見出し画像

佇む女

この話は裕二さんという男性が聞かせてくれた、彼が大学生のときの体験談です。

それは、都会の学生生活にもようやく慣れた、大学1年生の夏のことでした。
裕二さんは、とある居酒屋で深夜勤務のアルバイトをはじめました。
店が終わって帰宅するのはいつも午前2時を過ぎた頃。
寝静まった住宅街をひとり、中古で買った自転車を鼻歌交じりに漕いで帰るのが彼の日課となりました。
下町の入り組んだ細い道を縫うように15分ほど走った先の、袋小路の露地の奥にある古いアパートで裕二さんは一人暮らしをしていました。

バイトを始めて一ヶ月ほどたったある夜のことです。
その日もいつも通り自転車で帰宅していた裕二さんでしたが、アパートへの袋小路へと曲がる手前にある駐車場に、一人の女性が立っていることに気がつきました。
腰近くまである長い黒髪に、白いブラウスと黒っぽいスカート姿で、街灯の明かりの届くか届かないかという位置に、道に背を向けるようにして立っています。

そのときは彼氏の車でも待っているのかなと思い、たいして気にもとめずに通り過ぎた裕二さんでしたが、女はその翌日、さらには三日目の夜にも、同じ服装で深夜の駐車場にひとり立っていたのです。
さすがに気味悪く思った裕二さんは、なるべくそちらを見ないように自転車の速度をあげて、女のそばを夜毎通り抜けたのでした。

そうして一週間がたち、明日はバイトが休みという夜のことでした。
裕二さんは一週間頑張った自分へのご褒美とばかりに、帰る途中のコンビニで、いつもよりは少し値段の高い弁当に、ノンアルコールのビールやおおつまみなどを買い込んで、ウキウキとした気分で自転車を走らせました。

やがて件(くだん)の駐車場が見えてきました。
女は相変わらずこちらに背を向けて立っています。
裕二さんは、いつも通りスピードをあげてそのそばを走り抜けようとしました。
しかし、その日に限って道路の段差にでも乗り上げたのか、自転車が大きくバウンドしてしまいました。
そしてその拍子に、前かごに無造作に放り込んでいたコンビニの袋から、ノンアルビールの缶がひとつ、道路にこぼれ落ちてしまったのです。

深夜の道に鈍い音をたてて落ちた缶はころころと転がって、よりにもよって佇む女の足元近くで止まりました。
〈ちっ、なんだよぉ!〉と内心で舌打ちしながら、裕二さんは自転車を停めて、無意識のうちに、できるだけ音を立てないようにして、そろそろと女の方に近づいて行ったのでした。

缶は女のほぼ真後ろに転がっています。
拾い上げようとして腰を屈めた状態で、何気なく眼の前の女の足元を見た裕二さんでしたが、一瞬〈えっ?〉と、わが目を違い手を止めました。
女の足元…、履いている黒いヒールのつま先が彼の方を向いていたのです。
そして少し目線を上に移すと、だらりと下げられた女の両腕…、その先の両方の手の親指もまた、裕二さんの側にあるのでした。

〈こっちを…向いてる?〉と恐る恐る彼が見上げたとき、折しも風に吹かれてなびいた女の長い髪の間から、引きつったように微笑む真っ赤な唇と、大きく見開いて彼を見下ろしている血走った片目が見えたのです。

腰を屈めた姿勢のまま、裕二さんは女と数秒見つめ合っていましたが、いきなり弾かれたように立ち上がり、缶を拾うのも忘れて自転車まで泳ぐようにして戻って、アパートへと全速力で逃げ帰ったのでした。

今までこちらに背を向けているとばかり思っていた女が、実はその長い髪を顔の前に垂らして、その隙間から薄笑いを浮かべつつずっとこちらを見ていたのかと思うと、裕二さんは恐ろしくて、せっかく買ってきた食事も喉を通らず、一睡もできずに夜を明かしたのだそうです。

一夜明けて、すぐにでもどこかに引っ越ししたいところでしたが、金銭的にそうもいかず、結局は深夜のバイトを辞めてしまったた裕二さんでした。
「それよりも何よりも…」と彼は言います。
「一番困ったのは、あれから髪の長い女性とはいっさい付き合うことができないようになってしまったことですよ。それどころか、髪の長い女性の後ろを歩くのさえ、しばらくは恐ろしく思えてしかたなかったんです」と、今なお声を震わせて語る裕二さんなのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 九十六日目
2023.11.25

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?