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ただそれだけの話

これは数年前の夏に、前田さんという50代の男性から聞いたお話です。

その年の春、前田さんが所長をしている、とある会社の営業所に、清水くんという某国立大学を卒業した新人が配属されてきました。
真面目で几帳面な性格で、仕事もすぐに覚えて、周囲の評判も良い好青年でした。

ゴールデンウィークも明けたある日のことです。
「おはようございます。…所長、ちょっといいですか?」
出勤した前田さんに清水くんが声をかけてきました。

営業所といっても社員十数人の小さなオフィスです。
清水くんはいつも出社一番乗りで、前田さんがそれに続くというのが、この春からの毎日の出勤パターンでした。

「おはよう。あいかわらず早いねぇ。で、どうした?」
前田さんは何か仕事上の悩みの相談かなと思いながら、できるだけ明るい調子で言葉を返しました。

すると清水くんは、オフィスの一角にある扉を指差しながら
「あの、あそこの応接室のドアなんですが…」と少し口ごもりながら言うのでした。

清水くんの指さしているのは、来客用の応接室として使用している小部屋の扉でした。
ガラスの小窓がついたドアで、応接室の内側に開くタイプのごく普通の開き戸です。

「あのドア、僕が出勤して来るといつも少し開いてるんです」
「ほぅ」
清水くんの思いがけない言葉に、前田さんはどう返事をすればよいか戸惑っていました。

「僕、自分でも時々いやになるんですが、扉がきちんと閉まっていないとすごく気になる質(たち)なんです。
あのドアも退社時に、ちゃんと閉まってるのを確認して帰ってるんですが、朝来てみると、いつも10センチか15センチほど開いてるんですよ。
それがどうしても不思議でしょうがないんです。
いつも所長が一番最後に退社されるじゃないですか。
もしかしたら何かご存知かなと思って…」

「いやぁ、まったく気づかなかったなぁ。そんなに毎日使わない部屋だしなぁ。
よしわかった、今日から帰り際に気をつけてチェックしておくよ」
真顔で言ってくる清水くんに対して、前田さんはとりあえずそう言って、その日は仕事を始めたそうです。

それから数日後の退勤時、
「所長、この前お話した応接室のドアの件ですが、お帰りの際のチェックはしていただいてますでしょうか?」
清水くんが、恐る恐るといったふうに尋ねてきました。

「ああ、あれから退社する時には気をつけて見ているけど、いつもちゃんと閉まってるよ」
そう前田さんが答えると、
「そうですか…、でも僕が出社してきた時には、これまでと変わらず、まだ少しだけ開いてるんですが…」と清水くんは言うのです。

「え、そうなの?帰るときに見たらいつもきちんと閉まってるし、きのうこのビルの警備員にもちょっと聞いてみたんだが、夜中の見回りのときには別に問題ないって言ってたしなぁ。

あの部屋は窓もないから風で開くなんてこともないだろうし、ドアノブやラッチにも別にガタツキはないみたいだし…。
…おかしな話だねぇ」
「そうなんです。僕、なんかうす気味悪くて…」
と、そんな言葉を交わしながら、その日もこの話題はあやふやなままで終わったのでした。

さらにその数日後の終業時、
「所長、応接室のドアの件なんですが…」
そう話しかけてくる清水くんに、前田さんは少しうんざりしながら、
「え、今度はなに、どうしたの?」というしかありませんでした。

「すいません。どうしても気になってしまって…。
あいかわらず毎朝少しだけ開いてるんですが、今日は仕事中でも、ふと気がつくと…開いてるんですよ。
今日は来客はなくて、あの部屋は誰も使ってないはずなのに、仕事中に何気なく見たら開いてるんです。

それに、しばらくじっと見てると、あのドアの隙間から誰かがこちらを覗いてるような気がして、今日一日ずっと落ち着かなかったんですよ」
清水くんは怯えた口調でそう訴えかけてきます。
「気のせいだよ、気のせい」
前田さんはそう押し付けるような調子でなだめて、とりあえず清水くんを帰宅させたのでした。

けれど、その翌日も清水くんは、
「所長、今日もあのドア、やっぱり仕事中に少し開いているんです。
で、気になるんで何度も閉めにいったんですが、さっき閉めたとき、振り向いて見たら、一瞬小窓のガラスが明るくなったんです。
だれかが、部屋の中にある灯りのスイッチをつけたんですよ。

あの、もしかして…もしかしてですが、昔あの部屋で何かあったりしませんでしたか?
たとえば誰か首を吊ったとか…」と言い出す始末です。

「何を馬鹿なことを。そんなことはありゃぁせんよ。
だいたいこの営業所が開設されたのは、ついこのあいだ、きみが来る一年前のことなんだから…。へんな噂をたてんでくれよ」
前田さんはいつになく厳しい口調で、そう清水くんに言ったのでした。

しかし、この日から清水くんは、仕事中も応接室のドアの隙間を絶えず気にするようになり、当然のことながら仕事に集中できず、ミスも多くなっていきました。
また、応接室のドアの噂は、ほかの社員、特に女子社員の間で広まりはじめているようでした。

見かねた前田さんは、清水くんにしばらく仕事を休んで病院を受診するようにすすめたそうです。
生真面目な清水くんは、それでもしばらくの間は無理をして出社して来ていましたが、6月に入りついに休職して、結果的には退職してしまいました。

「いやはや、元はといえば、知らないうちにドアが少し開いてるっていうだけのことなのにねぇ。
人間、気にしはじめると何でも怖く思えたり、見えたりするもんなんだね。

おかげで、清水くんの一件以来、俺もなんだか応接室のドアの隙間が気になりはじめてね、近頃じゃあ、ついついそっちの方に目がいっちゃうんだ」そう言って笑っていた前田さんでした。

そして、この話を聞いてから数カ月後のことです。
前田さんが早期退職したという風の噂が聞こえてきました。
聞けば精神的な病が原因とのことでした。

気がついたらドアが少しだけ勝手に開いている…
ただそれだけの話のはずだったのですが…。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
恐怖体験受付け窓口 百五日目
2024.2.24

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