見出し画像

渋谷系までの渋谷東西戦争(東急VS西武)(2009年未発表)

渋谷の東西戦争勃発!というとアウトローの話みたいで不穏ですが、今回するのは東急と西武の話です。両社がしのぎを削って開発しあったことで、渋谷という街が発展してきた側面があります。その歴史のおさらい。

東急のルーツは田園都市開発会社です。住宅を建てて売る、というのがメイン事業でした。住宅を高く売るには、土地の価値を高めなくてはなりません。そこで鉄道を引っ張ってきて(東急鉄道)、駅前に百貨店を作って(東急百貨店)、バスを走らせ(東急バス)、便利でみんなが住みたくなるように街を開発していくのが仕事でした。中心人物は五島慶太→五島昇。

西武のルーツは箱根土地株式会社です。不毛地帯と言われるような土地の価値を高めて売る、のがメイン事業でした。東急と同じく、鉄道を引っ張ってきて(西武鉄道)、高級住宅を建てて(西武建設)、百貨店を作って(西武百貨店)、バスを走らせ(西武バス)、便利でみんなが住みたくなるように街を開発していくのが仕事でした。中心人物は堤康次郎→堤義明。有名な堤清二は鉄道事業からあえて離れて文化施設に力を入れました。

東急も西武も似てますね。その両者が目をつけた、まだ十分に開発されていなかった街。それが渋谷でした。

歴史的に見れば、百軒店というカルチャー好きの人たちが集うお店の密集地帯を除けば(今回、百軒店の話は割愛)、大多数の人にとってただの乗り継ぎ駅だった渋谷が別の意味を持ちはじめるのは、1964年の東京オリンピック放送のためNHK放送センターが渋谷区に順次移転し、オリンピックの競技会場だった渋谷公会堂が1965年にコンサートホールとして開館してからとなります。

渋谷駅に東急デパート東横店(東横百貨店)が創業したのは1934年とずいぶん古く、1956年12月1日には映画館やプラネタリウムなどが入った複合施設の東急文化会館が作られましたが、本格的な展開はオリンピック後。1967年10月に駅から離れた場所に東急百貨店本店ができると、翌1968年4月19日には西武百貨店渋谷A・B館ができました。どちらもまずは世田谷周辺の上流階級の婦人をターゲットにしたと思しき場所に建てられています。そして次に狙ったのが若者でした。

ここから先は

3,431字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?