桟橋-1


 


 きりきりと巻き上げられた釣り糸の先に、黒い鉄屑が引っかかっている。釣り人はそれを左手で針から取り外す。右手に持った竿を自分の体の右隣に置き、空になった手で、竿よりまた一つ分右隣に置かれていた金槌を取る。釣り人は左手の鉄屑を右手の金槌でコンコンと叩き、それから鉄屑を、自分の左側にあるベルトコンベアの上に置く。コンベアは釣り人の向いている方向と真逆にまっすぐ伸びて、鉄屑を運んでいく。釣り人は見向きもせず釣り竿を手に持ち、糸を下へ垂らす。その繰り返しである。波の音もまた、寄せたまま、返さず。或いは逆かもしれない。コンベアは定規で引いたような稼働音を発し続けている。

 初め、泥のような無意識だけがあった。ある時そこへ何かが投げ込まれ、衝撃で舞い上がった泥がゆっくりと積もって魚になった。目が開いた時から魚は一度もまばたきをしていない。そして手足もないので油を搔き分けて泳ぐこともなく、ただ沈んで、水槽のガラス越しに同じ景色を見ていた。小さな折り畳み式の椅子に腰かけた釣り人の背中とその道具、コンベア、それらでない部分を染める暗闇。それが魚のすべて。また一つ鉄屑が釣り上げられ、釣り人はそれを金槌で叩き、コンベアに置く。恙なく作業は繰り返される。魚は、小さなカメラだった。

 別のある時、魚の見る景色に変化が訪れた。コンベアに乗って移動する鉄屑、それが光る粉を吹いている。ふわりと、ごく軽いのだろう、「それらでない暗闇」にいつの間にか音もなく浮かんでいる。
(………………。)
魚は初めて何かを目で追うということをしたが、光る鉄屑は間もなく世界の左端に到達し、消えた。動かした後の視線をどうしたらよいかわからずにいると、釣り人が次の鉄屑を釣り上げたのが見えた。金槌で叩かれ、コンベアに置かれる鉄屑。魚は置かれてすぐのそれを注視した。一つ前のものと同じように、光を纏っている。機械の振動でコンベアの上の鉄屑はコトコトと揺れて動く。揺れて剥がれた小さな光たちが暗闇の中を飛んでいく。魚は粒の一つひとつの行く先を見ようとした。しかし、それぞれが違うところへ飛ぶので追いきれなかった。そうこうしている間にも鉄屑は動き、新しい粉を吹く。そして、また左の方へ去って行った。
(………………。)
魚は釣り人を見た。まだ釣り糸を下へ垂れている状態だったので、そのまま待った。やがて釣り糸が巻き上げられ、針についた鉄屑が見えてきた。それはまだ、ただの鉄屑だった。釣り人が金槌でコンコンと叩くと、それを合図のようにして、火が付くようにして光が灯るのだった。釣り人は光る鉄屑をコンベアに置いた。鉄屑は暗闇に光の粉を撒きながら、釣り人と魚から離れていく。魚はそれを見送ってから、次の鉄屑を待った。今度は、その繰り返しになった。
(ひかり)
魚は光を観察した。光の強さや色が毎回違う。そういえば鉄屑自体、どれも似た見た目ではあるが決して同じ形ではなかった。鉄屑が違えば光も変わる。全部で一体何種類の光があるのか、魚は知らない。
(ひかり)
魚は、世界がもっと広ければ光はその分遠くまで飛べるのだろうかと疑問に思った。「それらでない暗闇」は、魚が視線を動かすとその方向へ大きくなり、同時に、反対の方向には小さくなる。間もなく魚は、自分の視界に気づいた。魚のすべてだった景色は本当の世界の一部に過ぎないのだった。
(ひかり)
魚には泳ぐための手足がないので、ただ沈んで、目だけを動かすことしかできない。現れる鉄屑を、魚はその毎度丁寧に見つめた。カメラのレンズは油に包まれ、錆びることなく常に光を追う。

「ひかり……」
釣り人は座ったまま魚に振り返った。魚は、釣り人の灰色をした顔を見た。ちかちかと二つ、光るものがある。釣り人の目だ。その光は、鉄屑から出る光とは全く異質であった。鉄屑の光の粉は暗闇へ浮き出た後に魚の視界から外れるまで漂い続けるのに、釣り人の目の光は生まれた次の瞬間、釣り人の目の中で消えてしまう。釣り人はコンベアに乗って動かないので見失う心配もない、それなのに、魚は初めて鉄屑の光を見た時と同じ戸惑いを覚えた。とまどい? それはなんだろう。魚は目を動かして探した。どこにもない。釣り人も、コンベアも、鉄屑も、暗闇も、光も、魚の見る場所にある。でも、とまどいは、どこだろう? 確かにあるのに見えない。
「見えるか。この光が」
釣り人はそう言って、左手に持った鉄屑を魚の方へ向けた。仄かに、しかし止めどなく、光は生まれる。魚は光を目で追う。それを返事の代わりとしたのか、釣り人は魚に背を向けて元の作業に戻った。見えるかと示されたその鉄屑はコンベアに乗せられて行ってしまったが、釣り人は別のものを釣り上げては叩き、光を灯してコンベアに置く。魚は今までそうしてきたようにそれらを眺めた。釣り人の目の光は違う。釣り人がこちらを向かない限り、魚にはその光が見えない。
「ひかり?」
魚は声を上げた。そうすれば釣り人が振り返ると思ったからだ。しかし、釣り人は作業をやめない。魚はもう一度試してみた。
「ひかり」
「そうだ。忘れるな」
釣り人は姿勢を変えずに言った。
「目を閉じても、きっと見える……」
それきり釣り人は黙り込んだ。魚は何度も声をかけたが釣り人は無反応で、顔を向ける気配はない。魚は呆然とした。なぜ? 彼の言葉の意味は? 彼を動かすにはどうすれば? 自分には手足がない。それは、無力であることを意味する。左へ通り過ぎる鉄屑の光の軌跡を辿るのも忘れ、魚はその感覚に没頭した。とまどいとは、無力さとはどこにあるのか、魚は気づく。見えないそれは、己のレンズの内側にあった。そうして魚は、ただのカメラではなくなった。

 それからしばらくの間、釣り人に無視されたショックや、その「ショック」含め自分の内側で生まれる様々な感覚の処理に追われていた魚だったが、徐々に冷静になっていった。わだかまった泥がかき混ぜられ、水中へ散り散りになって、長い時間をかけてまた沈むように。魚は、時間というものについても、はっきりと意識するようになった。自分の見てきた景色は始点も終点もない輪のようであったが、輪の線をなぞろうとすれば必ず右回りか左回りかになる。恐らくそれと同じに、時間は過去から未来へと一方向に流れているのであろう。だからこそ魚には、自分が変わっていっている自覚があった。相変わらず水槽の底でじっとしているだけではあるが、絶えず何かを考えている。どうして、以前の自分は考えることさえできなかったんだろう? 魚は不思議に思った。
 最近魚が考えているのは、見えない内側のことである。光に種類があるように、感覚にも違いがある。例えば魚は、釣り人と「そうでない暗闇」とを見て区別できる。このように、何かが何かと「違う」と認識するには、色や輪郭などの境目が必要だと思っていたが、感覚は目に見えない。体に邪魔されてわからないだけで、感覚にも色があるのではないかと魚は踏んでいた。それらは、どんな色をしているのだろうか。輪郭はどうだろうか。手があったなら、今すぐ自分を分解して中身の感覚を取り出したのに。
魚はコンベアを見た。ちょうど一つ、鉄屑が通り過ぎようとしているところだった。今回の光はやや青みがかって、光る強さは中くらい、粒の量も中くらい、明滅は遅くて弱い。別のことを思考しながらでも、魚は鉄屑の光の特徴を即座に把握する癖がついていた。ふわふわと舞うそれのうち一粒を、魚は視界から消えるまで目で追ってみた。数秒でそれは見えなくなったが、世界は見える範囲よりも広いので、たぶんまだどこかで浮いているだろうなと推測できた。数えきれないほどの鉄屑を見送り、光の差を知った。その時々は特徴がバラバラでも、記憶の中で並び替えるのは容易い。似た光同士を隣り合わせていけばピースは揃う。ただ一つの例外を除いて。
(光……)
魚は釣り人の目の光を覚えている。あれだけが、どのピースとも合わない。この謎のカギを握るのは釣り人だ。話は単純、鉄屑同士の見た目は似ているが、鉄屑と釣り人は全く似ていない。だから光も似ていない。そういうことだろう、と魚は前に考えた。一度結論付けてしまうことで、あの光をもう一度見られないもどかしさから逃れたのかもしれない。しかし、今思い出してしまったのでまた捕まった。
 コンコン、と釣り人が鉄屑を叩く。すると光が生まれ始める。明るい橙色、光る強さは弱い、粒は中くらい、明滅は速くて弱い。だとして、釣り人に光を灯したのは誰なのか。彼を金槌で叩いて目覚めさせた相手は一体どこへ消えてしまったのだろうか。釣り人が次の鉄屑を釣り上げた。それを金槌で叩くと、光が……光が、出てこない。
(あれ……?)
その時、釣り人が振り返った。突然のことに魚は驚いたが、思考を押しのけて視線が吸い込まれる。あの目だ。
「あ、」

 魚の視界はぐにゃりと歪む。水槽の中に何かが投げ込まれ、俄かに油が波打った。波は釣り人の姿を熔かして輪郭と色をほどいていく、それでもあの光だけは見える……。
「光……」
それは魚が上げた声か、それとも釣り人のものか。一瞬で消えてなくなる、あの光。あれを知っている。見たことがある。あれは……あれは火花だ。
 さざめく油のふるえは治まることなく、世界は緩やかに混ざり続ける。まばたきをしない、泳ぐことのできない魚は、水槽の底に沈んだままそれを見つめ続けた。そして時間が経ち、別の何かが見え始める。


 かつて、街には人が生きていた。この桟橋は街に住む人々によって造られた。

(続く)



2022/3/20 病院

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