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頭脳警察再考

今回は頭脳警察でいってみよう! え、頭脳警察……? 今どきバンド名は知っていても曲を聴いたことがある人って意外と少ないんじゃないか?と想像しますがどでしょか?

1969年、大学のバリケードの中で生まれたバンドという点で裸のラリーズと似たような存在ながら、近年はあまり公に再評価されているところを見かけないバンド=頭脳警察。やはり政治的な印象が強すぎるというところでしょう。かつては1970年代の日本のロック名盤といったら定番でしたが、もはやそんなムードもない。現状ははっぴいえんど&シュガーベイブ一派の勝利としか言いようがありません。そこに対するカウンターとして、今、頭脳警察を、プロフィールを辿りつつ聞いていきましょう。

先に説明すると活動期間は1969~1975年です。レコードを出したのは1972年から。メンバーはPANTA(中村治雄)とTOSHI(石塚俊明)の二人がメインで、あとは流動的でした。1990年6月~1991年5月に再結成、2001年に再再結成しますが、そちらはまた今度。

思えば、フリッパーズは「90年代の頭脳警察」、つまり「自意識過剰の若者の代弁者」だった。

『BAR-F-OUT!』30号(1998-02-10)p117「A.K.I.の東京ロックVol.4」より

結成以前

パンタとトシはいきなりバンドを組んだわけではありません。一番最初の接点は、高校生の時にパンタが組んだ2番目のバンド(1番目のフォークバンドの名前は公表されていません)である「スキップジャックス」の頃、同じ地域で活動していた高校生バンド(ベンチャーズのコピーバンド)のドラマーがトシだったそうです。家が近所で知り合ったそう。

パンタはその後、ピーナッツ・バターというバンドを組みましたが、短期間で解散しています。ドラマーの兄がホリプロのマネージャーで、オーディションの話が舞い込み受けてみたら合格してしまい、18歳でホリプロ所属になるも、専務と喧嘩して1ヶ月で解散してしまったという……。失神で有名になったGSバンド「オックス」の後釜を期待されたものの、長髪でサイケデリックバンドを志していたピーナッツ・バターの方向性に齟齬が生じたようです。

さらにパンタはこの後、弘田三枝子のバックバンドMOJOに在籍します。MOJOは弘田がいないときも独立したバンドとして活動しており、パンタはヴォーカリスト・オーディションに合格して加入。その頃のトシはバンドボーイとして他の色んなところで活動していました。MOJOのメインはハコバン活動で、いわゆるディスコなどで演奏することですが、リズム&ブルーズの曲を多く演奏し、猛烈にしごかれたそう。

そしてパンタの知り合いの渥美さんという人(のち四条家の事務局長をやってるとのことで、渥美正尚と思われる)からGSバンド「ヴァン・ドックス」のリーダー千葉正健を紹介され、バンドをやろうと声をかけられます。パンタはトシを誘い、一緒にスパルタクス・ブントが結成されます。千葉(key)・パンタ(ba、vo)・トシ(dr)の3人によるオルガンバンド。ただ、千葉のやる気があるんだかないんだかわからない煮え切らない態度で活動が思うようにいかずパンタに不満が募り、3~4ヶ月で自然消滅。パンタは大学に戻ります。

※このスパルタクス・ブント時代に、末期GSグループ「ダイナマイツ」のメンバーにパンタが〈一緒に日本語のバンドをやろう〉と話しかけたところ、〈鈴木ヒロミツのほうがいいんじゃないか〉と返ってきて実現しなかった逸話があるそうです。ダイナマイツのメンバー=山口冨士夫が村八分を結成するのはその少し後。

そして大学に戻った二人が、もうアマチュアでいいから自分達で好きなバンドをやろうとして組んだのが頭脳警察でした。

「ロックうんぬんっていう観念もなかった。18歳まではまだコピーが楽しかったんだ。でも、ビートルズ、ストーンズ、アニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループとどんどん黒っぽいほうに行って、ジョン・リー・フッカー、オーティス・レディング、サム・クック、その辺まで行って、”あ、これは駄目だ、血が違うわ”って気づいて、18歳の時、悩みに悩んだ末に英語の歌を捨てたんだよ。で、血が違うと思った時点で自覚が始まり、自覚が始まったと同時に日本語のオリジナルへの意識の芽生えがあったと思う」

『ロック・クロニクル・ジャパン』vol.1(1999-07-05)p88、PANTAインタビュー

なお、スパルタクス・ブントの千葉さんは、1972年2月15日に新宿駅西口で鋲打銃で警官を狙撃する事件を起こして現行犯逮捕されています。連合赤軍が銃撃戦を行ったことで有名なあさま山荘事件は2月19日から。70年安保成立を阻止できなかった新左翼の革命運動を1970年代にも続けるのならば、向かう先は過激化しかなかった、という当時のムードがわかります。1970年3月の共産主義者同盟赤軍派によるよど号ハイジャック事件の実行犯の一人に裸のラリーズの元メンバーがいたのは有名ですが、革命的な音楽をしたいのか、音楽は革命の手段なのか、そんな選択肢がパンタの周辺にもあったのかも……。

※パンタらは1968年に関東学院大学に入学しています。ここは当時、赤軍派の関東拠点地でした。

1969

すでによく知られていることだが、オレが昔やっていた頭脳警察という名前はこの『フリーク・アウト』に収められている「フー・アー・ザ・ブレイン・ポリス」から付けられた。当時、どうしても日本語のグループ名をつけたいと常々思っていたオレは、格好のアイデアをざっぱから頂くことになった。感謝せねばなるまい。マザーズ・オブ・インヴェンション(発明の母)、転じて頭脳警察の母である。

『ロック名盤カタログ』(1990-09-01、JICC出版局)p72、PANTAによるフランク・ザッパ『フリーク・アウト!』の解説より

1969年にパンタ(vo)、トシ(ds)、左右栄一(g)、粟野仁(g)の4人で頭脳警察が結成されました。バンド名はフランク・ザッパ率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム『フリーク・アウト!』収録曲「Who Are The Brain Police?」から採られました。パンタは当時、ザッパやファッグスを好んで聴いており、それらに影響を受けた日本語のオリジナル曲をやろうとしたのです。当初は政治的な何かをやろうとしていたのではありませんでした。左右栄一はのちファーラウト(ファー・イースト・ファミリー・バンドの前身)に加入しています。

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