ放題サービスについてのまとめが以前ありましたが、あちらは「限られた種類を長く食べ続ける」というタイプでしょう。「少しの種類を長く食べ続ける」というのは、もしサービス化するとしたら「全国の飲食店のサービスを定額で利用していいが、どの店でも腹一分くらいで帰らないといけない」という荒唐無稽なサービスになるかもしれません。

こうした「たくさんの種類を少しずつ」がつらくなっていくのは、「慣れる」と「忘れる」を繰り返すからです。中トロを一貫食べると、脂のうまみや酸味との調和を感じ「おいしい」と感じるかもしれません。しかしその美味しさは、もう2度と登場しません。なぜなら「同じ種類は2度と登場しない食べ方だから」です。

別の種類を食べたときに、「あ、これは中トロと似てるな」と感じることはあるかもしれません。食べ続けるうちに「分類する」能力の幅は広がる可能性があります。しかし似ていると気づいたところで、その「中トロに似たネタ」も2度と口にすることはありません。

新しい種類の寿司を1貫食べては分析し、また1貫食べては分析し、慣れては忘れ、慣れては忘れていく。これを繰り返していると、新たな1貫の寿司を目の前にして、やがて手が止まるのです。

その目の前の1貫が美味しいか不味いかは、食べてみないとわかりません。しかしたくさんの種類を食べていくと、多くの人に合わなそうなものだけでなく、自分には合わないものも食べていくことになります。自分の好みではなく「世のゲーマーに伝えるため」にプレイしようとすると、なかなか避けられないストレスです。

少なくともフリー・インディゲームのレビューは私が自分で勝手にしているだけなので、「だったらやめろよ」という声が上がるかもしれません。たしかにこのストレスが甚大で、もはや耐えられないものとなったときは、私もやめるかもしれません。しかし今はまだその段階ではありません。

それでも続けているのは、多くはないながらもツイートに「いいね」やRTがつくことから「役に立っている」と感じられるからです。もちろんその数をもっと増やすのは課題の1つです。現在この活動は無償で行っていますが、それは役に立っていると感じられているからです。

おそらくこうしたストレスは、私だけでなくフリーゲーム系のYouTuberの方々も感じるものかもしれません。私は海外のゲーム系YouTuberであるMarkiplier氏の動画をよく見るのですが、ときおり疲れたような表情を垣間見ることがあります。

それは肉体的な疲労というより、たくさんのゲームをプレイしてはやめ、プレイしてはやめを繰り返している人にある程度 共有して見られる疲れなのではないか、と感じます。

1度慣れたゲームは飽きるまで続けられる

これを逆に捉えると、「1度慣れたゲームは飽きるまで続けられる」ともいえます。これはPvPゲームが特に顕著かもしれません。

たとえばLoLこと「League of Legends」は、キャラクタ数が100をゆうに超え、操作や戦略など、未プレイの方にはハードルがかなり高めのゲームとなっています。しかし先日10周年を迎えたように、パッケージゲームとは異なる息の長い作品でもあります。やや短絡的な見方にはなりますが、「1度覚えれば10年遊べるゲーム」であるとも判断できます。

他にもMinecraft、SkyrimやFalloutシリーズであるBethesdaゲー、Civilizationシリーズ、Terrariaなど、100時間どころか1000時間でも遊べるゲームがあります。こうしたゲームは「慣れれば飽きるまで」どころか、知れば知るほど奥深さに気づきよりのめりこんでしまうようなゲームです。

お金に頓着せず、深く楽しめるゲームを探している人、とくに「別にたくさんは求めていない」という人は、こうしたゲームを集中的に探したほうがいいかもしれません。なぜならゲームはどんな作品でも最初に「覚える」ことから初めて「慣れる」過程が必要なので、1000時間遊べるゲームは最初の「システムを理解する」というストレスが小さく抑えられるからです。

これは言葉と似ています。もし私たちが日本語すら理解せず、なにひとつ言語というものを使えなかったとしたら、生きていくのはそうとう難しいでしょう。それは「言語を1つ習得する」という壁があるからです。日本人なら日本語ですが、アメリカ人なら英語、中国人なら中国語です。日本語が特別ということではありません。

しかしなにひとつ言語を理解しない状態から、日本語・英語・中国語、その他のどんな言語であれなにか習得して生きる糧にする、というのは大きな壁であり、大きなストレスです。すでに第一言語を習得している人は、そのストレスに気づきにくい。

あるゲームを最初にプレイするときも、まずはシステムを理解するのにストレスが発生します。もちろん第一言語を習得することに比べれば、大したことはありません。しかしゲームは新しいものをプレイし始める度に、その大きくはないながらしっかりと発生するストレスを感じていくことになります。

私がしている「フリー・インディゲームを日々プレイする」というのは、まさにこのストレスを毎日毎日感じて積み重ねていくような作業です。こうした作業をしていると、無視できない大きさのストレスとして、生活のなかに鎮座してくるようになるのです。

そのため、そのストレスを少なく留めるには、長く続けられるゲームを(自分の許容範囲の種類だけ)プレイし続けるというのが、ベストではないにせよベターになります。もしベストを目指すなら、「そのストレスをゼロにするため、ゲームをプレイしない」という荒唐無稽な結論を導きかねません。

知見②:フリー・インディゲームは「質の高低のブレが激しい」


またフリー・インディゲームは、作品のクォリティの高低が激しくもあります。メジャーなゲームでもバランスが崩れているものがあるとはいえ、フリー・インディゲームでは「メジャーな企業で制作されたゲーム」の基準以下といえる出来の作品もあります。

よく創作物では「山と谷」という言葉が使われます。盛り上がる部分が山で、落ち込む部分が谷ですね。フリー・インディゲームでは、山も谷もなく味気ない作品もあります。本当に酷いと感じた作品は、たとえプレイしても私はレビューとして紹介はしません。

有り体にいうと「アタリ・ハズレが大きい」とでもなるでしょうか。実際には無料や格安で遊べる作品は、ただそれだけで価値があるので、たとえいわゆる「ハズレ」であったとしても、けなしはしません(批評という観点からの意見なら、なるべく建設的にフィードバックとして改善案などとともに言及することはあるかもしれません)。

こうした感覚は、コンビニおにぎりの新作を買って食べてみたら美味かった不味かった、というアタリ・ハズレとも似ています。制作している人に対するリスペクトがあれば、そうそう酷評することはありません。

しかしこの点で難しいのは、主観と客観の違いです。たとえば私が「これはイイ」と思ったとしても、他の人にとっては「なんだこれ、ゲームじゃないじゃん」と感じるものがあるかもしれません。逆に、他の人にとってイイものが私にはあまり価値が感じられないこともあるでしょう。

そこはレビューする者として、なるべく客観的に捉えるようにはしています。私がどう感じるかとは別に、「この作品をおもしろいと感じる人はどれくらいいるだろうか?」というふうに考えるようにしています。その上で厳しいと感じたらレビューをせず、おもしろいと感じる人はそれなりに多いのではないかと判断できればレビューをしています。


知見③:海外製の無料ゲームはデモ版が多い。

次に海外製の無料ゲームに話を移します。海外のゲームも日本の作品のように無料で遊べるものがたくさんあります。しかし海外の無料作品では日本より圧倒的に「デモ版(demo)」が多いのです。デモ版はいわば体験版といっても差し支えないでしょう。

すでに完成している部分すべてを公開したりせず、作品のテイストを体感できる程度にボリュームを短くしたものが、デモと呼ばれやすい傾向にあります。開発がどれくらい進んでいるかにかかわらず途中でもリリースできますし、クラウドファンディングなどで資金を集めるのに便利だからでしょう。

デモ版、体験版、どう呼ぶにせよ「途中までしかプレイできない」というのは、人によっては「そもそもプレイする価値がない」と判断することもできるでしょう。基本的に「制限版」と「無制限版」が同じ状況で選択できるなら(同じ金額など)、誰でも無制限版を選びます。

そこで「制限があってもしかたない」と考えるのは、やはりゲーム制作といえども時間的コスト・金銭的コスト・人件費がかかるため、インディゲームであっても有料になることを批判できないからです。あくまで無料版が温情で特別タダになっているのであり、有料作品がケチな作品という意味にはならないのです。

しかし日本ではフリーゲームが2000年代からずっと続いてきた土壌もあり、インディゲーム界隈ではあまり体験版というものが出回ることが多くなかったため、デモ版が忌避されてもしかたないといえるかもしれません。また海外作品で英語もしくは他言語が使用され、日本語で遊べないというのも大きな壁となっています。
もちろん海外作品でも無料で全

編遊べる長編作品はあります(「Doki Doki Literature Club!」など)。しかし全体的にデモ版の比率が日本より大きいので、海外作品は日本人に合わない傾向が少し強くなってしまっています。

Donation(寄付)


海外では「Donation(寄付)」を募る作品が多く存在します。実質的にシェアウェアに近い「ドネーションウェア」と理解するのが妥当でしょう。個人的にそうした作品はなるべく「フリーソフト」と呼ばないようにしています。

またitch.ioをはじめとした海外のサイトでは、もともと寄付が可能なサイト構成となっています。日本でフリーゲームを投稿できるサイトとして有名な「ふりーむ」「フリーゲーム夢現」ではそもそも寄付ができません(サイトの定義からしてフリーゲーム用なので当然ですが)。

たとえばSteamでもリリースされている作品のなかには、無料で全編遊べるものの、DLCなどの形式をとってサウンドトラックなどを販売しているものもあります。これは実質的な寄付といえるでしょう。サイトによっては金額を寄付者が設定できるところもありますが、Steamだと定額になってしまうのが難ではあります。

こうした事情を考えると、日本と海外のインディゲーム、特に「無料」の考えは少し異なると理解しておいたほうがいいでしょう。


知見④:日本製のフリーゲームは「ストーリー重視」が多い。

日本の作品では、「ストーリー重視」を謳ったものがたくさんあります。特にサウンドノベル系では、文章を読み進めるという性質上、ゲーム性を度外視してストーリーが最重視されることもあります。

私はゲームをレビューする際には、ゲーム性を最重視し、次に雰囲気やストーリー展開、そしてグラフィックやBGMなどを評価するようにしています。その理由は、「ゲーム」というものは「ゲーム性」があってこそゲームだからです。(実際のところこれはトートロジーですが)

そのためストーリーよりもゲーム性を上位の評価軸として採用しています。ストーリーは小説でもマンガでも描写できますが、ゲーム性を小説やマンガで描写することはできません。一部特例としてゲームブックなどが存在しますが、これもノベル作品の選択肢と同レベルのものですので、ゲーム性は低程度だといえます。


紙芝居ゲー

日本ではサウンドノベル作品がたくさん制作されます。「ノベルゲームコレクション」というサウンドノベル作品のみを扱ったサイトもあります。

https://novelgame.jp/

サウンドノベルは日本のゲームのなかで大きく育ってきたジャンルです。いわゆる18禁と呼ばれる成人向けのコンテンツも大半がサウンドノベル作品です。一部にノベルパートがありつつも戦闘など他のゲーム性をとりいれた作品やレーベル、また3D作品を主に制作するレーベルもあります。しかし比率は圧倒的にサウンドノベルが多い状況です。

サウンドノベルは開発環境が整っており、3D作品よりもずっとコストが安く制作できます。特に日本ではサウンドノベルは浸透しているので、制作ノウハウがしっかり蓄積されているともいえます。

そんななかで扱いが難しいのは、「分岐なしの1本道」というタイプのサウンドノベルです。これは一部のプレイヤーからは「紙芝居ゲー」と揶揄されるものです。サウンドノベルはクリックを繰り返し、選択肢をどちらにするか決めるだけで進められます。そのため分岐がないとただクリックをしまくって絵を切り替えていくだけの作品になります。

私は個人的に「分岐なしの1本道」のサウンドノベル作品を「ノベルゲーム」とは呼ばないようにしました。これはゲーム性を考えていくなかで、分岐なしの作品は単なる「サウンドノベル化」に過ぎないと判断したからです。

人によっては文豪の作品をサウンドノベル化する方もいらっしゃいます。著作権が切れているものなら問題ないでしょう。しかしこれはサウンドノベル化、デジタルノベル化、ソフトウェア化するといった行動であり、「ゲーム性」は追加されません。あくまで音楽やビジュアルの演出を加えるだけです。

たとえそうした既存の小説のサウンドノベル化であっても、また分岐なしの1本道作品を制作するにしても、労力はかかるのでその「制作をした」「完成させた」という点を否定することは、私はしたくありません。

しかし同時に、サウンドノベルとしてしっかりゲーム性を考えて作品づくりをしている人と、ある程度の違いを認めておいたほうがいいとも思います。そのため私はゲーム性がしっかり確立されているサウンドノベル作品をノベルゲームと呼ぶようにしています。


ほぼストーリーなしの作品

海外作品のうち、特に3D作品に顕著なのですが、日本の作品ではあまり考えられない「ほとんどストーリーがない」というゲームがあります。ホラーゲームなどでは敵となるキャラクタが1体登場するだけで、他に人物キャラが登場しないものも少なくありません。

これは3D作品の場合、3Dモデルを個別に作るコストが大きいことが関係しているかもしれません。サウンドノベル作品だと設定を考えておけば後は文章で登場させるだけですし、RPGツクール作品でもキャラチップ(グラフィック)を用意すればいいだけなので、コストは低めです。

また海外作品はデモ版でないものでも「習作」である感触が強いものも多数あります。日本のフリーゲーム界隈より「技術を開陳する」という意味合いが強めなのかもしれません。ときにはグラフィックのセットを見せられていて、「この物件イイでしょう?」といわれているような感覚になるときもあります。

場合によってはJRPGと海外製RPGの主人公の違いなども起因しているかもしれませんが、ここでは主題と異なるので省略しておきます。

さいごに:フリーゲーム・インディゲームの将来は?


こういうレビュー活動をある程度続けていると、フリーゲーム・インディゲーム業界はどうなるのだろうと考えます。今のところ、現在まで約20年間大きくは変化してこなかったので、今後数年で大きく変わることもないのだろうと考えています。

おそらく技術はより発達し、ある程度2D作品は淘汰されるのかもしれません。しかし絶滅するまではいかないでしょう。そうした浮き沈みよりも、FNaFシリーズのようにメジャー化していくインディ作品がどのように登場するのだろう、という興味のほうが世間的には大きいのかもしれません。

私としても多少なりともストレスはあるものの、やりがいが感じられる活動ではあるので「#1ツイゲームレビュー」を続けていこうとは考えています。
もし改善点やご意見などありましたら、フィードバックとして活用させていただきたいと思っています。

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