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ラフ・トレード・ジャパンについての覚書(付録:日本盤ディスコグラフィ)

英国のインディレーベル「ラフ・トレード」が日本にどのように入ってきたのかは個人的な興味の対象だ。ラフ・トレード自体への興味もあるが、それが日本にどのように持ち込まれたか。これは言ってしまえば「日本にどのように英国のポスト・パンクが持ち込まれたか」を考えるのに等しい。ラフ・トレード以前にポスト・パンクを象徴するレーベルはないからだ。……いや、厳密に言えばポップ・グループの1stを出したRadar Recordsがそうかもしれないが(同レーベルはワーナーから国内盤が出ている)、基本はポップパンク、パブロック、ニューウェイヴのレーベルなのでここでは外す。ザ・ご都合主義。

おさらいすると、1976年にジェフ・トラヴィスがロンドンで開店したレコード店「ラフ・トレード・ショップ」のレーベルとして1978年にスタート。1982年に店から独立したレーベルとなる。ジェフは1983年にはラフ・トレードを去っており、新たにブランコ・イ・ネグロというレーベルを始めた。その後、財政難に陥ってラフ・トレードがなくなったり、トラヴィスが発掘したザ・ストロークスやザ・リバティーンズのブレイクで復活したりというのはあるが、ここでは話を最初期に絞る。ちなみにいま検索するまで忘れていたのだが、ラフ・トレードは俗語で男娼、ブランコ・イ・ネグロはスペイン語で白と黒という意味であった。

日本ではジャパン・レコードが1981年2月から配給を行っていた。ジャパンレコードの専務は三浦光紀。ラフ・トレード事業の担当は芹沢のえと及川有正。この3人が日本にラフ・トレードを持ち込んだ、というわけである。もちろん、それより前に1979年から下北沢のレコード店「五番街」にはスティフ・リトル・フィンガーズのアルバム(ラフ・トレードのLP第一号)が輸入盤として並んでいたのが広告から確認できる。あくまで日本盤として持ち込んだ、という意味だ。ここではこの3人がどのようにラフ・トレードと関わったのかを見ていきたい。ちなみにジャパンレコードの初期の流れは下記のようになっている。

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2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定の定額マガジン(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。あとnoteの有料記事はここに登録すれば単体で買わなくても全部読めます(※登録月以降のことです!登録前のは読めない)。『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』も全部ある。

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