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【小説】老婆の産道

 少女は和室の障子を開き、老婆の産道を目の当たりにした。老婆は少女の祖母であった。
 馴染みのある祖母の顔は少女と正反対の壁際にあり、少女はその灰色の物体が祖母だとすぐには気づかなかった。少女に思い浮かんだのは枝だった。物拾いを好む祖母ならば、近所の林や河原から立派な枝を持って来たとしても不思議ではなかったのだ。
「トウコや」
 老婆は顔だけを起こし、少女に白濁した瞳を向けた。少女は驚いた。ひとつには、その物体が祖母の脚だとわかったため、そしてもうひとつには、祖母が自分を見ながら母の名を呼んだためだ。
 少女が恐々近寄ると、老婆は目を細め、肩を畳に置いたまま腰を浮かせた。骨ばった細い脚の関節が鳴り、二本の太腿の筋がMの字を描く。老婆は細くかすれた息を吐き、産道は呟くかのように震えた。
 少女はすでに「産道」という名と、そこから赤子が生まれ出ることを知っていた。
 人はどこからやってくるのか。少女の問いに、母のトウコが「ここ」と、投げやりに股をさして答えたことがあった。
「どうやって?」
 少女は食い下がり、トウコは顔を引きつらせた。そこへ横からトウコの夫が口を挟んだ。
「お父さんが何度もお参りをしたからだよ」
 サンドウに。トウコの夫はニヤけながら付け加えた。トウコは顔をしかめたが、やがて「そうよ」と同調し、少女の問答を終わらせた。
 その日から少女は産まれるときの様子を自分なりに思い描いた。トウコの産道の前で、夫が両手を合わせて願掛けをする。幾日も立ったある日の夜、突然トウコは身を強張らせる。その股の裂け目から、瑞々しく張った腕が二本伸び、裂け目を広げる。夫が今一度強く念を込めると、両手は地面をがっしりつかみ、裂け目から頭が這い出て来る。短い黒髪を湿らせた赤子は、目を閉じたまま小さな鼻をひくつかせ、空気の感触を肌に感じる。圧迫するもののない広い世界に、赤子は驚き、大きな声で泣く。自分はここに生まれたのだと、声にならない叫びを上げる。
 少女の想像は幸福な図像だった。しかし、出産が成功するとは限らないのだと少女は最近知った。友達の妹になるはずだった赤子が、息を吸えずに亡くなったのだ。
生まれてから死んだのか、生まれる前から死んでいたのか、少女は疑問に思ったが、涙ぐむ友達に質問はできなかった。疑問はやがて、少女の中で恐れとなった。
 もしも生まれる前から死んでいたならば、その死体こそ人の本来の姿なのではないか。実は人間はただの肉体にすぎず、産道を通ることで偶然的に生命を宿すだけなのではないか。産道の奥、人には見えず触れられもしないその場所は、さながら神の領域だ。産道は自分を生かし、殺すこともできたのだ。
 産道に対する敬意と畏怖。それらのために、少女は祖母の産道から目が離せなかった。
「トウコや。大きくなったねえ」
 老婆はほんのり赤い唇を広げて笑った。頬に皺が幾重も刻まれる。祖母の頭の中に孫はもういないのかもしれないと少女は思い、うつむいた。すると少女の脚に老婆の手が伸びてきた。瑞々しい少女の脹脛に老婆の指がゆっくりとひとつずつ絡みつく。侵食された肉が締まり、微かな痛みを少女は感じたが、相手が祖母であるがゆえに、じっと耐えて見守っていた。
「トウコは脚が綺麗だね。これなら良いオトコが見つかるよ」
 母もそのように褒められたのか、少女は気になった。少女にとって、トウコの夫は汗とタバコからなる悪臭の塊だった。細い毛先が乱れる禿頭も締まりのない話声も嫌いで、トウコと同意することも多かった。しかし祖母に対して、少女はトウコと意見を異にしていた。少女はどちらかというと好ましく思い、トウコは嫌悪を隠さなかった。トウコは少女の祖母をイロボケクソババアと呼ぶ。どういう意味なのか。少女の問いにトウコは答えない。その代わり「お婆ちゃんみたいになっちゃダメよ」と言う。昨年、昔の友達だという漁師の家に無断で二週間滞在していたのをトウコによって連れ戻されてから、少女の祖母は和室に軟禁されていた。
 夏の熱気にあてられて、和室は蒸していた。しかし、老婆の産道は乾き切っている。その産道から生まれ落ちたことをトウコはすっかり忘れ、そのようなトウコの変貌を祖母自身が忘れているのだと少女は思い、唇を歯の先で噛み、開いた。
「婆ちゃんの脚も綺麗だよ」
 少女は力を込めて笑顔を作った。老婆の脚が嬉しげに躍り、藺草の匂いが膨らんだ。
 老婆の産道に少女は掌を当てた。木の枝と異なる温もりがあった。血が通っている。老婆は呻いた。咳混じりの普段の息遣いとは違う、柔らかな鳴き声だ。
「ありがとう、婆ちゃん。トウコを産んでくれてありがとう」
 産道はさらに熱くなる。かつてその神域よりトウコは誕生した。やがてトウコは妻となり、自身の神域に夫の祈り受け、少女の肉体に生命をもたらした。どれかひとつでも欠ければ自分は存在しない。少女は熱心に祖母の産道を撫で続けた。
「ありがとう、トウコや。嬉しいよ」
 どれほど撫でられ、熱を持っても、老婆の産道は湿らない。少女の目が潤み、涙が畳に落ちた。
 母の呼ぶ声が聞こえても、少女は決して動かなかった。

(了)

※この小説はブンゲイファイトクラブ2落選作です。

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