見出し画像

ダッコちゃん

これは昔、私よりも10歳以上年上の従姉妹から聞いた、彼女の職場の先輩の話です。

時代は昭和36年…1961年3月のある夜のことです。
その先輩(仮にA子さんとしておきます)は、怒りながらひとり自分の部屋の片付けをしていました。
それというのも、ついさっき一年ほど付き合った彼氏と別れたばかりだったからです。

彼氏(B夫くんとしておきます)の、付き合うほどに目立ってきた偉そうな物言いや、A子さんへの強い束縛、それに反していざとなったときの頼りない態度などなど、これまでずっと我慢していた不満が、その日、ささいな口喧嘩から一気に噴き出して、大喧嘩へと発展しました。
そして、ついさっきA子さんの方から別れを宣告して帰ってきたところなのでした。

思いがけず別れ話を切り出されたB夫くんは、急に態度をあらためて、なんとかA子さんの機嫌をとろうと、平謝りにあれこれと言ってきましたが、その態度の急変も、一旦別れようと決心したA子さんにとっては、なんとも未練がましく見えて、よけいに怒りを増幅させたただけでした。

彼女は怒りにまかせて、B夫くんとの思い出を処分しようと、深夜にもかかわらず、自室の片付けを始めたのでした。
一緒に写っている写真や、それまでにもらったプレゼントなどを整理している時に、部屋の片隅に転がっているダッコちゃんが目にとまりました。

『ダッコちゃん』は、1960年4月に発売されて大ブームになった、空気を入れて膨らますタイプの黒いビニール製の人形です。
腰蓑をつけた黒人のような姿を、シンプルに可愛くデフォルメしたもので、両手が輪のようになっていて、木にしがみつくコアラのように、腕などに抱きつかせたり、ぶら下げることができる人形でした。

前の年の6月くらいから若い女性を中心に大ブームになり、夏には腕にダッコちゃんを抱きつかせて歩く女性や子供の姿が、街なかや海辺など、いたるところで見られました。

製造元の宝ビニール工業所が、のちにタカラトミーへと発展する礎(いしづえ)を築いた商品でもありました。
当時は、急速な流行の勢いに製造が追いつかず、品薄となり、おもちゃ屋の前には、なんとか手に入れようという人たちの長い行列があちこちで見られ、ニュースにもなったほどです。

A子さんの部屋にあるダッコちゃんも、その頃B夫くんがあちこち探し回って、やっと手に入れてきたものでした。
しかし、そんなダッコちゃんの大ブームも半年ほどで終わってしまい、今では部屋の片隅に無造作に転がされていたのでした。

A子さんが手にとってみると、少し空気の抜けかけたダッコちゃんは、その片目でしきりにウインクしてきます。
ちなみに、この見る角度によってウィンクする目玉の特殊シールの有無が、本物と偽物を見分ける目印とも言われ、ブームの後半には、目玉のシール単体でも販売されたほどでした。

しかし、その時のA子さんにとって、能天気にウインクしてくるダッコちゃんは、自分を馬鹿にしているとしか思えず、力まかせに空気を抜いて、くしゃくしゃに潰し、処分する予定のB夫くんとの思い出の品の上へと放り投げたのでした。

そして、そこまでしたところでA子さんの怒りもようやく少し鎮まり、気づけばとても疲れていたこともあって、その日はそのままにして寝てしまったのだそうです。

眠りについてどれほどたったころでしょうか。
A子さんはふと目を覚ましました。
何か夢を見ていたような気もしますが、夢の内容はすでにおぼろになっています。

壁の方を向いた姿勢から、反対側へと寝返りを打つと、部屋の中央、ほの暗い豆電球の明かりの下で、なにか小さな黒い影が動いているように見えました。

〈なんだろう?〉とぼんやりとした頭で、A子さんはしばらく考えていましたが、いつしか睡魔に襲われて、彼女は再び眠りについてしまったのでした。

そして翌朝、目が覚めたA子さんは、すぐに上にして寝ていた左腕に違和感を感じたそうです。
〈え?なに?〉
まだ完全に覚めきっていない頭で考えながら、軽く持ち上げた左腕に彼女が見たものは、しっかりとしがみついているダッコちゃんの姿でした。

全体にシワだらけで、完全に空気の入りきっていないその真っ黒なビニール人形は、A子さんの腕にしがみつきながら、しきりにウインクを繰り返しているのでした。

きのう、寝る前に空気を抜いて、くしゃくしゃに潰したはずの人形がなぜここに…?
A子さんは事態が飲み込めず、しばらくぼんやりと考えていました。

〈…そういえば夜中に、部屋の中で動いている黒い影を見たような…〉
そうやって夢うつつの記憶を辿っていくと、しだいに一つの映像が彼女の脳裏に蘇ってきたのでした。

豆電球の、うす暗いオレンジ色の明かりの下で、空気を抜いたはずのダッコちゃんが、ひとりでにムクムクと膨らみ始め、ゆっくりと起き上がっていく姿…
それを確かに彼女は見たのです。

ぼやけていた記憶にしっかりとピントがあったとたん、A子さんは一気に怖くなり、無我夢中でダッコちゃんを腕から引き剥がし、床にたたきつけました。
そして大きな裁ちばさみを持ち出して、ダッコちゃんをバラバラに切り刻んだのでした。

「きっと未練がましいB夫の執念が取り憑いていたんだろう」とA子さんは言っていたそうです。
たしかにそうだったのかも知れません。
しかし、私にはB夫くんの執念というよりも、人形そのものに意思があったのように思えてなりませんでした。

捨てられまいとして必死にしがみついているダッコちゃんの姿を思うと、一抹の哀れさを感じてしまい、なにもそこまでしなくてもと思ってしまった…そんな、60年以上前のお話なのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「人形に纏わる不思議な話」
2024.3.16

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?