【小説】読書中はお静かに 第一話 本を捨てる(part 3)
3-1
二月一七日、早朝。真銅は古新聞の詰まった手提げ袋を抱えて公民館を訪ねていた。三か月に一度の廃品回収。市が用意したトラックに、古い紙ごみや 古着、空瓶・空き缶等、資源ごみを一気に持ち込むことができる恒例行事だ。
トラックが市内の地区を回る都合上、時間は早めに設定されており、真銅の地域の回収は七時半の開始予定だった。それでさえ市内最初ではなく、到着したばかりのトラックにはすでに前の地区の資源ごみが積み込まれていた。ボランティアの人たちが荷台の泥障(あおり)を下ろし、準備を進めている。
トラックの側面に延びる待機列の先頭にいた真銅は、荷台の端に置かれた一括りの束に何気なく目を向けた。束の中には中学校で使用していた教科書などもあった。浮かんだ郷愁は、その下にある分厚い本への驚きに取って代わられた。
無罪の烙印 剣持有理数
それぞれ書名と著者名だ。見覚えがあるどころかつい先日。友人の阿倉と一緒に書店で探した本だった。
折よく積み込み開始が告げられ、待機列の人たちは横一列となり、荷台へと詰め掛ける。手提げ袋を積み込みながら、真銅は『無罪の烙印』を手元に近づけた。黒い炎を思わせる装丁。乾いた手触りの表紙。間違いはない。引き抜こうとしたが、ビニール紐に緩みはなく、びくともしなかった。
「イブちゃん、おはよ」
健闘虚しく、背後からの声が真銅の作業を中断させる。阿倉がすぐ後ろに立っていた。真銅は急ごしらえの微笑みを向けた。
「おはよう、眠そうだね」
「うーん、寒い時期はほんとダメ。イブちゃんまだ積み終わらないの?」
真銅は振り向きざまに、本の束ごと手に提げていた。『無罪の烙印』は、教科書よりも幅が小さい判型だったため、見下ろす阿倉の視線から上手く隠すことができた。
「中学のときの教科書とか捨てようと思って持ってきたんだけど、急に名残惜しくなっちゃって」
「ああ、わかるよ。私もまだ本棚に挿しっぱなしだよ。読み返すことも ないだろうけど、なんとなく捨てにくくて」
少し困った顔をしてから、スバルは自分の新聞紙や、雑誌の束を積み込んでいく。真銅は高鳴り続けている心 臓をどうにか落ち着けようとした。友人である阿倉に隠し事をした罪悪感が、真銅を神経過敏にしていた。
しかし、真銅は自分に言い聞かせる。悪いのは自分ではない。そもそもの原因は『無罪の烙印』を受け取ったはずの桑水流だ。真銅はその名を無音で諳んじて、すぐに口を閉じ、固く結んだ。
3-2
文芸部室も二回目となると、入り口の看板が右下に若干曲がっていることや、並んでいる本棚が四つとも別のものであるなど、細かな点にも気づくことができた。彼方は昨日と同じように窓辺の席に座っている。そこが定位置なのだろう。ぶすっとしたまま、真新しい頬の湿布を指先で撫でていた。ここに来る前に、保健室で調達したものだった。
「ぶつけたのは悪かったけどさ、それは大袈裟じゃない? 保健の先生も戸惑ってたよ」
「僕の身体は痛みに慣れていないんだ。君らみたいな頑丈な連中と一緒にしないでもらいたい」
「そんなもんかな。喋ってるのは痛くないの?」
「あー、痛い痛い。いてて、地味に痛いなあ」
わざとらしい訴えを聞き流して、真銅は入り口側の席に腰を下ろした。長机の端と端。彼方の姿は西日に照らされていたが、角度のために逆光は免れていた。
廊下での騒ぎの際に自分が倒してしまった手前、真銅は彼方を保健室へと連れていった。彼方が起きたのを見てすぐにでも桑水流を探しに向かいたかったが、彼方がそれを許さなかった。確認したいことがある。そのために話をしたい。彼方は文芸部室を指定し て、真銅は不承不承、その誘いに乗った。
「今日の騒ぎは、昨日の質問と関係があるのか?」
彼方は長机に両肘を置いた。背筋を伸ばすと割とすらりとした印象になる。猫背気味の体勢とぼさついた髪を整えれば引き締まるかも、と真銅は少しだけ想像を働かせた。
「聞けよ」
「聞いてる。ちょっと考えてただけよ」
「緊張感のないやつだな」
癖っ毛に指を絡ませてから、彼方は一際大きなため息をついた。
「僕はお前とは会ったばかりだし、桑水流となにがあったのかも知らない。だが昨日の僕の対応があの騒ぎの引き金になっていたのなら、さすがに気になる。状況を知りたい。めんどくさいことだが仕方ない。今日は読書は取りやめにする。どうなんだ。僕の答えは関係があるか?」
ここで関係ないと答えたら、彼方の取調べからは解放されるのかも知れない。一瞬だ が、真銅の頭にその考えがよぎる。しかし、嘘をつくことは真銅の性に合わなかった。
「関係はあるよ。もちろん。でも悪いのは桑水流よ。あいつは、スバちゃんがプレゼントした本をろくに読まずに捨てたんだ」
真剣な彼方の顔に、真銅もまたまっすぐ向かい合った。
「桑水流は否定していたようだが?」
彼方は鞄からメモとペンを取り出した。ますます取調べらしくなってくる。
「あんなの嘘に決まってる。私はちゃんとこの目であの本が廃品回収で積まれているのを見たんだから」
ピンと来ていない様子の彼方は、どうやら別の街の住人らしいと察し、真銅は説明を加えた。
二日前の二月一七日。日曜日の朝に廃品回収が行われた。出せるのは紙ごみや空き缶・空き瓶などの資源ごみだ。市内は四つの地区に別れており、回収トラックは全ての地区の公民館を巡ってごみを回収する。市内の地区は西、南、東、北区の四つあり、巡る順番もこのとおりだ。真銅や阿倉が暮らしているのは南区で、桑水流のいる西区の次に当たる。 南区の公民館にやってきたトラックに、見覚えのある本が積まれていた。
「それが『無罪の烙印』だった、と」
書名を口にするときに、彼方が綻んだ表情を見せた。
「知ってるのね」
「もちろんだとも!」
途端に彼方はまくしたてた。
「自分が犯した殺人に、何故か絶対的なアリバイが成立してしまい、容疑を掛けられた親友のために自らの有罪を証明していく。倒錯した設定でありながら、親友を救いたい気持ちと裏切りたい気持ちとの葛藤が情熱的な筆致で描かれ、それでありながらミステリの根幹である謎解きの楽しみも兼ね備 えている。デビュー作でありながらその完成度の高さに審査員の度肝を抜いたという、剣持ミステリを読み進めるなら真っ先に進めたい不朽の名作だ」
「そ、そう……人気なんだ。で、阿倉はその本を二月一六日の土曜練のときに桑水流に渡している。誰にもばれないように呼び出して、チョコと一緒に渡したって、スバちゃん自身から聞いたよ」
「チョコ?」
「バレンタインだからよ」
「ああ、そういうこと」
苦い顔でぼやく彼方に、真銅は表情を緩めた。
「妙なとこで鈍いのね。今度あげよっか?」
「元々チョコは嫌いだ。もらっても要らん」
「はいはい」
あしらってから、真銅は改めて質問した。
「要らないからって、あんたは捨てる?」
「ふむ」
彼方は口唇に軽く指を当てた。
「そうだな。いくら苦手とはいえ、持っているだけで害があるわけでもない。ましてもらいものなら、受け取るだろう」
「きっと桑水流は、本を受け取ったときにも同じことを考えたのよ。スバちゃんが渡した本を受け取りはしたけ扉の子の気持ちを受け取るつもりはない。だから、バレないようにこっそり捨てた。スバちゃんのことが嫌いだったから」
真銅の推論を聞き終えると、彼方は指で天板をコツコツと叩く。
「どうして嫌いだと言い切れる?」
「五〇〇ページ近い本は徹夜でもしなければ一気に読むことができない。あん たが言ったことよ」
真銅が腕を組んだ。
「それに、仮に徹夜したとして、あんたならその本を捨てる? 私には読書好きの人のことはよくわからないけど、でもここの本棚を見ていればなんとなくわかる。読み終えた本はしばらく手元に置いておくんでしょう? まして一気読みできてしまうくらい楽しめたのなら」
「そうだな。読み終えてすぐ捨てるのは奇妙だ。部屋にスペースがないか、直に引っ越しの予定でもあるか、もしくは……よほど気に入らない本だったか」
「でしょう?」
真銅は鼻を鳴らした。
「本を捨てるってのは、スバちゃんのものを受け取りたくないっていう意思表示よ。それ以外考えられない」
「その可能性は、否定できない。だがな」
彼方は天井を見つめ、思案した様子をみせた後、真銅に尋ねた。
「仮にそうだとして、お前は何が気に食わないんだ。人が人を嫌いになること自体がいけないわけではないだろう」
それはそうね、と真銅はうなずいた。
「私も桑水流の気持ちを変えたいわけじゃない。嫌いならそれでいい。でもね、いくら嫌いな人からのプレゼントでも、受け取った以上は大切にし てほしい。それができないほどスバちゃんのことが嫌いなら、受け取る素振りを見せるべきじゃなかった。スバちゃんが桑水流に好意を寄せていることくらい、少しあの子と一緒にいれば誰にだってわかる。わかっていて、本当の気持ちを言わずにいたのなら、私はあいつを許せない」
今日の騒ぎの際にいた野次馬にも、知っている人が何にもいたと真銅は見ている。阿倉 と桑水流の関係は決して秘密中の秘密というものではない。知っている人は知っている話だった。
激情に流された騒ぎとはいえ、真銅はまだ桑水流のことを許してはいなかった。逃げていく彼の後ろ姿を思い出すと黒い感情が腹の内側でうごめく。謝罪の言葉や反省の姿勢を見せない限り、真銅は桑水流のことを許せそうになかった。
3-3
「質問していいか」
彼方がメモを手に尋ねた。
「根本的な疑問だ。君はどうしてその捨てられた『無罪の烙印』が桑水流のだとわかったんだ」
真銅は少しほっとした。答えられる問いだ。
「一緒に教科書やノートが捨ててあったからよ。桑水流の名前もしっかり書いてあった。桑水流って苗字も、周って名前もそうそうあるものじゃないしね」
一緒に捨ててあるものに名前が書いてある。これほど簡単な理由もないだろうと真銅は思っていたが、彼方は意外にも口を手で覆い、目を見開いて、有り体に言えば驚いている様子だった。
「教科書とノートが一緒に? それはまさか、中学のか?」
「そうだよ。高校のはさすがにまだ手放さないでしょ。使ってるし」
「それはおかしい」
真銅の力のこもった声に、真銅はきょとんとした。
「なんでよ。教科書捨てることくらい普通でしょ。もう使わないんだから」
「違う。教科書と単行本が一緒に括られていることがおかしいんだ」
彼方はやや前のめりになって真銅を見据えた。
「お前には言ってなかったことがある。昨年の末に、僕は桑水流の家に招かれたんだ。桑水流家の書斎の蔵書整理をするために」
「蔵書整理? なんであんたが手伝うのよ」
「本読みの友達はあんまりいないんだとさ」
彼方は迷惑さをありありと表情に出して言った。
「作業自体は単純な仕分け作業だ。あいつの家の本には全て手作りの蔵書印が押されているから、売るわけにもいかないから、年が明けたら捨てると聞いていたんだが、まあそれはただのずぼらか。二か月も放置しやがって」
ぼやき始めた彼方は、「話を戻そう」と首を振る。
「僕が見たのはあいつの蔵書の一部だが、その中にたしかに教科書もノート も含まれていた。僕自身が要らない本の箱に詰めたんだ。それなのに、どうして土曜日に受け取った本と一緒に括られているんだ? いくらあいつがめんどうくさがりでも、まさか廃品回収の前日の夜になって荷造りするのはおかしいだろう」
彼方の指摘を聞いて、真銅は納得しそうになり、慌てて否定した。
「そうだけど、でも、そのまさかかもしれないじゃない」
「捨てようと仕分けた本を、二か月後にひもで結ぶことが?」
「ありえないことじゃないでしょ」
彼方は口を尖らせたが、まあ桑水流なら、と表情を曇らせた。
「せめて現物があれば考えがまとまるんだがな」
「ああ、見る?」
真銅の言葉に、彼方が今度は一瞬呆然とした。
「あるのか?」
「そうよ。とっさに回収したんだから。本当は桑水流に突きつけてやりたかったんだけど」
「見せてくれ早く!」
前のめりになって机をバンバン叩く彼方に、真銅は奇異の目を向けて慄い た。
「な、何よ。机を叩くなんて暴力的な……今出すからちょっと待って」
文句を言いながらも、真銅は自分の鞄から本をとりだした。黒い表紙に銀色 の縁取りで書かれた『無罪の烙印』の文字。彼方はぎょろりとした 目で本を睨みつけていた。獲物を狙う爬虫類のようだ。
「これが、阿倉がプレゼントして、桑水流の捨てた本。間違いがない か」
「さっき言ったように、桑水流の教科書と一緒に括られていたのよ。蔵書整理の時期はともかく、違和感はないでしょう。それに、決定的なのはこれよ」
それに、と真銅は本を倒して、本文の紙の上側を見せた。
「これこそまさに、桑水流がこの本を捨てた決定的な証拠でしょ」
本を閉じた状態ならば紙束の上に書かれたその文字をはっきり読み取ることができる。
「捨てるものなんだから、『捨』てるって書いてある。これより決定的なものがある?」
その文字を見ながら、真銅は誇らしげに言い放った。対して、彼方は口をぽかんと開いた。瞬きさえ忘れていた様子だった。やがて彼方は後ろにもたれた。パイプ椅子が軋み、頭を傾けた顔に西日が差す。その顔を彼方は両手がすっぽり覆った。わずかに見える口元が歯を覗かせていた。
「は、ははは」
笑いというにはひどく乾いていた。異様な声音に真銅は鳥肌を立てて思わず立ち上がった。
「突然何よ!」
「いや、すまない。ちょっとな」
彼方は身体を起こした。露わになった顔はやはり笑っている。何が愉快なのか、真銅には皆目わからなかった。
「お前のことを馬鹿にしているわけじゃないんだ。人っていうのは思いもよらない偶然を目の当たりにすると笑ってしまう生き物なんだよ」
「偶然?」
その疑問符には答えずに、彼方は『無罪の烙印』を指さした。
「その本は、阿倉昴が桑水流周にプレゼントした本ではない。そんなことは絶対にありえない。証拠を今から見せよう」
彼方はにやりと歯を見せて、自分の鞄から一冊の本を取り出した。それは彼方がここ数日の間に読み切ろうとして果たせずにいる一冊だった。
「僕だって暇人じゃない。見返りなしに蔵書整理なんて手伝うものか。僕の求めた報酬は、あいつの蔵書の中にある未読の本。これはその中の一冊だ。そして、証拠はここにある」
彼方は文庫本をくるりと回す。その動きは、今しがた真銅がやったものと似ていた。本文の上側、重ねられたページで出来上がる空白に文字が並んでいる。
「『あ』の、『5』?」
「これは桑水流の蔵書のルールだ。昨日も話しただろう。人によって本棚への並べ方は様々って」
本を示しながら彼方は話す。
「あいつのルールは著者名の名前の順だ。日本人作家なら五十音ごとに、外国人作家の翻訳本なら原作者のファミリー・ネームの最初の一字のアルファベット順で並べる。そして、そのひらがなの中でも読了した順番で数字を振っていく。『あ』『5』とは『あ』から始まる作家の本で『5番目に 読み終えた本』の意味だ。ほら」
文庫本の背表紙の、著者名には「安東 圭司」とあった。真銅はその文字をまじまじと見つめる。
「変なルール……それで、あいつのルールが何だって言うの」
「その『無罪の烙印』にある文字の、右側だな。角度を変えてみてみろ。そうすればわかる」
しぶしぶ真銅は『無罪の烙印』に目を落とした。先ほどの『捨』の文字の右側。手書きらしく歪んでいるその文字をくるくると回すうちに、真銅の顔色は変わっていった。
「『け』の『10』?」
「そして『無罪の烙印』の著者の苗字は『剣持』だ。『け』から始まる作者の、『10』番目に読んだ本。桑水流のルールに従えばその意味になる」
「でも、じゃあこの左側は何なのよ」
「あいつの父親は桑水流肇(はじめ)というんだ」
彼方はよどみなく真銅の質問を受け継いだ。ただし真銅にはすぐに伝わらなかった。彼方は説明を加えた。
「難しいことじゃない。最初にその『無罪の烙印』を購入したのは桑水流の父親だったんだ。父親の蔵書のルールはファーストネームのイニシャル、『H』の文字を書き込むことだったんだよ」
言われて真銅は本の文字を見返した。九〇度左に回転させるだけですぐに理解できた。横棒が少し突き出た『H』の文字である。よくよく見てみれば、その『H』と『け』の『10』の文字の質感も異なっていた。
つまり、この『無罪の烙印』の持ち主は、桑水流の父親である。
「待って、これってつまり」
真銅は自分のひらめきを口にできなかった。代わりに彼方が言葉を受け継いだ。
「桑水流が言った通りだな。あいつは本を捨てていない」
彼方の声が真銅の耳に届く。
「でも! それならあいつ、どうしてあんな言い方をしたの?」
苦い顔をしながら、真銅は食い下がった。
「まだ家に本があるなら、どうして見せるわけにはいかないって言ったのよ。あの言い方だと、隠し事をしているって思っても仕方ないじゃない。私があいつに手を上げることもなかったのに」
「食らったのは僕だけど?」
彼方の異議は耳に入らず、真銅は眉根を寄せて、混乱を顔に浮かべたままでいた。
自分にはまだ見えていないものがある。歯がゆい思いでいる真銅は、パンと手を叩く音で正気に戻った。考えている間に彼方がすぐそばまで来ていたのだ。
「行こうか。話を聞く必要がある」
真銅は目を瞬かせた。彼方から動こうというのも異様に思えた。
「聞くって、誰に」
「とりあえず体育館でいい。阿倉か桑水流、どちらかだけでもいれば上々だ」
きょとんとしている真銅に声を掛けて、彼方は文芸部室の扉を開いた。
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※この記事はオリジナルミステリ小説『読書中はお静かに』の無料試し読み記事です。
次回の更新は2月13日(日)を予定しています。
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